昔から、「ゲーム子」だった。
最初に買ってもらったゲームは、5歳くらいの頃のSFCの「スーパーマリオワールド」だった。
それから、スーパードンキーコングや、桃鉄や、パワプロ等を買ってもらって、家でやっていた。
なかでもパワプロは好きで、小学生のときは暇を見つけては遊んでいた気がする。

中学生になってパワプロから離れることになったものの、今は昨年11月に発売されたパワプロ2014を買って、細々とやっている。
パワプロが20周年を迎えたということで、どうしても欲しくなったのだ。

最初に私がやったのはパワプロ3であったが、それに比べるとグラフィックは格段に進歩している。変化球も種類が増え、リアリティーは確実に増している。
他方でサクセスなどは昔のシナリオの方が良かったと思うこともある。
もっともそれは「昔は良かった」という類の話なので割り引いて考える必要があるだろうが。

今年もパワプロは発売されるのだろう。
面白いものになるのを期待している。
昨日見た『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、私は同番組をあまり見る方でないが、これまで見たなかで特に面白いと思った。

高松のうどん職人を取り上げていて、彼は日々の天気や湿度に合わせて水や塩の量、打ち方等を変えるそうだ。
そういう地道な努力を継続していることに、月並みな表現ではあるものの、尊敬の念を覚えた。

うどんは食べればすぐに無くなってしまうものだが、それをより美味しく作るために、ここまで努力を重ねている人がいる。
一方、自分が目指している法曹という仕事は、人の人生を大きく変えてしまうこともありうるだけに、尚更精進を重ねていかなければならない。

がんばろう。
土曜は、中村鴈治郎の襲名披露公演に行ってきました。

普段から歌舞伎を観ているわけではないけれども、偶に行くと良いものだなと感じます。
ただ、やっぱりある程度の前提知識があった方が、より楽しめるのだろうとも思います。

詳しくなりたいところ。
今日と明日は自由研究日で。

事務所の面接に行ってきました。
非常にフランクな話を聞くことができて良かったと思います。
茂木健一郎「日本とは、日本語のことである」
https://www.facebook.com/kenichiromogiqualia/posts/689239194536074


茂木氏には何度かお会いしたことがある。
非常に弁の立つ人だという印象を受けた。

尤も残念に思った点も幾つかあった。
その1つは、言動に一貫性がないことだ。
私が観客として参加した或るパネルディスカッションで茂木氏は、共に登壇していた孫崎享氏について次のような発言をした。

「孫崎さんの『戦後史の正体』での分析は、非常に精緻なものです。
だって孫崎さんは東大法学部に行って、そこで在学中に外交官試験に受かって、外務省の要職を歴任した人ですよ。そんな人の言うことが受け入れられないのはおかしいですよ!」

会場には笑いが起こったが、私は非常に落胆した。
茂木氏はいつも東大の入試制度や東大法学部での教育が、いかに間違っているかを主張してきたはずだ。そして肩書きを殊更に重視する日本社会も批判してきたではないか。
それなのに、東大法学部出身で外交官だったという肩書きを挙げて、なぜ孫崎氏を賞讃してしまうのか。

もしかしたら『戦後史の正体』を読んで茂木氏は「これは酷い本だ」と実は思っていたのかもしれないし、或いはそもそも『戦後史の正体』を読んでいなかったのかもしれない(上記のコメントは、『戦後史の正体』を読んでいなくても出来るものである)が、しかし孫崎氏をその場で何とか褒めなくてはならないと思ったので、上記のようなコメントを発したのかもしれない。

そうだとしても、従来の主張に反するコメントを自分から発したことには変わりない。
この人に「プリンシプル」はないのか。そう思わずにはいられなかった。



本題の前にこの話をしたのは、「日本とは、日本語のことである」というテクストを、私が上記のような著者に対する「先入観」に引っ張られているために正確に読解できていない恐れがあるので、そのことを予め断っておこうという意図からである。


本題に入る。
「日本人」とは誰を指すと理解されているのか。
法的には「日本国籍の保有者」ということになるだろうが、一般的にそのような理解がされているわけではなさそうである(2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏は、受賞時にアメリカ国籍保有者であったが、マスメディアが「(アメリカ国籍の)日本人」と紹介していたことは記憶に新しい)。

あるいは、容貌によって「日本人」であるかが決まるのか。
昔はそういう観念が強かったのかもしれないが、国際化が進んでいる現在では一般的でなくなりつつあるように思える。
母親がドイツ人の酒井高徳に対して「彼は日本人じゃない」と言っているサッカーファンは、あまりいないのではないか。

そこで茂木氏は、「日本人」とは「日本語」を話す人のことだと定義している。
これは、国籍という地位や容貌という先天的な要素ではなく、「何をしているか」によって日本人か否かが決まるという考えであると理解することができる。その限度で私は茂木氏の主張を支持する。

しかし私は、日本語を話すことは「日本人」の必要条件であっても、十分条件ではないと思う。
例えば、在日コリアンの中には日本で生まれ育ち、日本語を母語としているにもかかわらず、「日本人ではない」と言われて差別される人が少なからずいると聞く。
「日本人」=「日本語」話者という定義では、このような事実を説明することができない。
茂木氏が個人的理解としてそのような定義を採用するというのは自由だが、そのような観念が共有されているというわけではないだろう。


私は、「日本的」な価値観や行動様式を体得している人が、日本人と呼ばれているのだろうと思う。
何を「日本的」と考えるかは人によって違うと思われるが、概ね「協調性がある」「他者を思いやる」「散っていく桜を美しいと思う(言うなれば「もののあはれ」を解するということか)」等が挙げられ、「日本語」を話すことは重要であるもののその一要素であるというべきだろう。

「日本人」がそのように観念されているからこそ、例えば集団内で自分の権利を声高に主張する人は「日本人ではない」(ネットでは「在日」と呼ばれることもある)と批判されるのではないか
(そうすると、在日コリアンに対する差別という問題は、「日本的なもの」を受容していないと理解される人たちに対する差別であるから、民族問題という理解は必ずしも正確ではないのだろう)。


茂木氏の「日本とは、日本語のことである」というテクストに対するもう一つの不満は、そこで言う「日本語」とは一体何なのかという問題が意識されていないように読める点である(尤もこの点に触れると長くなりすぎるので触れなかっただけかもしれない)。

茂木氏は「日本」が多様だと言うが、「日本語」自体も多様である。
言うまでもなく各地に方言があるからである。
茂木氏は、「日本語」として何を想定しているのか。


おそらくそれは標準語と呼ばれるものだろう(ウチナーグチや東北弁などではないはずだ)。
標準語は、東京・山の手の言葉を元に明治政府によって上から作られたものであると言われている。
そうすると茂木氏の主張は、国が東京の言葉から人工的に作った言葉をマスターしているか否かが「日本人」かどうかが決まるという内容であるから、「中央集権主義」や「東京中心主義」に巧まずして支持を与えているということにもなりうる。


茂木氏がどこまで考えたうえでこのテクストを書いたかは分からないが、これはかなり根深い問題に関わっているように思われる。

最近は夏目漱石の本を読むことが多い。

漱石を最初に読んだのは高2の1学期で、現代文の教科書に載っていた『こころ』が授業で扱われたのがきっかけだったと記憶している。
それが面白かったので、夏休みに岩波文庫の『こころ』を買って読んだ。

当時はなぜKが自殺したのかも、先生が自殺した理由も分からなかった。
恋愛で友人に出し抜かれたからといって死を決意するものなのか。
主人公に出会うまで、先生はKを死に追いやってしまった過去に耐えて生きてきたにもかかわらず、なぜ主人公との交流をきっかけにこの世から去ることを選んだのか。
当時はわからなかったし、今も自分なりの明確な答えを見出だしているわけではない。

そういった人間心理の複雑さを描写していることもさることながら、「金をめぐる問題」に作品中でシリアスに向き合っていることも、漱石の優れた点であると思う。
例えば『それから』において、銀行員が公金の使い込みをしたので、平岡が支店長から金を借りたうえで、それを穴埋めしたことが描かれている。
なぜこのような不自然な金の動きになるのだろうか。
そして支店長に責任が及ばないように、平岡は銀行を辞める。
金の絡んだ怪しげな世界が、そこにはある。
(以上述べたことは、木庭顕「夏目漱石『それから』が投げかけ続ける問題」(同『現代日本法へのカタバシス』所収)の受け売りである。)


優れた文学作品は、おしなべて眼前の問題に逃げずに対峙している。
自分も小説を書くかはともかく、そのような姿勢を身につけたい。
地方にいる大学時代の友人がさいきん精神的に病んでいるようだ。
どうしたらいいものか。
以前バイトをしていたところの送別会でした。
いまもこういう集まりがあるのは良いところですね。

明日は、ひとつの山場なので頑張ろうと思います。
デスクワークを続けていると背中や首に張りを感じることが多いため、最近は月に1から2回マッサージに行っています。
きょう行ってきました。

だいぶ楽になりました。
これで多少は頭も冴えると思います。
今週はだいぶ暖かくなり、いよいよ春が近づいてきたという実感がある。
何となく、心も軽くなりつつある。
花粉症はないので、その点での心配もない。

小学校の頃は、アレルギー性鼻炎で通院していたのだけれども、
成長してからはそういうことが一切なくなった。
マスクはせず、薬も飲んでいない。

「大人になって急に花粉症になる人は多い」と聞くのだが、
大人になって花粉症の症状がなくなった自分は、一体どうなっているのだろうか。