二宮金次郎の隠れた功績、それを助けた男を発掘する


 松平伊勢守と呼ばれた男について、再開された長井検事の論述。

          

生糸貿易のために長崎以外に門戸を広げるためのもう一つの条件が、幕府の財政再建であった。演繹法でいうと、開国し、貿易が始まったのだから、どこかで再建されたはずなのに、これもまた記録にない。

水野忠邦の天保改革は失敗して逆に泥沼状態を招いただけだから、家慶と阿部正弘の治世に財政の再建が行われたはずなのに、これほどの快挙がなぜ記録されなかったのだろうか。

 もう一つ解明しておくべきナゾがある。横浜開港直後に輸出された生糸は年間約三十万斤(一斤は約六百グラム)、輸出価格は国内流通価格の約三倍。当時、和糸問屋が全国の産地から集めた生糸の総量は年間約五十万斤、うち関東の産地が半数を占めた。数字の出所は前橋市図書館で閲覧した蚕業界の統計資料である。ちなみに、幕末当時の蚕業界のようすを記録した資料は皆無で、輸出向け生糸の増産がどのように行われたかも不明という。

 もし、生糸の増産が行われなかったとすると、国内で生産される過半数が輸出されたのだから、京都西陣、仙台平などの国内織元は一大パニックに陥っていなければならない。多少の不足はきたしたものの、そこまでには至らなかったのだから、輸出向け生糸の増産は一応間に合ったわけである。だれが生糸の増産を担当したのだろうか。

 以上、二つのナゾを解くキーパースンが、幕臣ならば名も功績も記録されるはずだから、該当者は農民出身の金次郎しかいないわけである。

 二宮金次郎に日光御神領の財政再建の命が下ったとき、彼が来客を一切拒んで屋敷に籠もって書き上げたのが既出の『富国方法書』全八十四巻、事実上の幕府財政再建論であった。日光御神領うんぬんは隠れ蓑で、幕府財政再建の担当を隠すためだったと思われる。しかも、時の勘定奉行は松平河内守近直で、金次郎が日光御神領財政再建の下命を受ける直前に就任した。松平近直は伊勢守在任中その懐刀としてよく人を用い「松平伊勢守」の異名を得た傑物でありながら、生没年不詳である。不可解な経歴を持つ松平近直と二宮金次郎の二人三脚で幕府の財政再建が進められたから記録にないのだろう。

 二宮金次郎の報徳仕法は名目の石高を無視し、余剰を生み出す幅を差し引いた消費可能な実際の石高、すなわち「分度」の範囲で消費生活を送らせるというもの。

 以上の推理を裏づける傍証にこそ歴史ドラマとロマンがあり、多岐にわたるのであるが、一例だけ挙げておくと、当時の幕臣の凄まじい倹約生活から二宮金次郎が設定した分度の厳しい制約をうかがい知ることができる。

 輸出用生糸の増産もこの二人が担当し立案したと判断するほかない。私の推理の信憑性はこれから江川坦庵、斉藤弥九郎と述べていくうちにおのずと明らかになるだろう。

 

 江川坦庵、神奈川条約締結に死す

 

 日本開国から五年後の横浜開港で一躍スポットライトを浴びる輸出用生糸の増産、この事実に目を向けないことが、開国期の歴史解釈を歪める最大の原因である。

 当時、輸出用生糸の増産にタッチし得る最も有力な立場にあった人物が韮山代官江川太郎左衛門坦庵であった。伊豆韮山を本貫地として屋敷を構え、江戸本所に役所を置き、支配地は伊豆、相模、甲斐など広範囲におよんだ。支配地のうち甲斐から相模にまたがる郡内地方は関東有数の養蚕地帯だった。しかし、坦庵には生糸増産に割く時間的ゆとりがなかった。鉄砲方を兼ねた幕府の軍事顧問的であり、海防掛勘定吟味役として外交にも関与したからだ。

江川坦庵は西洋流砲術の弟子阿部正弘に願って、土佐藩からジョン万次郎を召し出し、手代として配属を申し受けることに成功すると、彼を通訳に用いペリーの応接に当たろうとした。この坦庵の案は万次郎を「アメリカのスパイ」と疑う水戸斉昭に強く反対されて実現しなかったが、本牧に落書きして残したアメリカ水兵の言葉を翻訳したのが万次郎であった。以後、坦庵はペリー応接所のある横浜村と江戸城を行き来して、阿部正弘の指令を現地の応接掛に伝え、交渉の推移を見届けて、逐一、報告する役目を担った。

これが神奈川条約締結の背景で、横浜村の交渉だけを見たのでは虫の目になってしまう。

万次郎は水戸斉昭の反対で江戸に留まったが、彼の識見は阿部正弘と坦庵によって交渉に反映された。内政は松平近直と二宮金次郎、外交は江川坦庵とジョン万次郎という政策遂行パターンが確立をみたことになる。

これに、通商条約の交渉を五年先送りした神奈川条約を重ねると、阿部正弘の内政外交方針が浮き彫りになる。

 横浜村で進められた神奈川条約とも呼ばれる日米修好和親条約談判の際、江川坦庵は下田開港を強く主張した。なぜ下田かは坦庵が当地で建設計画を進める反射炉に用いるコークスを輸入するためである。神奈川条約に下田開港が盛り込まれたのは、坦庵の主張が通ったからだろう。反射炉建設費用とコークスの輸入原資を得るためにも、生糸輸出に坦庵が期待するところは大であった。

 すなわち、輸出用生糸の増産でも、坦庵は松平近直と二宮金次郎の間に入って潤滑油的な役割を果たしたわけである。

 しかし、一年半余にわたって内海(品川)台場築造、アメリカ使節応接、反射炉築造に不眠不休で尽力した坦庵は、ペリーが退去して間もなく過労が原因で急逝してしまう。

翌年には二宮金次郎、さらに翌年には阿部正弘と相次いで他界、以後、松平近直は消息不明。この人的喪失が幕末の開国史、とりわけ輸出用生糸の増産過程を複雑難解にしてしまったといえなくもない。

 

 宰相の懐刀が生没年不詳のナゾ

 

 阿部正弘が老中首座になったとき、時の勘定奉行は松平河内守近直で、しかも、二宮金次郎が日光御神領仕法を拝命したときに就任していることは前に述べた。そして、二宮金次郎が亡くなったのが安政三(一八五六)年で、松平近直の勘定奉行辞任が安政四年。

 松平近直が老中首座阿部正弘の「懐刀」といわれ、「松平伊勢守」と異名を取った事実がある。松平伊勢守とまでもじられるのは幕府の財政再建に目覚ましい働きがあったからこそであろう。しかし、それほどの人物・幕府高官が、なぜか生没年不詳。

 ただし、伝えられる次の事実がある。ペリー来航後の安政二(一八五五)年一月十六日に病没した韮山代官江川太郎左衛門坦庵の葬儀法要が浅草本法寺で営まれたとき、

「わが不明を悔ゆるも、泉下の霊に謝するに由なし、如かず、ただその嗣子と親交してわが丹心を表せんにはとて、その英敏(ひでとし)を見ること、わが子のごとく……」

 松平近直は以上の弔辞を述べ男泣きした、と記録されている。

 上役として坦庵の存命中に彼の能力を生かし切れなかったことを悔い、詫びようにも伝えるべき人は亡くなってしまった、このうえは遺子太郎左衛門英敏をわが子と思い、亡き父に代わって親しく交わるであろう。

 部下の葬儀でこれだけの弔辞を述べる上役が、今日、いるだろうか。松平近直は部下の能力を活かすことを使命と感じていた人なのだろう。

松平近直と類似のパターンの人物に田沼意次の懐刀だった石谷清昌がいる。田沼意次の腹心として数々のめざましい政策を断行した石谷清昌もまた生没年不詳なのである。田沼意次と石谷清昌の関係に阿部正弘と松平近直の関係に重ねると、くっきりと浮き掘りになるパターンがある。

 石谷清昌と松平近直にはトップと仰ぐ人物が政敵によって激しく排斥されたことが共通項としてある。前者と二人三脚で改革政治を行った田沼意次は松平定信に叩かれ、後者の後ろ楯になった阿部正弘は井伊直弼にひどく憎まれた。阿部正弘はそのために一度は辞任の意思を表明したほどであった。松平定信と井伊直弼はどちらも江戸開府当時の強固な幕藩体制と身分制度を理想とし、悪しき信念を原動力として遮二無二復活させようとした。

田沼意次と阿部正弘は彼らと正反対の方向へ歴史を動かそうとしたから憎まれ、排除の対象にされたのである。阿部正弘は途上で病死したために井伊直弼と真正面から衝突しなかったというだけで、もし生きていたら真っ先に安政大獄の血祭りになっていたはずである。

阿部正弘の政治は井伊直弼に激しく憎まれるほど身分を度外視した人材の登用と活用を行ったという事実を、のちのち安政大獄と井伊大老暗殺、すなわち原因と結果の本当の背景を理解するために記憶に留めていただきたいものである。

          

 長井検事の論述を受けて、秦野裁判長がいいました。

「アメリカの都合でいうと、どうしたって下田開港になるわけだよ。アメリカの関心は対清貿易のための太平洋航路開設のための石炭補給港だからな。当時、有力な捕鯨漁場だった日本海へ捕鯨船を送り込むための薪水補給地としては函館港が必要だった。この二港の開港がアメリカ政府の最優先課題だったから、生糸貿易を目的とする英仏とは同日に論じられない。アメリカといち早く交渉をまとめることが賢明な外交策だった。時の阿部政権は、それを認識していたが、後世の史家は長いこと気づかないできた」

「そういうことなんです」

「次は生糸の増産について語ってもらうとして、本日はこれにて閉廷」

 秦野裁判長は閉廷を宣しました


(つづく)




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