懐かしい雑煮 | Die Ruine der Walhalla

Die Ruine der Walhalla

In dieser Ruine findet man nichts.

我が家では最近数十年東海地方風の雑煮にしていると書いたが、これは当家が勢州北部某所の出身であることによる。私の本名を知っている人は、あるいは東日本の出身だと思ってらっしゃるかも知れないが、近畿圏では珍しいこの姓は、実は勢州には少なくない。室町時代辺りの郷土史を細かく調べると、小さな城の城主になっていたりもする。歴史の表舞台からは外れたところにあるので、戦国時代の歴史にも登場しないし、幕末には色々あったのだが、敢えて語らないことになっている。


大正時代の初め頃、祖父が家を弟に任せ、大阪へ出たのだが、戦後その弟が亡くなったことや諸般の事情が重なり、大阪へ出ていた一族は、叔父を除いて本家へ戻った。この叔父は大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)から海軍に入り、復員後逓信省に入って大阪中央郵便局で働いていたのである。


私の親の世代は大阪生まれだし、祖母も大阪船場の商家の娘だが、祖父は北勢の人間、いつしか我が家の料理から大阪色が薄まって行き、雑煮も東海地方のスタイルに戻った。


さて、昨日偶然、ある雑煮の写真を見た。その写真を撮られた方は兵庫県東部、大阪に隣接した北摂の某市にお住まいであるが、実は郵政省を退官した叔父も亡くなるまでその町に住んでいた。その写真には説明があった。元旦は白味噌、2日は水菜さん、と。食べ物に「さん」を付けるのも完全に大阪風である。


母は東海地方式の雑煮を作りながらも、大阪の話をよくしていた。元旦は白味噌仕立て、2日は澄まし汁で水菜の雑煮を作るものだと。日によって雑煮のメニューが変わるところが流石グルメの都だと感心したものである。


母はよく、自分だけは餅を焼いて雑煮に入れていた。こうすれば澄まし汁が濁らないから美しいと。私は焼いた餅を煮た食感に馴染めず、今でも焼かずに煮ているが。


さて、この写真を見ると、こんがりと綺麗な焼き色がついた餅が澄んだ汁の中に半分水菜に埋もれて入っている。実に美しい。


来年は気が向いたら大阪式の雑煮を作ってみようかな。