起業して不安はあるもののワクワクしている50歳・IT技術者・中小企業診断士のブログ

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これまで仕事などを通じて多くの方々と接する中、想像を超えた酷く横柄な態度をとられ、イラつきmaxに陥ってしまったことが幾度かある。そんな時、この状況は自分で制御できることではない、彼は恐らく私ばかりではなく私以外の多くの人にも同様のオラオラ!を発揮し、残念感を振りまいていたに違いない。そんなふうに思うことで自分の怒りをなだめていた。可能な限り受け流しておくに限る。おそらく、そうなのだから。

 

このような残念に反応しすぎてはいけない。自分に向かってくる力を利用して相手を投げてしまう柔道家のように。自分の物差し(価値基準)をしっかりと認識し、自分の価値をしっかりと認めてあげて、掻き乱されることなく、しなやかに穏やかにいられることが大切だ。何を言っちゃってるんだ???と、脇に捨て去り、上手くやり過ごさなければならない。

 

さらに、そういう自分天動説的な人により受ける残念(屈辱)感を和らげる方法は距離をとることである。自分が気分を害されてしまう相手と仲良く付き合っていく必要はないし、むしろ積極的に距離を取らないと精神衛生的にキツくなる。生産性に関わる問題であるし、そういう残念な人は他者の時間は自分が使って当然だと思っている節があるから、気をつけていないと大切な時間を当然のように消費されてしまう。

 

 

そのような残念な人は、他者よりも自らが理不尽に低く扱わられていることに不満に感じているように思う。だから他者に対して妙に高圧的だったり、異常な間違い探しにより相手を貶めたり、相手から奪うことに抵抗がない。だって自分は「可哀想」である一方、周りは随分と調子良く立ち回ることで上手くやっている、そんなふうに取り違えているのだから。上司の度を超えた自らへの圧力を立場の弱い下請けに転嫁しすぎることに全くの違和感を持たない残念な守銭奴のように。多くの人が多かれ少なかれ理不尽を感じながらも正当な評価を得るべく必死であるというのに。

 

以上のような残念の根底には過度な競争への固執、つまり自分が他者より優れている、稼いでいる、持っている、そんなふうに感じていたい「エゴ」に起因しているように思う。僕も格好いい車に乗っていたい、素敵な家に住んでいたい、高い社会的地位を得ていたい、そんな思いはある。でも、そのきらびやかさを大っぴらにSNS等でひけらかすような気にはならない。何事もほどほどでいい。他者からの羨望、評価、そういうのに執着しすぎることなく、自分が心地よく感じられることを何よりも大切にしていたい。

 

森の中で迷った旅人は、うろちょろしたり、立ち止まったりせず、一つの方向に歩み続けるべし。最後には森から抜け出せるはずだから。

デカルト「方法序説」より

 

まずは自分なBECK