ジョン万次郎の帰国航海の一部始終(その2)

 日本語を話す日本人・万次郎とホワイトハウスの接点



 昨日の公判において、ジョン万次郎の機転が、みずからの運命を切り開いた事実が明かされました。本日の公判は、それを受けての審理となります。

 開廷と同時に、秦野裁判長がいいました。

「ジョン万次郎の航海のナゾ解きの段階にきたぞ。さあて、お立会い、といったところだな。引き続き、検察官に論述書の代読を頼みたい」

「承知しました」

 以下は、長井検事による秦野裁判長の論述書の代読です。

          

 さて。

 ジョン万次郎がわが論述書に本格的に登場する運びとなって、ジグソーパズル仮説『レインボウ・オブ・オーシャン』後半部執筆用の年表「アメリカ海軍東インド艦隊遣日使節の時系列シチュエーション」の作成に伴う調査の過程で、これまでわからなかったマンハッタン号のアメリカ本国帰着年月日が「一八四六(弘化三)年十月十四日」と呆気なく判明した。クーパー船長は同年同月同日に帰国して「日本人船頭が使っていた海図を政府に提出し、ペリーはその海図を用いて浦賀にきた」と資料にあるではないか。

 それに先立つ一八四六(弘化三)年一月、ラナルド・マクドナルドが乗り組む捕鯨船プリマス号(ローレンス・エドワーズ船長)がサンドイッチ諸島ホノルルに入港。マクドナルドは、そこでクーパー船長の訪日談話を掲載した『シーメンズ・フレンド』誌を読む機会を持ったのであるが、私はそれを帰国後の訪日談と勝手に理解して、マンハッタン号が前年(弘化二年)の四月に離日していることから、事実より一年ほど早い一八四五(弘化二)年秋の凱旋帰国と推測したのであるが、そうではなかったわけである。

 当然のなりゆきとして、「一八四六(弘化三)年十月十四日」に凱旋帰国したクーパー船長から「日本人船頭が使っていた海図」であり、なおかつ「ペリーが用いて浦賀にきた海図」を受け取った議会もしくは政府関係者を再確認する必要に迫られたわけであるが、時の大統領ポークの任期は国務長官ブキャナンとともに一八四九(嘉永二)年三月七日までだから、何ら問題はなかった。

 そこで、まず、ウィルクス海軍科学探検隊の説明から始めると、南極海の未確認島および南太平洋における未知の岩礁を調査するため、艦隊の派遣をアメリカ合衆国議会が承認したのは、一八三八(天保九)年五月十八日のことであっことがわかった。総司令官はチャールス・ウィルクス少佐、旗艦はスループ艦ヴィンセンス号、艦隊の編成は以下ピーコック号、パーパス号、シーガル号、フライングフィッシュ号、支援艦レリエット号、他二隻の八艦であった。探検隊員は自然主義者、植物学者、鉱物学者、剥製師、画家、言語学者など民間人で構成され、八月十八日にハンプトン港を出帆、南極海の探検調査を完遂してのち、太平洋をフィールドにして一年半を調査に費やした。隊員の画家が日本人四人を見かけてスケッチしたのは、サンドイッチ諸島のホノルルに薪水食料品を調達する目的で寄港したときだという。

 目的を果たして帰国した総司令官チャールス・ウィルクス少佐は、一八四四年から一八六一年まで十八年もの歳月の間、報告書の作成に従事したのだから、国務長官ブキャナンに招かれて、ジョン万次郎に関して次のようなやり取りをする場面があったとしてもおかしくはない。

 ウィルクス少佐はブキャナンにいった。

「私は居合わせませんでしたが、上陸した画家の話では、一人だけおかしな発音で英語を話す男がいたということです。画家の男がスケッチしながら聞くと、名はジョン万、太平洋の無人島鳥島に漂着して、ホイットフィールド船長の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されただけでなく、船長の養子になったというのです」

 ブキャナンはウィルクス少佐が口にした「養子」の語に思わず釣り込まれた。

「ジョン万とやらが、船長の養子に?」

「イエス・サー」

計算するように指を折りながらウィルクス少佐は答えた。

「助けられた船長の養子にというのは随分唐突ですが、画家のいう通りだと致しますと、鳥島で救助され、ウィルクス海軍科学探検隊とホノルルで遭遇したのが一八四一(天保十二)年、ウィルクス海軍科学探検隊がニューヨーク港に帰還した今年が一八四二(天保十三)年、その間にジョン・ハウランド号でホイットフィールド船長に随伴するかたちで捕鯨航海に出ていったジョン万が、船長の自宅があるマサチューセッツ州ニューベッドフォードにきて、ジョン・マン・ホイットフィールドを名乗ったのは一八四三(天保十四)年の今頃と思われます」

「じゃあ、これが、ジョン万?」

 ブキャナンは、スケッチブックに描かれた四人の日本人のうちの一人を指差した。

「イエス・サー」

 ウィルクス少佐が肯定すると、ブキャナンはスケッチブックを手に持って、最も若く見える少年を食い入るように眺めた。

 ここで、当時のアメリカの政情を簡単におさらいしておこう。

 すなわち、マンハッタン号の来日直後、アメリカで何が起きたかというと、ジャクソン元大統領が他界し、広東ではジャクソンの死と前後してチャールズ・キングが亡くなった。ジャクソンは病死だが、チャールズ・キングの死は遠く異国の地であったため話題にもならなかった。しかし、モリソン号事件の首謀者チャールズ・キングが一八四五(弘化二)年に亡くなったのは紛れもない事実である。加えて、利尻島へ偽装漂着してきたことで知られるラナルド・マクドナルドが、不運つづきで不幸な航海に懲りて、何者かの後押しでローレンス・エドワーズ船長の捕鯨船プリマス号に乗り組み、ニューヨークからホノルルに向けて出帆、後を追うようにしてジョン万次郎の養父ホイットフィールド船長もホノルルへ出帆したのであった。さらに養子のジョン万次郎も、養父ホイットフィールド船長を追って、グアムで合流すべく捕鯨船フランクリン号のスチュワードとなってニューベッドフォードを出港した。

こうした一連の事実が相互に関連を持つか否かは、今後の検証に待つほかないわけであるが、以上の諸事実が現実に起きたことは紛れもなく真実である。日付も、経過も、結末も、すべて記録にあることなのである。

          

 長井検事がここまで代読してきたところで、秦野裁判長がストップをかけました。

「仮説を次々と立ててきた中で、初期の段階で、チャールズ・キング殺人事件を仮説として提示しておいた。アメリカ政府がチャールズ・キングに対して批判的であることを示すもので、具体的なやり方は小説家が考えればよいことで、本講座ではタッチしないことにしよう」

「ジョー・マシュー・オットソン、ミスターX、ジェームズ・ブキャナン、ウィリアム・キング、ウィルクス少佐、クーパー船長、ジョン万次郎らがアメリカ側の登場人物というか関係者、日本側の関係者は徳川家慶、阿部伊勢守正弘、松平河内守近直、二宮金次郎、森山栄之助、善助、初太郎と多彩になってきました。そろそろ、まとめにかからないといけないわけですから、いまさらという感じです」

「そういうこっちゃ。代わりに、といっては何だが、これからのためにチェック項目をいくつか挙げておこう。ランダムだが、ラナルド・マクドナルドの利尻偽装漂着が国務長官ブキャナンの任期満了寸前に行われたこと、ジョン万次郎の第一次帰国航海が同時に打ち切られたこと、ラナルド・マクドナルドの偽装漂着に合わせて浦賀にいた森山栄之助が長崎に呼び戻されたこと、それによって行われたマクドナルドと森山栄之助ら蘭語通詞との英語と日本語の交換授業をオランダがひどく警戒して妨害を働いたこと、これだけのことがほとんど同時に進行した事実は、資料には決して書かれることのない事実として、強く提起しておきたい」

「偶然、必然を問わず、何か強い意志の力を感じますね」

「切実さ、とでも、いおうかな。大きなことを為すには、切実さが必要なんだ。たとえば、国務長官ブキャナンが任期満了を目前にして、一気に勝負に出たというような。なぜなら、ポークは大統領選挙に勝利した段階で再選は考えていないと宣言したいるのだから」

「切実さでは、二宮金次郎らも同断ですね。苦心して輸出用生糸の増産をやり遂げても、開国しなければ輸出できないわけですから」

「そりゃあ、日本側も必死だよ。初期の段階で踏まえるべき事実として提示したと思うが、それが、一八四六(弘化三)年六月の将軍家慶と阿部正弘による薩摩藩への達し《「琉球はその方の一手に委任のこと」ならびに「琉球支配は薩摩藩に一任、やむを得ない場合は交易を許す。ただし、相手はフランスに限り手細く行え。そうする分には交易を結んでも幕府に異存はない」》になっていくわけだ」

「なるほど。ここで、その事実が、ものをいってくるわけですね。ジグソーパズル仮説『レインボウ・オブ・オーシャン』が、完璧に解明されたら、事実と認めるか否かにかかわらず、壮大な歴史ロマンになるのは間違いありません」

「これからは、ますます一つひとつの積み重ねが大事になってくる。次回は、ジョン万次郎の手紙文を分析することにして、本日は閉廷」

 この段階で、ジョン万次郎の存在を把握しているのは善助と初太郎
をホノルルの筆之丞・五右衛門のもとに派遣したオットソンとホノルルでジョン万次郎と接触を持ち、なおかつスケッチした画家を隊員に持つウィルクス少佐だけですから、ジョン万次郎とホワイトハウスとの接点を裏づける物証なり、状況証拠のさらなる積み重ねが必要です。分析結果によっては、ジョン万次郎の手紙は物証になるわけですから、次回の審理が待たれます


(つづく)




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