11月23日正午、京都での学会に行くため、西門でバスを待っていた。イチョウの葉の黄色が鮮やかだった。理大を出たバスが、保育園前を曲がって来た時、携帯が「惑星」を奏でた。電話に出て、用件が良く分からないことに少し苛立ちを持った口調で受け答えしながら、バスを見送った。いつの間にか、話しながら駐車場の自分の車の前に歩いてきていた。

 電話を切ってから、表情もなく、CDは何がかかっているのかもわからず、紅葉が眼に映っていたが色彩は感じなかった。スピード感も、まったくなかった。ただ、いままでで最も速い記録を出しただろうことは、間違いがないと思うが、その記録はこの日の出来事のプロローグ程度だろう。

 その甲斐があって、まだ意識のしっかりしているうちに会えた。たくさんの恩を受けながら、返せたのは3つくらいだった。15時頃から、瞬きをしなくなり、角膜が乾くようになった。何度も、まぶたを指で閉じて、寝るときは目をつぶって寝るんやと語ったが返事はない。意識が遠退いてからは、呼吸だけになった。

 16時ころ、血圧が80を切ったため、皮と腱と骨の手首からは脈拍はとれなくなった。呼吸は、24回/分だったのが、10回/分まで落ちた。17時40分ごろ、呼吸の間隔が長くなりだした。しばらくして、あれっ?と思って、ナースステーションへ行こうとドアを開けると、ドクターとナースが「呼吸が止まりました」といって入ってきた。

 ドクターは、胸に聴診器を当て、心音を確かめながら、ここに全員いるのかとたずねた。一番甲斐甲斐しく面倒を見てくれた次男が、子どもを妻の実家に預けて、今エレベータで上がってきているところだった。小児性白血癌の子どもの死に目に会えなかったため、次男は、そんなさびしいことは2度とごめんやと日ごろから言っていたので、ドクターに無理を言ってしまった。

 17時49分、死亡告知。

 部屋は、時が止まったような雰囲気だった。小説で何度も読んだが、そのような描写では生ぬるかった。映画やドラマの場面など、薄っぺらい演技だと分かった。自分では、書けないし演技もできないのだが、現実は、現実だと思った。

 その後、心は慟哭の境地なのだが、どこかでなにか制するものがあり、ドクターやナースと淡々と事を進めた。