京都暮らしの日々雑感 -3ページ目

石田瑞麿著『往生要集入門 悲しき者の救い』講談社学術文庫

浄土教の歴史を学ぼうとするならば、

先ずは源信著述の『往生要集』を繙かないといけない。

源信というと、

有名な紫式部が著した『源氏物語』の『宇治十帖』に、

その姿を現すことでもよく知られているのだが、

つまり、この『往生要集』を以て、

法然の浄土宗への橋渡し役を演じたとみるか、

叡山浄土教思想の最終形態を露わにしたものと理解するか、

その思想史上での位置づけはいろいろと異なってくるんだろうが、

取り敢えずは、

読んでみないことには始まらないわけで、

その入門ガイダンス本として、この石田先生の数多の諸著作が既に刊行されている。

 

叡山浄土教思想というと、法華経と浄土三部経がセットものとして信仰され、

空也上人の庶民層への弘布活動とか、

良忍上人の融通念仏思想とか

様々に分厚い積み重ねがなされてきていた背景があるのだが、

法然上人の選択本願念仏思想によって、

すべてが口称念仏に収斂されることによって、

浄土教史それ自体がひどく単純化されてしまったような感もしてしまうのである。

 

浄土教の教えによると、

この世の衆生はことごとくすべて浄土に往生できるとされ、

それが、阿弥陀仏の本願力によってもたらされるものである。

地獄という存在が想定されるのは、

いわゆる六道思想による輪廻の想念によってもたらされるものなのだが、

阿弥陀仏の本願力というものはその輪廻を断ち切ってしまうものであるから、

地獄に墜ちるといったことはあり得ないことなのである。

しかしながら、国宝の『地獄草紙』を持ち出すまでもなく、

『地獄』という観念が今日に至っても人々の想念を捉えるのである。

「現世即浄土」という観念が成立するのであれば、

どうじに「現世即地獄」という観念が成立して当然なのだが、

「現世即地獄」と言ってみたところで、それがどうした?という話にしかならないから、

敢えてどうこうという話にする必要もない。

 

 

ハサミゲージの寸法原理

ハサミゲージの測定部というものは、

一定の面粗度で仕立て上げられた二次元の基準面平面と、

その対向面である通り部と止まり部の二次元平面との三次元距離関係で形成されている。

その三次元の距離関係をブロックゲージで測定するから、

ブロックゲージという三次元的立体的な測定基準で用いられる。

 

そのブロックゲージというものの寸法精度とは、

ブロックゲージラップ盤というもので加工されるのだが、

完全な水平平行平面で加工されるというものではなくて、

その検査成績書によると、大体0.01㎛(10万分の1mmのオーダー)の偏差が掲記される。

ブロックゲージの実際の使用では、複数個の組み合わせで寸法を構成するのだが、

その組み合わせの仕方によって、全体の寸法偏差が異なってくる尾ことになる。

従って、ざっくりとした言い方になるが、

ブロックゲージを用いた寸法計測では、±0.2㎛の『曖昧さ』が含まれることになる。

 

ハサミゲージの測定部の寸法というものは、

JISによる、通り部と止まり部にあっては、

その『摩耗しろ』と『製作許容差』とが認められ含まれている。

従って、この『摩耗しろ』分にあっては、

ゲージの素材それ自体の耐摩耗性がどうかという観点から、

例えばば、SK5世とダイス鋼製とで同じ磨耗しろを設けねばならないかどうかは一つの論点になるし、

ゲージ測定部の製作公差の設定も、その製作者の技能力の差をどこまで組み込むかによることになる。

そういったことをいろいろと考え合わせれば、

JIS規定でのその理解おあり洋も、少し立ち止まって考えなければならないわけである。

 

通常、ゲージの製作にあたっては、

寸法を仕立て上げた段階で、

その寸法値が製作公差内に収まっているかどうかが判断されるのだが、

そうではなくて、最初から、特定の目標寸法値に仕立て上がるように加工していくという技法がある。

kの両者は、一見して同じように見えながら、

製作技法としては全く別物だと理解すべきなのである。

 

ジャスト寸法ゲージの製作

新規製作の注文書が寄せられて、

その中に、ゲージの測定部の製作公差として、

+1㎛/0と指定されているものがあった。

 

そもそも、現行JIS二先立つ旧JISが制定された際に、

その最も厳しいIT5級の規定では、

そこでの製作公差は±1.2㎛であったから、

その当時でさえ、この公差をクリアできるゲージ屋が何人いるかが話題となっていた。

現行JISが制定された際に、

このIT5級の公差規定を定めても、

それに対応できるゲージ屋が存在しているとは考えがたいと、

IT5級の公差規定をJISの下では制定せず、

また、いっそう厳しい製作公差を求めるべき検査用ハサミゲージの規定を外してしまっていたのである。

しかしながら、現行JISの規定の下にあっても、

IT5級に該当するハサミゲージの需要は依然として継続し、

対応できるゲージ屋は対応できるように努めてきたのである。

 

さて、ゲージの寸法というものは何ぞや?という問題なのである。

抽象的・一般的にゲージの寸法が存在しているのではなくて、

ハサミゲージの測定部の寸法というものは、

その平面度と平行度、及び面粗度という3つの要件に基づいて構成されているものである。

寸法というものは、この3の要件に基づいて実現されるものの上澄み部分であるという言い方ができる。

これに対して、JIS規定等で定められている寸法値というものは、

ゲージの摩耗しろ及び本来の製作許容差を合算したものなのである。

従って、ゲージ素材の耐摩耗性が異なってくれば、

また、ゲージ製作に際しての製作許容寸法差を更に絞り込めることができたなら、

ゲージの一般的な製作公差規定というものも変わってくると考えるのは容易なのである。

 

以上のような考慮から、

ハサミゲージの材質としてダイス鋼を採用すべきことが直ちに決まる。

また、求めるべきゲージ仕立て上げ寸法値が±0.2㎛の曖昧さの範囲内に収めるべしということになるから、

それに見合った面粗度で仕立て上げられないといけない。

±0.2㎛の曖昧さというのは、

JISの規定によるブロックゲージの寸法精度の曖昧さを反映するもので、

つまりは、ジャスト寸法ゲージのジャスト寸法というものは。

JIS2級ブロックゲージ並の精度条件を備えるべしということを意味する。

 

ハンドラップ技法というものは、

そこまでの精度実現が可能な技法なのである。

 

従って、ジャスト寸法ゲージというものは、

ハンドラップ技法で可能な精度実現を目指したものであると言い替えることができる。

 

オリオン・クラウタウ著「隠された聖徳太子 近現代日本の偽史とオカルト文化』ちくま新書

「偽史」というからには、

「東日流外三郡誌』」や『竹内文書』も取り上げるのかと思ったのだが、

それは関係ないらしい。

メインとなるべき聖徳太子信仰を取り上げるのかと期待したのだが、

聖徳太子と秦氏との関係がどうこうと言った常識的なことは取り上げるのだが、

余り掘り下げられるわけでもない。

むしろ、論議の中心となっているのが、

梅原猛先生の『隠された十字架』であり、

五島勉氏のノストラダムス本であり、山岸凉子氏の「日出処の天子』であったりする。

だから、どうもその主旨が明確ではないのである。

 

聖徳太子の時代については、

例えば、蘇我氏についての評価として、

開明派であり、国際派であり、日本の歴史を主導した政治勢力であったとする再評価がなされ、

天皇家の支配を壟断する不敬な独裁者ではなかったとする見地が出されている。

その蘇我氏の評価の進展によって、

聖徳太子の役割とその功績も、ある程度変わってくるのではないかと思えるのだが、

そこまでは研究も進められてはいないようなのである。

17条の憲法にある『和を以て貴しとなす』は、

ある種の国体論として、仏教国家の宣明文のように捉えられるのだが、

実は仏教のみならず儒教の思想を取り上げられていることが指摘され、

単純に仏教国家を目指すものではなかったことが理解されている。

 

聖徳太子の事蹟について、

聖徳太子という人格は『日本書紀』がでっち上げた虚像であるという説が、

大山誠一先生によって唱えられ、

もし聖徳太子伝説を語ろうとするならば、

この否定説を採り上げて一定の結論を示さないといけないはずなのだが、

本書では全く触れられてじゃいない。

多分、著者の手に負えないテーマなんだろうと想像する。

 

オカルト論に逃げ込んで、『良識』を振りかざして難詰するといった方法論では、

何かの成果を生み出せるわけでもないのである。

 

 

1.0005mmブロックゲージ

ブロックゲージ・セットには含まれていないのだが、

単品で1.0005mmの名目呼称のブロックゲージが市販提供されている。

この活用目的としては、

もちろん、0.0005mの寸法を読み取るためのものであるのだが、

ゲージ屋の場合、ハサミゲージの製作工程において、

±0.2㎛の偏差を確認することに大きな役割を果たすものとなる。

 

±0.2㎛の寸法偏差を確認するという作業は、

おそらく人間の感覚能力の上限を画すものであって、

その感覚の習得のためには、

0.1㎛オーダーでのワーク表面の微細加工能力と相伴わなければならないものである。

つまり、ハサミゲージの測定部の測定面というものは、

その『面粗度』と『平面度』『平行度』の3つの要素から構成されているもので、

それぞれの要素が完全に仕立て上げられて初めてその寸法がどうこうと判別されるものであるから、

これらをないがしろにして、ひたすら寸法のみについて云々することは無意義なのである。

 

分かりやすく例示すると、

#600で仕立て和えられたゲージ測定部と、

#6000で仕立て上げられたゲージ測定部寸法とで、

同じく20.000mmと測定できたとしても、

おなじ20.000mmという数値であっても、その意味は全く違うものである。

 

従って、1.0005mmのブロックゲージを活用できる場合というのは、

少なくとも、#4000以上に微細なラップ砥粒で仕立て上げられたワーク面ということが必要なのである。

 

鎌田東二著『予言と言霊 出口王仁三郎と田中智学』平凡社刊

46版350ページにわたる大著であるのだが、

能く立ち寄る書店に配本されているのを見つけて、

早速に購入した。

 

数次にわたる大本教の弾圧事件というのは、

戦前の国家神道体制の下にあっての宗教事件であって、

それだけに、研究書の類いも多く刊行されていて、

現在では、よく知られた宗教事件とされている。

それに対して、

近代日本の海外膨張政策をイデオロギー的に主導した田中智学は、

石原莞爾の関東軍の対満軍事攻略(満州国建国)と、

あるいは、宮沢賢治の法華経信仰と併せて、

国柱会という宗教団体の活動として語られるのだが、

日本近代史上での黒歴史として触れられることにとどまるのである。

しかしながら、近代日本史上における日蓮運動が如何なる経緯を辿ったかは大きなテーマであるからして、

その研究が改めて取り組まれてきているのである。

 

もっとも、日蓮宗としての信仰史、宗派史というものは、

複雑極まるものであるから、

なかなかにすっきりと把握できるというものではないわけで、

ある意味では、戦後の創価学会の歴史との比較対照によって語られるという側面も目立っているのである。

つまり、創価学会・公明党による国立戒壇の否定ということによって、

戦前の国柱会の歴史も、他の日蓮宗宗派も見えなくなったとも言えるのである。

 

それで、いろいろと問題意識をかき立てられるテーマが満載の書籍ではある。

 

鎌田東二先生というと、

私にとっては同世代の宗教研究者であって、

ごく初期の頃から、古神道を中心に研究されてきた方という位置づけだったのだが、

こういった、日本近代宗教史を正面から捉える研究をされるとは思ってもみなかった。

 

「顕注密勘」

京都の冷泉家の「時雨亭文庫」で、

この度、藤原定家の古今和歌集の自筆注釈本が新たに発見されたという。

『国宝級の発見』と評価は当然として、

古今和歌集の研究がいっそう深化されることが期待される。

 

 

近代和歌というと、

明治期には『万葉集』を高く評価する風潮はあり、

あるいは、現代短歌として、『新古今和歌集』を高く評価する向きがあって、

『古今和歌集」に対する評価に関してはもう一つ高いものではなかったと思われるのだが、

私自身の好みから言わせてもらえるならば、

その後の日本人の自然観なり人生観・社会観を規定した勅撰集であったから、

その注釈書として定家の手による作品は、多大なる意義があるものなのである。

私らが生きておられるうちにその翻刻本が刊行されるかどうかはいささか心許ないが、

国文学史上の大発見であることに疑いはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤邦武著『宇宙の哲学』講談社学術文庫

宇宙論の世界ほど面白い世界はないわけで、

そのテーマを扱った書籍が刊行される度に、

目ざとくは見つけて購読している。

本書もその一冊である。

 

宇宙論が面白いというのは、

現代物理学でいう量子力学の世界と、

巨大な宇宙の世界とが、

言うなれば、巨大と極微の世界の成り立ちがイコールで結ばれるという点にあって、

その理解の枠組みとして、

「主体」と「客体」という二分肢説という西欧哲学の枠組みが通用しなくて、

東洋哲学の歴史から構築されなければならないという点が、

特に関心を引くのである・

 

具体的に言うと、

『華厳経』が描き示唆している世界が、

実は宇宙論を論じているのではないか?というのである。

誠にこの世界は『光』に満ち満ちているわけで、

そういう認識がいかに可能であったのかは永遠の謎ではあるのだが。

 

そういう勉強をしていると、

エンゲルスの『自然の弁証法』が問題になってくる。

マルクス=レーニン主義で言う弁証法的唯物論の基本著作なのであるのだが、

さすがに、弁証法的唯物論の見地から、

アインシュタインの切り開いた現代物理学をどう位置づけられるかを、

正面から論じた研究は未だなされていないわけで、

レーニンー『唯物論と経験批判論』を持ち出すまでもなく、

手に負えないのかも知れない。

 

末木文美士編著『日本仏教再入門』講談社学術文庫

通例、この種の入門的概説書の場合、

仏教学プロパーの学者先生の手による共同著作ということになるのだが、

本書では、

頼住光子先生(倫理学)と大谷栄一先生(社会学)という、

異分科からのアプローチを踏まえた、

その意味では、いささか異色の日本仏教論となっている。

もっとも、その記述はオーソドックスなもので、

教科書としては信頼に足る基準書・基本書となっている。

 

文庫版として異色なのは、

各章末に簡単な参考文献表が記載されていることと、

巻末の事項索引が充実していることである。

参考文献表といっても、

ガチガチの専門書の羅列ではなくて、

文庫や新書といった、入手しやすく手軽に読めるものであるから、

入門的初心者にとっては入りやすいガイダンス本であると言える。

 

本書の原版は、

(財)放送大学教育振興会・発行で、NHK放送出版会より発売されたものであったから、

専門的な研究者宛に出版されたものではなかったから、

文庫版として改めて刊行されるということは、

言わば「廉価版」としての刊行であるから、

学術文庫としての刊行の歴史から観ると、いささか異色本ということになる。

 

さて、私の関心からいうと、

近代から現代に至る政教関係であり、

特に社会経済・政治のの変動と仏教の有り様の変動なのだが、

その部分の記述は薄い。

余り研究の蓄積が果たされていないということなのだが、

地域社会の崩壊が仏教にもたらす影響というものが致命的であるが故に、

研究者にとっても座視していていい問題ではないはずである。

 

 

 

「ブギウギ」と「虎に翼」:NHK

「ブギウギ」が終わって、

魅力ある主人公のヒロインのキャラが好ましくて、

結構しっかりと見ていたのだが、

最終段階で、

作曲科の先生が「人形遣い」で、

主人公のヒロインがその人形」と意味づけたのだったが、

実に「アホか!」という脚本なのでありました。

二人の関係は「協働関係」とすべきなのであって、

「遣う者と遣われる者」といった、使役=被使役の関係ではなかったはずなので、

これでは、女性の側の「主体性」といったものがまるっきり捉えられない。

ドラマ全体のコンセプトを、完璧にぶち壊したのだった。

もっとも、先生(弾性)の存在があって初めて、自分の人生もあり得たという、

言わば「男女共生社会」を主張したとも言えるかも知れないのだが、

それほど気の利いたものとはなっていなかった。

 

従って、通俗的なヒロインの出世譚に終始してしまったから、

視聴率も期待したほど出なかったのも頷ける。

 

せっかくの魅力的なヒロインをキャスティングしておきながら、

「無駄遣い」をしてしまったわけで、NHK大坂のドラマ作りの「劣化」を感じるのである。

 

新たに始まった「虎に翼」。

女性がいかに差別され虐待されているかをグズグズと言い募り、

女性にとって結婚とは?と問うという、

50年も昔にはやった問題の立て方を未だに踏襲するという、

時代錯誤というか、陳腐極まるというべきか、

ドラマを観ていると腹立たしいのである。

 

ここで論じられている問題は、

江戸期に武家を中心に主流思想であった儒学=朱子学の反映であって、

維新後には、官僚や大企業のホワイトカラー層が担った思想的所産であったのである。

それに対して、一般の庶民層(商工自営業者など)では、

とっくにそんな問題は解決済みの観念であったのである。

だから、この種の問題意識というものは、

現在では、都市部の大企業のホワイトカラー層での問題意識として残渣している問題で、

私ら戦後生まれの団塊の世代にあっても、

妻たる者は専業主婦として家庭内で家事育児に専念し、

夫たる者は、その家計を十分に充足するべき収入を得ることという、

いわゆる役割分担論にこだわってきたわけである。

だから、「そんな人生で良いのか?」という問題意識を生み出したのだが、

妻を専業主婦とすることこそ夫たる男のプライドであるという、

そういう意識に広く呪縛されてきたのであった。

 

しかしながら、そのような生活パターンが維持できなくなって、

つまり、上級のホワイトカラーという地位を子供たちの世代においても継承しようとすれば、

それなりの生活レベルと教育コストを掛けないといけないのだが、

夫一人の収入では、世間的には高給取りとされても、

とてもまかないきれない。

で、その備えとしてどうするべきか?というのが、

団塊世代の主要な人生観を占めてきたのであったが、

何かうまい方策があったわけではない。

だから、いわゆる専業主婦論というものが成り立たなくなったわけである。

言い替えると、旧前たる儒学=朱子学の伝統思想が成り立たなくなった時代に至ったわけである。

 

ともあれ、NHKのドラマ作りにあっては、

エリートと目される女性が、

官僚機構にあっていかに男性社会の桎梏を超脱していくか?という、

そういった努力の過程を描くというコンセプトであったなら、

何か新しいものを提示できるかどうかに掛かってくるのだが、

枠組みとしては古くさい使い古された陳腐なものであるから、

結論は既に見えている。