3月11日、シーシェパードは岩手にいた | "THE COVE" 反捕鯨運動の実態

3月11日、シーシェパードは岩手にいた

”空と海11”の仲間の一人、泉Izumiが
太地に滞在したシーシェパード、スコット・ウェストの
3月11日、岩手県大槌町で遭遇した大震災の事を綴った記事を日本語に翻訳してくれました。
ウェストの文章が下手という事もあって、翻訳しにくかったようです。
泉Izumiありがとう!お疲れさま!!

レンタカーを借りて行動していた事や、
地震がおきたあと、きちんと行動出来ている事からしても
すでに地理は把握していたようです。

被災地の人々から受けた親切に感謝の言葉を書いていますが
最後もイルカ漁の漁師さんたちへの侮辱の言葉で締めくくられている事や
またやって来た事からも、さほど感謝はしていないような印象を受けています。
その部分の英語原文も載せました。


しかし、みなさん御存知の通り、あのすさまじい被災の中で
彼らに対し誠実にふるまった現地の人々の人間性に感動するとともに
心から尊敬の念を抱きました。
いまなお、崩壊した故郷を目にして辛い思いをされている人々の所へ
またしてもやってきたシーシェパードに対して改めて強い怒りを感じています
                                    陸Riku




http://www.seashepherd.org/news-and-media/news-110312-2.html

シーシェパード、大槌町にて震災を目撃する

世界最大規模の鯨類殺しの実態を暴くことを仕事とする私達にとって、
この日はごく普通の一日として始まった。


昨夜、3人の新しい“コーヴ・ガーディアン”達が仲間に加わった
マーリー、カリッサ、そしてマイク。
我々6人は町に出て、強風の中で捕鯨船が漁に出たかどうか見に行った。
2隻が出港していた。
そこで、私たちが来るのを待っていた岩手県警の警官達がいた。


沖に出た船のうち一隻が小さな魚を運んでくるのを見とどけた後、
私達は新しいガーディアンたちに大槌港を見せて回った。
警察もついてきたので、車三台で港を行ったり来たりした後、
港の中央にあるドックで止まった。


私達はここに来てから何回か地震を経験していたし、
自分は以前サン・フランシスコ湾付近に居住していた経験もある。

しかし今回の地震は今まで経験したものをはるかに超えるものだった。
車が揺さぶられて、立っているだけで精一杯。

私がそこから逃げようと提案すると、全員が賛成した。
そこの桟橋付近には、いくつかの水産加工場があり、
そこから出てきた従業員たちが防波堤へ向かっていた。


警察が唯一の出口で立ち、みんなに早く水門をくぐるようにあわてて催促していた。


私達はそこを通り抜けた。
防波堤と水門はとてつもなく大きく、軍の砲撃にも耐えられそうに見えた。
壁は高くそびえ立ち、町の港付近全体を囲んでいた。

私達は、海岸沿いを走る細い道を使って町の南側へぬけると、
イルカ加工場を見張るためにいつも行く場所へ出られることを知っていたので、
そこへ向かった。

防波堤の内側沿いを走っていると、水門が閉められるのが見えた。
たくさんの人たちがしっかりとその役目を果たしていた。
目的地へ着くと、消防車1台と地元民を乗せた車6台ほどが後から続いてやって来た。


間もなく潮が引き、また満ちてきた。
消防士が、この満ち引きが何度か訪れるだろうと教えてくれた。
水はまたすぐに港に押し寄せ、防波堤の海側はまたたくまに海水で満ちた。
あっという間の出来事だった。
水はもう一度海底近くまで引き、引いていく水の上から黒い水の壁が勢いよく迫ってきた。
そして最初の波よりも速く増水し、防波堤を乗り越えた。

その後も水は丘の周りや谷間、そしてはるか向こうの奥地にまで上がっていった。
このような波が数回にわたって訪れ、その間にも引っ切り無しに余震が続いていた。


夜になって暗くなり、丘から車で降りることが不可能なことが分かった。
道はがれきで閉ざされ、後になって道そのものがすっかり消えていたことに気づいた。

消防士達と地元の住民は、愛する人たちを探すため丘を越えて歩いて行った。
この時点で、携帯電話は全然繋がらない状態だった。
私達6人と、偶然近くの町から訪れていた若い女性が残された。


その後、雪が降り始めた。
たくさんの山火事や被災住宅の火災によっておこされた灰も、雪と混じって降ってきた。
煙で息が詰まりそうだった。


私達7人は車の中で過ごした。

雪が止んだ後、周りの状況を把握できた。

下にある港では、まだ水が満ち引きしていた。

家や車、燃料タンク、舟、漁業道具、そして私物等でできた瓦礫が、
薄暗くなった光の中で渦を巻いていた。

少なくとも1体の遺体も目撃した。
それは後になって木の枝に引っかかって止まっていた。


いきなり、瓦礫の中から女性の助けを求める声が聞こえた。
薄暗い日暮れの中、水面に浮く瓦礫に乗った彼女の輪郭だけ見えた。

私達はあわててロープを探し、ボートも漕ぎ出そうとしたが無駄だった。
同行していた日本人女性が彼女に声をかけた。
マイクがいそいで道路へ戻り、放置されていた消防車に乗り込み、
私達がいるところまで動かした。
消防車のラジオを使って、女性が助けを求めていることを当局に伝えた。
しかし、だれも助けに来なかった。

続いて、私達は波の中で顔を出したり隠したりしていた防波堤の上を伝おうと試みた。

  (※ たぶん防波堤の事と思われますが、現場の状況がわからないため
     正確につかめませんでした。泉Izumi)


賭けだったが、この方法で彼女に近づけるかと思ったからだ。


女性は、自分の乗った瓦礫を操作することが出来ず、私達が綱を渡すことも不可能だった。
酷い有様だった。
雪が再び激しく振り出し、
女性の乗った瓦礫は速い潮の満ち引きとともに繰り返し前後に流され、
彼女の声が聞こえたり聞こえなくなったりした。

この時にはあたりはもう真っ暗だった。

消防車の2つのスポットライトを点け、彼女を探した。
遠くに、2隻の舟が現れた。
私達は2時間近くかけて彼らの気を引き、女性がいると思われる場所へ誘導しようとした。
彼らは彼女のすぐ近くまで接近したが、また離れてしまった。

あまりのショックに唖然とした。

その後、瓦礫の一群はは勢とよく沖へと流されて、彼女の声はもう聞こえなくなった。
ただ、1隻のボートが瓦礫を一緒に流れていったので
彼女はそのボートに移って助かったかもしれないと望んでいる。


気温は氷点前後だった。
私達7人は、2台の小さな車の中で眠れない夜を過ごした。
幸いなことに、燃料タンクは満タンだったので、時々ヒーターをつけることができた。
栄養補助食品と水も持っていた。


日の出が訪れ、それとともに余震や煙っぽい空、そして昨日の消防士たちも訪れた。
彼らは林の中で数人の避難者を発見したようだ。

私達は荷造りをして車の鍵を閉め、脱出の旅を始めた。

丘のふもとに下りると、道路の被害をより把握できた。

消防士達がどこへ行くのか分からなかったが、
彼らが着いてくるほうに指示していたのはたしかだった。

道は泥や水、瓦礫で通行不能だったため、丘を登ることになった。
その丘の斜面はとてもきつく、私達はいくつかの持ち物を置いていかざるを得なくなった。
ようやく下り坂になり、海とつながっている小さな谷へと降りていった。

谷間にある全ての家屋が倒壊していた。

私達は焚き火とその周りに集まった人々を見つけ、
彼らから瓦礫の中から拾われた鍋で炊いたご飯とスープをもらった。

この人たちは本当に親切にしてくれた。
彼らは壊滅的な被害や死に囲まれ、自分達の将来もあやふやなのにも関わらず、
僅かな食料を分け与えてくれたのだ。

しばらくすると、彼らは瓦礫の中から幕営するための材料を探し始めた。
足手まといになりたくはなかったので、彼らと別れて道を進むことにした。
消防士達はそこに留まるように勧めたが、私達は彼らに感謝し、
持っていた数枚のタオルと掛け布団を手渡して道を進んだ。


私達が歩きながら目にした光景は、
よくある“世界の終わり”の映画のセットよりはるかに酷かった。

大槌町はまあまあ大きな町だったが、それがほとんど消えていた。

地震、津波、そして火災が全てを奪い去っていた。

行き止まりや危険な場所がたくさんあり、肉体的にも精神的にも大変な道のりだった。

説明できないほど無残な有様だった。
ようやく、火が燃える場所を通り越し、道を見つけた。

辺りはまだ瓦礫だらけだったが、これで歩きやすくなった。

見かけた人々のほとんどが、ショックに陥っている様子だった。


全国の被害の状況をまだ知らなかったので、アメリカかカナダの大使館が
人を遣わして待っていてくれると願っていた。

しかし、警察官に問いかけてみて、自分達がどれだけ孤立した状態にいるのかが分かってきた。


行き先を宿泊していた戸野のホテルに決定した。
戸野は大槌町から32マイルほどの距離だが、山道のため車でも片道90分はかかる。
警察官は、道がふさがれているので戸野には行けないだろうと言っていた。
仕方なく、荷物を持って歩き始めた。

この周辺にも瓦礫が散乱していた。


数マイル歩いた後、とても素晴らしい男性に出会った。
彼は被害を受けた自分の村の中で、私達を車で戸野まで連れて行ってくれる人を探してくれた。

車のレンタル業者は全て被災し、レンタカーを借りることが出来なかったからだ。
彼は私達を内陸へ連れて行ってくれる2台の車を見つけた。
うち1台の車を所有していたカップルは全てを失っていたが、
それでもこの私たちを助けてくれた。

ロードハウスで降ろしてくれて、そこにいるように言われた。
男性はそこを去ったが、しばらくするとバンに乗った女性を連れて戻ってきた。
この女性は経営する店を失っていたが、品位のある暖かい態度で
私達を山の向こうの戸野まで乗せて行ってくれた。


その日、私達に向けられた優しさと寛容の心は説明できないほどのものだった。
これによって、日本人は優しくて温かみのある人たちだということを確信した。
太地町や岩手のイルカ漁師の変態どもの行動が標準的な日本人ではない。
日本がイルカの惨殺を止め、海洋保護におけるリーダー的存在になれる希望はかなりある。

Speaking of Taiji, we learned today that the tsunami came there too.
The fishing boats and molesters’ boats took to sea to ride out the wave.
No thought was given though to the dolphins trapped in the pens in the harbor.
Six times the water receded and returned, but did not flood the town.
Six times, the captive dolphins were smashed against rocks and screamed in agony.
At least 24 of the dolphins perished.
Any farmer would release livestock when confronted with a fire.
The souls of the dolphin molesters are without light.

太地町についてだが、あそこにも津波が到達していたことを今日知らされた。
変態たちは津波を乗り切るために、ボートを沖へ漕ぎ出したらしい。

いけすに閉じ込められていたイルカたちの事はまったく気にかけていなかった。
津波は6回押し寄せたが、町は浸水しなかった。
イルカたちは6回岩に打ち付けられ、苦痛の悲鳴をあげた。
少なくとも24頭のイルカが命を落とした。

農家でも火事にあった際には家畜を逃がしてやるのに。
イルカ変態たちの心には光がない。

  (※ 最後の”光がない”という表現は、おそらく”真っ暗”
     漁師さんたちには慈悲の心が無く残酷だ、という意味あいの事を
     言っているのではないかと思います。

    彼らはしばしば molester と 漁師さんたちの事を言います。
    ”変態”と訳しましたが、日本語にはピッタリ当てはまる言葉がありません。
     しいて言えば、子供への性犯罪のような
    ”強烈な生理的嫌悪感を感じさせる性犯罪者に対する表現”という感じでしょうか。
     とても嫌な言葉です。冗談で使ってはいけない言葉です

                               泉Izumi )