連日、アスリートたちの活躍が続くピョンチャン・オリンピックですが、残念なニュースも多いようです。
極寒の中、シャワーのお湯が出ない選手村。
日本人選手へのドーピング濡れ衣画策疑惑。
そして、相変わらずのSNSテロ。

このSNSテロについては、韓国唯一のメダル量産期待種目であるショートトラックでのメダル圏内の韓国人選手失格に対して起こったものです。正確には女子ショートトラック500mで、競り合って2位に滑り込んだ韓国選手が、追い抜いたカナダのブタン選手に接触したとして失格となり、銀メダルを失ったのです。
この判定は、ルールに則ったものだと思われるのですが、韓国民は納得しませんでした。しかも、その抗議の矛先がおかしいのです。この失格によって順位が繰り上がり銅メダルを獲得したブタン選手のインスタグラムに、「汚いメダル、おめでとう」「見つけたら殺す」などの悪質な非難中傷や脅迫まがいのコメント投稿が一時間で1万件も殺到して、ブタン選手を怯えさせたのです。
ソチ五輪でも、似たような事件が複数起こったのですが、この手の『ろうそくデモ』スタイルの特異な集団的個人攻撃の横行は、韓国社会に極めて特徴的な現象です。この現象は『川に落ちた犬は、棒で叩け』式の特異で理不尽な精神性を示しています。
具体的には、「落ち度があった者は、徹底的に責め苛んで、二度と顔をあげられないように思い知らせろ!」「落ち目にある者は、さらに徹底的に叩いて二度と立ち直れないように追い込め!」ということです。
そのような攻撃によって、地面に這いつくばった〝せんべい状態〟になってしまい、何をされても何を言われても文句を言えない状態になることを、韓国では『真正性のある謝罪をした状態』と考えます。
要するに、客観的事実に関わらず、ともかく対人的な道徳的上下関係が確立して、一方がもう一方の絶対的奴隷状態になること、それが韓国人の考える〝解決〟ですね。

また、そうした奇妙な抗議は、個人だけではなく組織に対しても激しく行われます。
アメリカNBCテレビが、開会式への安倍首相の出席を伝える中で、「1910年から45年まで韓国を占領した国」と紹介した上で、「しかし、どの韓国人も、自らの変革にとって、日本は文化面でも技術面でも経済面でも重要な模範となってきたと言うでしょう」と述べました。
これに対して、韓国民が猛烈に反発して非難が殺到し、「公式謝罪」を求める署名運動に発展しました。NBCは、「開会式の中継陣が不適切な発言で大韓民国国民の気分を害したことを理解し、謝罪する」と発表しましたが、韓国民は「一回謝罪したからといって済む問題ではない」と要求をさらにエスカレートさせて、政府レベルの公式謝罪と発言者の直接謝罪を求めています。
しかし、米フォーチュン誌も「重要な真実を含んでいる解説だ」と擁護しているように、事実は、NBC解説者ジョシュア・クーパーの発言で「韓国の変革にとって、日本は文化面でも技術面でも経済面でも重要な模範となってきた」という部分は完全に正しいのです。一方で、その事実を韓国人は一切認めないというのも事実です。
こうして、クーパーは降格され、個人的な謝罪に追い込まれました。フォーチュン誌は、この事態を「残念だ」と表現していますが、もっともなことです。
AD
「唯一の被爆国である日本の首相であるにも関わらず、安倍首相はなぜ核兵器の廃絶を目的とした核兵器禁止条約に賛成しないのでしょうか?」という疑問が、巷でよく聞かれます。「日本政府が条約に署名しないのは間違いだ!」「唯一の被爆国の首相として、核廃絶に反対するなんて、有り得ない政治姿勢だ!」「安倍首相は核兵器の好きな軍国主義者だ」という非難の声も目立ちます。これらは、朝日、毎日、東京新聞、共産党、社民党などに代表される左派リベラルの意見です。
一方で、「日本政府が署名しないのは正しい選択だ」という意見もあります。「安倍首相は核兵器の廃絶そのものに反対しているわけではなく、役に立たない核兵器禁止条約に反対しているだけだ」「今回の条約は、『核なき世界』の実現には、現時点ではまったく役に立たない、というだけでなく、日本の国防上、相容れない内容だから署名しないのだ」と政府を擁護する声です。こちらは、読売、産経、自民党などに代表される右派保守の人々の意見です。
核兵器禁止条約への署名の是非に関して、左派と右派、まったく相反する2つの意見があるわけですが、では、どちらが、本当に正しいのでしょうか。両者の論争を通して、考えてみたいと思います。


☆署名支持派➡︎昨年7月、安倍首相は、国連総会での核兵器禁止条約(*)の投票に反対して参加せず、署名もしていません。また、今月1/12〜1/18まで来日していた「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)(**)」の事務局長ベアトリクス・フィン氏(35)の熱心な面会要請にも応えようとせず、絶対に会おうとしませんでした。
ICANは、核兵器禁止条約の実現に尽力した功績を称えられ、昨年度、ノーベル平和賞を受賞した国際NPO組織です。その栄誉ある組織の事務局長の要請を拒絶して、「日程が合わない」などと言い訳をして逃げ回り、避けて会おうとしないのは、唯一の被爆国の首相として、実に残念な態度です。安倍首相は、いったいどこの国の首相なのでしょうか。
フィン氏は、「すべての国が核兵器禁止条約に署名すべきだが、特に、唯一の被爆国である日本には署名する道義的責任がある」「核の傘の下にいることをよしとして、広島・長崎のような悲劇を繰り返してよいのか」「核の傘では北朝鮮の核開発を止められないことは明らかだし、署名して核の傘を拒絶しても日米同盟は維持できる」「唯一の被爆国であるにもかかわらず、日本政府が署名しないのは、核兵器廃絶を願う国民の意思を無視しており、被爆者への裏切りである」「このまま条約に参加しなければ、日本は国際社会で仲間外れになる」と主張しています。
すべて、もっともな意見ではないでしょうか。(⬅︎左派リベラルの意見)

★署名反対派➡︎「署名しても日米同盟は維持できる」と言うのは、日本国の政治の舵取りをする立場にない一介の外国人にあるまじき無責任な発言です。外国の国防の根幹に関わる問題で、来訪中に軽々しく断言できてしまうというのは、フィン氏は相当思いあがった方ではないか、という印象を持ちました。言いたい放題ですよね。
ここにも、「私たちは常に正しい」というリベラル特有の独善的思い込みの弊害が見られるように思うのです。この唯我独尊の姿勢は、ICANという組織そのものの体質ではないでしょうか。そのような思想的に凝り固まった頑なな相手との対話は、時間と気力の浪費です。
「核の傘では北朝鮮の核開発を止められないことは明らか」と発言されていますが、そもそも日本政府には外国政府に核開発をやめさせる力はありません。日本政府の役割は、外国が日本に核攻撃をしようとするのを阻止することです。核の傘は、北朝鮮の核開発をやめさせるためにあるのではなく、北朝鮮に核攻撃を思いとどまらせるために、あるいは、北朝鮮の核による脅しを無効化するためにあるのです。
核兵器廃絶を願うのは唯一の被爆国として当然ですが、日本一国が核兵器を持たず、核の傘から出て非核化し、無防備(丸腰?)になったとしても、現状では北朝鮮や中国に核兵器を捨てさせることはできません。それどころか、核を保有する諸外国の日本への核による脅しが、極めて容易になるだけです。(⬅︎右派保守の意見)

☆署名支持派➡︎核を持っているとか、核の傘の下にいるということが、本当に自国の防衛になるのでしょうか。むしろ、そのような対峙の仕方は、かえって緊張を高めるのではないでしょうか。ことさらに危機を煽って緊張を高め、東アジアの軍事費拡張競争を招くのは逆効果だと思います。日本が核を持つことで、核に対抗しようとするなら、北朝鮮が核を持とうとするのを非難できません。フィン氏が述べているように「条約に参加せず、唯一の被爆国としての道義的責任を果たそうとしないことで、日本は核の脅威を助長している」のです。
日本は、アメリカの核の傘から離脱することで、世界の非核化に貢献すべきです。日本が署名すれば、核廃絶に向かって画期的な転機となるに違いありません。なぜ、そうしないのでしょうか。
結局、安倍首相は、日米の軍産複合体の手先になっているのです。兵器を開発・輸出する軍需産業で儲けようとしている、言わば「死の商人」です。戦争が好きなのです。最終的には、日本の独自核武装を目論んでいるのだと思います。(⬅︎左派リベラルの意見)

★署名反対派➡︎「核の傘は役に立たない」とか「安倍首相は戦争が大好き」というのは、かなり主観的な思い込みだと思いますが、どうしてここまで意見が別れるのでしょうか。核を持つ(核保有or核の傘)方が核攻撃にさらされやすいのか、核を持たない方が攻撃されやすいのか、そんなことは自明の理だと思うのですが。周辺の核保有国が、核廃絶に同意してもいない段階で、日本がアメリカの核の傘から離脱するのは、自殺行為に等しい愚挙です。それが、わからないのはなぜでしょう。
結局は、国防に関する危機意識があるかどうか、その違いではないでしょうか。どうも、日本が他国から軍事的に威嚇されたり支配を受けるようになる可能性を、一切想像できない人たちがいるようです。これまでの人生で、よほど守られて生きてきたのでしょう。本当に無責任な考え方をするものです。
倫理的に正しくあろうとして、自らの国が滅びる危険を冒すことはできません。そうしないからといって、日本だけを責めるのですか。核保有国でもない日本を、なぜ、これほどまでに加害者の立場に置きたがるのか、私には、まったく意味不明です。(⬅︎右派保守の意見)

☆署名支持派➡︎フィン氏は、「日本以上に核兵器廃絶に強い動機を持っている国は世界に存在しない」という意味で、「まず日本が行動すべきだ」と言っているのであって、日本を一方的に責めているわけではありません。なんといっても、日本人は、世界で一番核の恐ろしさを知っているのですから。
核保有国・核依存国の中で、日本が最初に行動できなければ、核廃絶に向けて舵を切ることのできる国は他にないと思います。世界人類の未来のためにも、日本は率先して条約に署名すべきです。
結局、伝統的な銃社会で銃が蔓延しているアメリカより、一切銃を持つことが禁じられている日本の方が、市民生活は、ずっと安心ではないでしょうか。核兵器についても同じです。核のない世界の方が、人類にとっては、はるかに幸せなのです。今時、「核によって核から身を守る」などという考えは時代遅れではないでしょうか。そんな自己本位の考えでは、永久に核廃絶は不可能です。(⬅︎左派リベラルの意見)

★署名反対派➡︎しかし、現実に銃が蔓延しているアメリカのような社会に、あなたが住んでいると考えてみてください。確かに、そこでも、信念として銃を持たないという意志を持って生きている人たちはいるでしょう。例えば、クェーカーやアーミッシュのように。
けれども、皆が皆、同じ信仰に殉ずることを、一律に強要することはできません。全国民から強制的に全ての銃を取り上げることが不可能な現状では、銃によって自分と家族の身を守ることを選択する人も多くいるのです。その権利は、当面、認めなければならないでしょう。実際に、無防備なアーミッシュの村の学校が、銃を持った男に襲われて大きな被害を出したこともありました。自宅への侵入者を銃で撃ち殺して我が子を守った母親もいます。
核についても同じです。自分の信仰を他人に押し付ける権利は誰にもないのです。一国の首脳が、「たとえ国民をさらなる危険にさらすとしても核廃絶の信念に殉ずる」とは言えないでしょう。それは夢想家の身勝手で致命的な振る舞いです。(⬅︎右派保守の意見)

☆署名支持派➡︎ありもしない諸外国からの敵意による架空の脅威に過剰に怯える夢想家であり、ありもしない核の傘による庇護神話の幻想を盲信する信徒であるのは、むしろ、条約反対論者の方ではないでしょうか。
不幸な悪夢に囚われている人たちに、本当に同情します。早くその不毛な悪夢から覚めて、私たちとともに、希望への道を歩き始めることができるように祈っています。
結局、共産党の志位和夫委員長が言うように、「日本は核兵器による安全保障を捨てた。あなた方も捨てなさい!」と北朝鮮に迫ることが、日本の立場を最も強くするのです。(➡︎左派リベラルの意見)

★署名反対派➡︎残念ながら、確かに、この現実世界には、悪夢のような残虐極まる悲劇があり、愚かで救いようのない敵意があり、滑稽でありながら深刻な対立があり、とても幸せで致命的な無知があり、それらは世界中至る所に転がっています。しかし、それでも、この正気と狂気がないまぜになった不条理な世界で、私たちはなんとかして生き残らなければならない。
共産党の空想的な非武装中立論では、この欺瞞に満ちた剣呑な地上世界で、日本が生き残ることはできないのです。(➡︎右派保守の意見)


*核兵器禁止条約は、2017年7月、国連総会で193カ国中124カ国が投票に参加し、賛成122カ国、反対1国(オランダ)、棄権1国(シンガポール)で採択されました。しかし、すべての核保有国とその同盟国は、投票そのものに不参加でした。
核保有国は5大国(米英仏露中)プラス4カ国(インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮)で、その同盟国はNATO諸国25カ国(ドイツ・イタリア・スペイン・カナダ・ポーランド・ノルウェー・ベルギー・トルコ・ギリシャなど)プラス米国の同盟国2国(日本・韓国)及び日本に立場が近いオーストラリアなどです。これらの国は、すべて投票に不参加でした。不参加の理由は、「現時点では非現実的であるから」というものです。結局、先進国は、ほぼ例外なく不参加か反対だったということです。
日本のマスコミはまともに報道していませんが、実はICAN発祥の地であるオーストラリアも、直接フィン氏とともにオスロでノーベル平和賞を受け取った被爆者サーロー節子さんの住むカナダも、授賞式が行われたノルウェーも、この条約には不参加なのです。
その後、2018年1月現在、核兵器禁止条約に署名した国は56カ国です。署名国50カ国以上で、既に条約は発効しています。条約加盟国は、核兵器の開発・購入・保有・配備は一切できません。核による威嚇もできません。つまり、「そっちが使ったら、こっちも使うぞ」と暗に威嚇する「核の傘」による防衛を明確に否定しているということです。また、条約への留保付き参加もできません。
現時点で日本が署名しないのは、政府としては極めて妥当な判断ではないでしょうか。

**「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」は、2006年にオーストラリアで設立された核兵器廃絶のための国際運動体です。日本での提携組織は5つありますが、そのうち最も有名な組織は「ピースボート」です。
ピースボートは、現立憲民主党の衆議院議員である辻元清美氏らが1983年に創設したNGO団体で、左派リベラルの力の結集を目的としています。現在の共同代表川崎哲氏はICAN国際運営委員の一人で、今回、ICANの一員としてノーベル平和賞を受賞しています。そういう意味では、ICANは、元々ピースボートと同志的繋がりの深い朝日・毎日など日本国内の左派メディアと、極めて親和性の高い組織だと言えるでしょう。
アメリカの〝自称社会主義者〟バーニー・サンダース氏の支持者たちもそうですが、世界的に左派リベラルは、反核・反権力・反格差・反資本主義・反グローバリズムを掲げて、若者たちを結集しようとしています。同様に、ピースボートもICANも、わかりやすい正義や理想を唱えて、若者を惹きつける傾向が強いように思います。ICAN事務局長のフィン氏も、まだ本当に若いです。
彼らの意見にも一理あるのは確かです。しかし、理想を現実化していくプロセス(過程)やビジョン(展望)が、どうも甘すぎるように感じます。現代の国際社会においても、残念ながら、弱肉強食の生存競争を生き抜く現実的な知恵は、やはり必要なのです。そして、「核の傘」も、その知恵の1つです。
ちなみに、1月17日に国会内で開かれたフィン氏と与野党代表との公開討論会では、共産党(志位和夫氏)・社民党(福島瑞穂氏)・自由党(玉城デニー氏)・沖縄の風(糸数慶子氏)を除くすべての党が、条約への署名を強く要請するフィン氏の主張を「時期尚早」「非現実的」として退けました。
左派傾向の強い民進党(岡田克也氏)・立憲民主党(福山哲郎氏)ですら「核抑止に依存する我が国の安保政策」を一定程度は擁護したのです。
沖縄は、反米反日意識の強い地域として、唯一特別な県です。今年も那覇では、恒例の「チュチェ思想新春セミナー」が、金正恩の誕生日を祝う会合として、今月開催されました。辺野古・高江反対派含め、社大党・社民党の県・市議会メンバーなど、毎年数十名が集まるようです。
AD
最近、ポピュリズムという言葉をよく聞きます。「大衆主義」とか「大衆迎合主義」と翻訳されます。民主主義社会において、エリート権威主義と対立するのが、この大衆主義です。社会の支配層や知的エリートの権威に対する民衆の不信感や反感を掬い上げて、広範囲な大衆の支持を得て行われる政治がポピュリズム(大衆主義)です。ただし、学識者や知的エリートの側からは、扇動政治家の人気取りパフォーマンスに無知な愚民が操られている「衆愚政治」の状態と見做されている向きもあります。
例えば、学識者やリベラル・マスコミの側では、アメリカのトランプ大統領の誕生、イギリスのEU離脱決定、欧州全体に巻き起っている移民排斥運動、安倍長期政権の存続、さらには日本における嫌韓意識の高まりなどは、このポピュリズムの負の側面が顕在化した問題だと言われています。
この場合の「ポピュリズム」は、大衆にとって耳触りの良い意見を声高に主張し、耳目を集めて巧みに扇動することで、手段を選ばず広範囲な人気を得て、権力を握ろうとする政治のあり方(扇動政治/衆愚政治)を示し、通常、これを批判する用語として使われています。そして、大衆の不安や願いを代表(扇動?)して、既存のエリートの権威や意向に対抗する思想の持ち主や政治家を、良い意味でも悪い意味でもポピュリスト(デマゴーグ?*)と言います。
貴族から政治の実権を奪って小農民や商工業者を保護し、平民の不動の支持によって権力を固めた古代ギリシャの僭主ペイシストラトス、コルシカ島の田舎貴族の出身でありながら軍事的才覚によって庶民の人気を得て、フランス皇帝にまで登りつめたナポレオンなどは、ポピュリストの代表です。また、左派リベラルによって、もっともよく用いられるポピュリズムの例は、優れた経済政策と反ユダヤ主義でドイツ国民を熱狂させたヒトラーのナチス・ドイツです。

けれども、「今日の政治状況におけるポピュリズムが問題だ」と言っているのは、反トランプ、移民排斥反対、EU離脱反対、安倍政権打倒、9条護憲といったリベラルな意見を持つ左派の人々ばかりです。
そして、彼らは、国論を二分するような問題に関して、「自分たちと対立する意見の人々は、無知な大衆を扇動する『危険なポピュリスト(デマゴーグ)』か、扇動された愚かな民衆か、そのどちらかである」と、安易に断定してしまう傾向があります。
さらに、例えば「安倍首相は、根っからの戦争好きのポピュリストだ」「そして、それは、岸信介に繋がる彼のDNAが証明している」というように、ポピュリズム=ナショナリズムのセットで誹謗する人が多いのです。
ナショナリズム(民族主義)に関して、彼ら左派リベラルが真っ先に自動的に連想するのも、やはりナチスです。そして、一般にナチス=邪悪ですから、その点で、相手側の主義主張を一切認めない不寛容の裏側で、「自分たちの側こそが正論であり、正義であり、道理である」という強固な(自信に満ちた?)思い込みを、わたしは感じます。
つまり、反トランプ、反安倍政権、反9条改正、反移民排斥、反捕鯨、反嫌韓、反原発、反EU離脱という主義主張を掲げる左派リベラルの人たちは、「対立する相手側は完全に邪悪であり、自分たちは絶対的に善の側に立っている」と、頭から一方的に信じ込んでいるように見えるということです。
だから、「正義を貫いて悪を叩き潰すのに、手段を選ぶ必要はない」と、自分の側の策略(マキャベリズム)や宣伝工作(プロパガンダ)は、良心の呵責なく正当化してしまえるのではないでしょうか。例えば、代表的な左派リベラルの朝日新聞による吉田〝慰安婦狩り〟証言の取り扱い方、あるいは、加計学園問題に関する前川文書の取り扱い方にも、そうした偏向した情報戦略が見られます。

しかし、本来、国民の間で拮抗する二つの意見は、どちらかが完全に正論で、もう一方は完全に間違っていると、安易に決めつけることは、そうそうできないはずです。それを、「自分は常に正義の側で、相手方の意見は歪んだポピュリズムである」と断定して一方的に批判するのは、あまりにも都合が良すぎます。
それとも、無意識にではなく意識的に、相手を蔑み貶める〝レッテル貼り〟の明確な意図を持って、わざと決めつけた言い方をしているのでしょうか。結局、それは、相手を陥れるための巧妙な策略なのかもしれません。
その上で、「自分は絶対的に善意なのだから、目的は手段を正当化するのだ」と本気で思っているなら、程度の差こそあれ、テロリストと変わらない狂信者です。あるいは、根っからの卑劣な下衆の魂胆で、ナチスと何も変わらない所業に勤しむ邪悪な存在、大衆のルサンチマン(恨/ハン**)を自己の欲望のために煽る、良心なきデマゴーグ(大衆扇動者・扇動政治家)かもしれません。
そうでなければ、本人がルサンチマンそのもので、相手を「ポピュリストだ!」と殊更になじるのは、自分が実は思想的に脆弱な知的弱者であることを自覚しているが故の苦しい自己正当化に過ぎない、ということも、少なからずあるでしょう。
いずれにしても、表面上、自分は真面目で立派で非の打ち所がないと信じ込んでいる人は、日頃、自分の内面について悩むということが一切ありません。どんな時でも、常に「自分は悪くない」ので、罪悪感も後ろめたさもなく、そもそも悩む理由(動機)がないからです。それで、一生涯、自己について悩むこと(反省)がないので、人間的成長も死ぬまでないのです。
しかし、そのようなリベラルやマスメディアの防衛機制的(精神病的)な自己肯定の態度は、国民の間の分断をさらに深めるだけです。

ともかく、ポピュリズム、ポピュリズムと、繰り返し、紋切り型の一方的な物言いで非難をされていると、逆に「ポピュリズムで何が悪い?」と返したくなります。実は、そう言う、彼らこそ、勝手に都合のいい対象を選んで〝敵〟認定し、その妄想の敵を「絶対の〝悪〟である」と大衆を扇動する最悪のポピュリズムに陥っているのではないでしょうか。
例えば、欧米における反捕鯨の風潮など、まさにエコテロリストの扇動による悪しきポピュリズムそのものです。また、韓国の「ロウソクデモ」で大統領になったムンジェイン氏など、衆愚政治に陥ったポピュリストの代表と言っていいでしょう。
それを、「『ロウソク』は民主主義の勝利で、トランプの勝利はポピュリズムだ」とか言うのは、意味がわかりません。ロウソクが民主主義の勝利なら、トランプ大統領誕生も、民主主義の勝利であるはずです。
同時に、「ムンジェイン政権の支持率の高さは、韓国民の民度の高さを示している」としながら、「安倍政権の総選挙の勝利は、日本国民の民度の低さを示すと共に、心配されていたポピュリズムの顕在化である」と主張するのは、国民の過半数に喧嘩を売っているにも等しい、ひどい偏向姿勢です。
トランプ支持派にも安倍政権支持派にも、それなりに真っ当な支持理由があります。反移民派にもEU離脱派にも、もっともな原因と理屈があります。反中にも嫌韓にも、捕鯨推進派にも、9条改正支持派にも、当たり前に納得のいく当然の理由があるのです。リベラルが信じ込んでいるように、知能程度の低い無教養な頭空っぽの野人が、悪魔に扇動されて操られているわけではない、ということです。
わたしから見ると、朴槿恵さんを牢獄につないでいるムンジェイン支持者のロウソク民主主義の方が、トランプ支持者よりも、よっぽどファッショに見えます。

果たしてエリート権威主義に染まった独善的で偏狭な意見は、実生活の荒波を乗り越えてきた生活者の知恵より、どれほど優っているでしょう。レヴィ・ストロースではありませんが、「科学的思考」は「野生の思考」より優位にあると、誰が確信を持って言えるでしょうか。
例えば「白人警官は常に悪で、黒人一般市民は常に善」というリベラルの大前提は、本当に疑う余地のない真実でしょうか。「実は黒人市民の方が、凶暴でとんでもなかった」ということは、まったくないのでしょうか。「悪い白人警官と無力な黒人市民」という〝神話〟は、常に真実というわけではないかもしれません。「黒人が権利を叫ぶのは許されるが、白人が権利を叫ぶとレイシストと非難される」というKKKの言い分にも一理あります。
あるいは「ケダモノ日本兵は、無垢な韓国人の少女を、20万人も無理矢理〝性奴隷〟にした」という韓国人の信じる大前提は、本当に正しい歴史なのでしょうか。「実は、ほとんど嘘だった」ということは、考えられないでしょうか。「慰安婦に少女はほとんどいなかったし、みんな政府の募集に応じたのであって、誰も日本軍に強制連行されて慰安婦にされた者はいない」とは?
「常に、日本は悪で、韓国は善である」という〝神話〟も、真実でないかもしれません。日中・太平洋戦争の日本兵と、朝鮮・ベトナム戦争で大虐殺を繰り返した韓国兵では、本当はどちらがより残虐だったのでしょう。そもそも、四・三事件や保導連盟事件だけでも、同胞を100万人以上虐殺している韓国軍よりも残虐な軍隊は、世界的に見てもポルポト軍ぐらいでは?
「鯨やイルカを食べる日本人は野蛮で、豚や牛や羊や鹿やカンガルーや鳩を食べる西欧人は文明人」という神話イメージは、信じるに値するでしょうか。「移民排斥論者はレイシストであり、移民推進論者はそうではない」という前提は、どうでしょう。「沖縄の基地反対派は常に弱者で正義であり、基地推進派は常に利権がらみの悪党」とか「左派リベラルは常に正しく、愛国者は常に胡散臭い」という〝神話〟については?
すべての思い込みを取り払った時、どんな真実が見えてくるでしょうか。

今日、ポピュリズムは、ナショナリズムの特徴の一つとされる排外主義とともに語られます。けれども、わたしとしては、例えば、右派や安倍政権をポピュリズムであると非難する辺野古・高江の活動家たちこそ、時として誰よりも排外主義的で不寛容であるように思えるのです。
また、節操なき人気取りポピュリストとして、わたしの頭に真っ先に浮かぶのは、自分は火の粉の飛んでこない安全なところにいて、「打倒安倍政権」と「原発ゼロ」を叫ぶ小泉純一郎氏と細川護熙氏のお二人です。小沢一郎氏と並んで、小池「希望の党」の影の画策者でもあります。
彼らは、おそろしく自信に満ちていて、自分を疑うことも、深く内省を迫られることも、罪悪感に苛まれることもありません。「自分は常に正しい」からです。
ところで、リベラル・マスコミの「自分は常に正しい」は、「知らせたくないことは一切報道しない」「知らせたいことは、極めて一方的な論理で伝える」という手法で行われてきました。アメリカでのトランプ報道も、日本での沖縄報道や安保法制報道や反核運動報道などもそうです。
ところが、2000年代に入って、市民社会へのインターネットの普及が、彼らのこうしたプロパガンダを非常に困難にしています。市民は「マスコミが知らせたくないことを、勝手に知るようになった」からです。
例えば、2000年代になって「嫌韓」意識が広まってきたのも、市民が日常的に自由に韓国の言論に触れられるようになったことが大きいのです。私たちは毎日、韓国で発行部数1位の「朝鮮日報」2位の「中央日報」の日本語電子版を無料で読めます。そこで、韓国では「親日派」と非難される右派の新聞で、どのような言論空間が創られているのか、リアルタイムで知ることができます。さらに、日本人や韓国人の個人の手による韓国ネット言論の日本語翻訳ブログを読めば、ハンギョレなど左派新聞の記事も読めますし、一般の韓国人の考えていることを、より具体的に知ることができます。そして、「韓国の知識人・言論人の主張を知れば知るほど韓国が嫌いになる」のです。
これが日本国民の「嫌韓」を促進した最大の理由です。
ちょうど「『沖縄タイムス』『琉球新報』の記事を読めば読むほど沖縄が嫌になる」のと、構造はよく似ています。ただ、沖縄の場合もそうですが、おそらく市井の人々は、学識者・知識人ほど反日なわけでも偏向しているわけでもないでしょう。韓国や沖縄では、一般に学識者・知識人ほどタチが悪いのです。




*ポピュリスト(大衆迎合政治家)とデマゴーグ(大衆扇動者)は、本来、「大衆が持っている不安や願望を焚きつけて自らの利益のために利用する大衆扇動者である」という点では、大差なく用いられる用語です。ただし、その時、扇動に利用する情報が、必ずしも嘘ではない場合はポピュリストであり、情報がまったくのデマである場合はデマゴーグであると言えます。しかし、両者の間には、限りなく広いグレイ領域があり、どちらとも言える場合も決して少なくありません。
一方で、ポピュリストには、既成権力や知的エリートに対して、市井の一般大衆の知恵や経験を持って立ち向かう庶民の味方(代弁者)というプラス・イメージの積極的な意味もあります。デマゴーグには、マイナスの意味しかありません。

**ニーチェの定義によるルサンチマンと韓国の恨(ハン)は、基本的に同じ精神状態を指しています。両者ともに、絶望や諦めを伴う「叶わぬ願望」や「解消できない嫉妬」の感情に耐えきれない「弱者」が、そのような感情を自分に与える「強者」への恨みを抱き、「こんな気持ちを自分に抱かせる相手が悪いんだ」と自己正当化するものです。そして、自分の正当性を信じこむ事で、強者に対して道徳的優位に立っていると勘違いし、「自分は正当な理由で相手を憎んでいるのだ」と考えるのです。実は、そうではない事を示すあらゆる事実や証拠を無視し、さらに憎しみを募らせます。そして、ついには、暴力的手段を用いてでも、強者を引きずりおろそうとするのです。最大の共通点は「自分には相手を憎む正当な理由がある」という強固な思い込みです。
ニーチェは、「キリスト教道徳」と「社会主義」を、ルサンチマンとして否定しました。例えば、キリストは「貧しい人は倖いである」「金持ちには天国の門は狭い」と言ったので、貧しい人々は「俺たち貧乏人が善で、金持ちは悪なのだ」と考えるようになったのです。また、マルクスは「一部の資本家が、大多数の労働者を支配するのは間違っている」と言ったので、貧しい労働者は「俺たち正義の労働者は、悪党資本家どもを引きずりおろす権利がある」と考えるようになったのです。しかし、これらは、どちらも、彼ら貧しい者たちにとって、都合のよい勝手な理屈であり、思い込みであるに過ぎません。
一方で、「恨」は、韓国文化の基盤をなすもので、伝統的国民性の根幹と言ってもよいものです。そして、近年においては「日本」に対する思い込みと刷り込みに、大きな特徴があります。「日本は韓国にひどいことをした悪魔だから、日本に対しては、韓国人は何をしてもいいし、どんなに憎んでも当然だ」と、彼ら韓国人は考えているのです。
しかし、「恨」は、韓国人の専売特許というわけでもなく、わたしとしては、安倍政権を引きずり倒そうとする左翼リベラルの言動にも、強烈な恨(=ルサンチマン)を感じることがあります。「安倍は戦争好きの悪魔だから、悪魔を引きずり降ろそうとする我々は正義なのだ」と、彼らは思っているのです。
そして、沖縄県民の「内地」に対する心情にも、根深い恨(=ルサンチマン)があります。「沖縄は差別されてきた犠牲者なのだから、我々が内地人を恨むのは当然だし、償いを求めるのも正当なことだ」と、彼らは感じています。
さらに、沖縄の左翼の場合は、上記の二種類の「恨」が合体しているだけに、その反米反日意識は、なかなか強烈なものがあります。そして、ついには、金正恩が大好きになって、毎年1月8日に那覇で生誕祭を祝うというのも、一見過激には思えますが、「日本憎しの成れの果て」というか、無理からぬことなのかもしれません。
彼らにとっては、米軍と対峙し、「日本帝国主義(?)」を倒すポテンシャルすら持つ(ように見える)北朝鮮は、いつの日か沖縄を解放してくれる英雄国家に見えるのでしょう。そうした沖縄左翼の心情は、「ロウソク民主主義」で、親中親北反日反米思想のムンジェイン氏を大統領に押し上げた、韓国の従北派の意識と深いところで重なるように思います。
しかし、彼らの恨み憎しみの心情は、すべて、自分だけに都合の良い理屈に則って形成された勝手な思い込みに基づいたものなのです。彼らの覚えている過去も、彼らにとって都合のよい限定された過去だけで、しかも、それらの記憶は、実に自己本位に大幅に偏向解釈され、ほとんど捏造と言ってよいほど大胆に編集されていきます。そして、その日々更新されていく人工記憶に基づいて、己の絶対的正当性を振りかざしているのです。
ニーチェは、このようなルサンチマン特有の性質である「自己に都合のよい理屈(権威)を盲信する欺瞞に満ちた道徳意識」は、「『君主の道徳』ではなく、『奴隷の道徳』である」と述べて、その心理的欺瞞を激しく非難しています。
一つ、ニーチェでなくとも言えることがあります。それは、「彼ら、『恨(ハン)を抱く者たち』には新しい時代を切り開く能力はない」ということです。偽りの過去に執着する歪んだ心情である「恨(ルサンチマン)」に、未来への希望はないのです。彼らに用意されているのは、常に「亡国の道」だけです。


AD

波動とは何か?

テーマ:
これから波動のお話をします。しかし、その内容は、しっくりくるという人もいるでしょうが、その一方で、読む人によっては、極めてニセ科学的に感じられるかもしれません。では、心して、お読みください。


バッチフラワーレメディーでは、花の波動によって心を癒すと言われています。けれども、そもそも「花の波動」とは何でしょうか?

波動とは〝波〟のことです。波は振動とも呼ばれます。波(振動)には大きさがあります。波(振動)の大きさは振動数と波長と振幅によって表されます。特に、振動数と波長は波の種類によって異なりますから、波の性質は振動数と波長によって決まると言っても過言ではありません。
さらに、特に重要なのは、単位時間(1秒間)あたりの振動数で、これを表す単位はHz(ヘルツ)です。一般に、Hzが小さければ、その波動は「大きい強い波」となり、Hzが大きければ「繊細で微細な波」となります。
その波動が、人間の精神に影響を与えるのはなぜでしょう。一つには、人間の脳もまた、一定の振動数と波長を持つ脳波という波を発生させていることに関係があるかもしれません。
通常、脳波の振動数は0.5〜30Hzの範囲と言われます。そのうちデルタδ波2Hzは、深い睡眠時の最もゆったりした波動です。シータθ波5Hzは、それより浅いレム睡眠時や浅い瞑想時の波動です。アルファα波10Hzは、精神のリラックスした状態、あるいはスポーツなど運動に集中している状態、何かに夢中になっている〝無心〟の状態の時の波動です。ベータβ波20Hzは、通常の思考状態、不安を感じている時、または、緊張して行動している時の波動です。そして、ガンマγ波26〜70Hzは、強い興奮状態の時、火事場の馬鹿力が出ている時、深い思索をしている時、強い集中時あるいは瞑想時に意志の力で直感を活性化させている時、さらには神秘体験の時に、出現する脳波の波動と言われます。
したがって、慣れない人が瞑想するとシータθ波が出ますが、修行者が瞑想するとガンマγ波が出るのだそうです。つまり、シータθヒーリングでは、深くリラックスできて夢は見れても、妄想ではない本当の神秘現象は体験できない、ということです。
上記の脳波の種類を表にすると、以下のようになります。

デルタδ波2Hz⇨深い睡眠
シータθ波5Hz⇨浅い瞑想・レム睡眠(夢)
アルファα波10Hz⇨リラックス・運動における集中状態(無心)・潜在意識の活性化
ベータβ波20Hz⇨緊張・不安・通常の思考・顕在意識の活性化
ガンマγ波26〜70Hz⇨集中・興奮・深い思索・意志による直観の活性化・神秘体験

以上、見てきたように、脳波の振動数の範囲は、0.5〜70Hz(δ波2Hz・θ波5Hz・α波10Hz・β波20Hz・γ波40Hz)であるわけですが、これに最も近い振動数を持つ別の身近な波動は〝音波〟です。
この音波のうち、人間の可聴音の振動数範囲は、一般に20Hz〜20kHzと言われます。100Hz以下が低音、1kHz以上が高音ですが、楽器の演奏範囲は30Hz〜4kHzです。また、16kHzの周波数の音波は、若者の耳にしか聴こえないので、公園などで若者がたむろしないように流すモスキート音(超高音)として利用されています。
脳波と音波は、互いに物質振動の領域で起こる最も振動数の小さい波動同士です。そして、振動数の近い波は、互いに干渉し合います。したがって、脳波と脳波、音波と音波の同種間の干渉も起こりうるし、脳波と音波の異種間の干渉も当然に起こるわけです。
干渉とは、波を強め合ったり打ち消しあったりするということです。それで、波の組み合わせによって、波長が乱されたり整ったり共鳴したりするので、あの人とは波長が合うとか合わないとか、日常的に言うことがあるわけです。
一般に、振動数が小さく、波長が長い波動は、干渉には強く、ちょっとやそっとのことでは波長が変わったりしません。この長波は、他の波動に対する影響力も極めて小さく、悠々自適の趣きがあり、我が道を往く観があります。しかし、その一方で、含まれる情報量も少なく、伝わるスピードも遅くなりがちで、波としては鈍重なイメージがあります。
逆に、振動数が大きく、波長の短い波動は、繊細で干渉に弱く、ちょっとしたことで波長を乱されがちです。しかし、その一方で、この短波は、他の波動に対する影響力が強く、自分より大きな波長と振動数を持つ波にも、簡単に合わせて共振します。そして、相手の波長とリズムを整えることができます。ですから、音楽を聴いたり、波長の細かい癒し手と一緒にいたりすると、気分が癒されることがありますが、それには、そうした理由があるのです。

さて、ここまで見てきた脳波と音波の領域(1Hz〜2kHz)は、現代医学が働きかける物質・肉体の振動による波動の領域です。そして、それより振動数の大きい波動である電波(電磁波)の周波数は、一般に300kHz〜300GHzの範囲にあります。例えば、船舶通信の長波は300kHz、AMラジオの中波は3MHz、FMラジオやアナログTVの短波は30MHz、地上デジタル放送は300MHz、衛星放送・携帯電話・電子レンジは3GHz、レーダーは30GHzの振動数を持ちます。
この電波(電磁波)の領域は、科学技術や医療機器で使用される振動領域です。ですから、医療機器への干渉を恐れて、病院では携帯電話の使用を制限しているのです。
さらに、この上の領域は、光の波動域になります。光の振動領域は3THz〜800THz以上になります。その中でも赤外線は3〜400THzの振動数で、この領域は〝熱〟つまり物質界のエネルギーの振動領域になります。そして、この赤外線領域が、ホメオパシーの波動と同じ振動領域になると考えられています。ですから、ホメオパシーの波動は、物質界のエネルギー領域に直接作用するため、肉体に強く働きかける効力があるのでしょう。しかし、その一方で、電磁波の波動領域にも比較的近いので、電磁波の影響(干渉)を受けやすい面もあります。
その上の可視光線の領域である400(赤)〜800(紫)THzの波動領域は、オーラソーマとバッチフラワーレメディーの領域でもあると考えられます。ですから、ホメオパシーと違って、オーラソーマやバッチフラワーレメディーの波動領域は、電磁波の領域からかなり遠いので、さほど強い影響は受けないということです。
けれども、オーラソーマやバッチフラワーレメディーは、特に繊細な波動なので、わずかな干渉であっても、変質しやすい面があります。また、オーラソーマの場合は、ボトルの色自体が変わるので、その変質に気付けるのですが、バッチフラワーレメディーの場合は、変質に気付くことができません。ですから、なるべく、電磁波からは防護する手段を講じるべきです。
以下に、ここまでの波動の種類を図表にしてまとめました。

音波3〜500Hz(物質振動)⇦〈脳波と重なる/現代医学が働きかける肉体領域〉

電磁波
500kHz(AMラジオ)〜100MHz(FMラジオ)〜2.5GHz(電子レンジ・地上デジタル)
⇦〈科学技術・医療機器の領域〉

赤外線3〜400THz(熱✴︎物質界のエネルギー振動領域)⇦〈ホメオパシーの波動と同種〉

可視光線400(赤)〜800(紫)THz⇦〈オーラソーマ・バッチフラワーレメディーの波動と同種〉

次に、可視光線(色)は人間精神にさまざまな影響を与えることが知られています。その色そのものの力を利用するオーラソーマはもとより、バッチフラワーレメディーについても、花の持つ同種の波動が、人間精神に働きかけるものと思われます。
また、色の波動にも、振動数が小さく波長の長い〝赤〟から、振動数が大きく波長の短い〝紫〟まで、多くの種類があります。
可視光線で最も振動数の小さい450THzのレッドは、脊椎動物に共通する生存本能に関わる色で、動物的・生理的欲求衝動をテーマとします。簡単に言えば、「生きる力」に関わる色です。赤外線に最も近いという意味で、エネルギーの色と言うこともできます。
振動数500THzのオレンジは、哺乳類に特有の無意識の情動である母子一体感に関わる色で、家族に関わる自立と依存のテーマを持ちます。臍との関わりがあります。記憶のトラウマとの関連がある一方で、僧侶の袈裟にも見られるように、霊を表す色でもあります。
振動数520THzのイエローは、霊長類に共通する意識の働きである群れの中での社会的承認欲求に関わり、社会的安定や社会的地位や世間の評価をテーマとします。胃やみぞおちとの関わりがあり、不安との関連がある一方で、消化や理解を促す知性の働きを示す色でもあります。
ここまでを簡潔にまとめると、レッドの主題は生存(サバイバル)であり、オレンジとイエローの主題は「自分の居場所はどこか」ということです。
さらに振動数550THzのグリーンは、霊長類ヒト科に特有の魂とハートの問題に関わり、愛情や自己実現をテーマとします。心理的閉塞感と関連がある一方で、心の広がりを象徴する色でもあります。
振動数630THzのブルーもまた、霊長類ヒト科特有の言語や芸術表現に関わり、他者への信頼やコミュニケーションをテーマとします。権威との軋轢を象徴する一方で、神や自身の運命への信頼や心の平和を象徴する色でもあります。
最後に、最も振動数が大きく波長の短い繊細な波動である振動数700THzのバイオレットは、ヒトの直観の働き及び霊的・精神的統合に関わり、人格的成長と内面の浄化をテーマとします。孤独や影を象徴する一方で、癒しと変容を象徴する色でもあります。
以上、グリーン・ブルー・バイオレットの三色は、ヒト特有の高度な精神の働きと関連しており、バッチフラワーレメディーの波動の領域とは、かなり振動数と波長が近く、共鳴しやすいのではないかと思われます。
以下に、可視光線の波動の特徴を表にしました。

①450THzレッド〜脊椎動物の波動⬅️動物的・生理的な欲求衝動(餓え・睡眠欲・性欲)
②500THzオレンジ〜哺乳類✴︎心・無意識の情動⬅️依存的・家庭的な安全欲求衝動
③520THzイエロー〜霊長類✴︎心・意識の働き⬅️社会的承認評価の安定欲求衝動
④550THzグリーン〜霊長類ヒト科✴︎魂・ハート⇦〈植物・バッチと波動共鳴〉⬅️自己実現・愛
⑤630THzブルー〜言語・社会✴︎魂・芸術活動⇦〈植物・バッチと波動共鳴〉⬅️芸術衝動・信仰
⑥700THzバイオレット〜直観✴︎魂・霊性⇦〈植物・バッチと波動共鳴〉⬅️霊的浄化衝動・癒し効・変容

以上、見てきたように、ホメオパシーも、オーラソーマも、バッチフラワーレメディーも、波動としては、かなり振動数の大きい繊細な波動であると予想出来ます。特に、バッチフラワーレメディーは、最も振動数の大きい微細な波動であり、その干渉は人間精神の奥深くにまで届くようです。
「ホメオパシーは、物理的肉体的に直接即座に効力が感じられ、一方で、バッチフラワーレメディーの効力は内面の奥深いところで感じられる」という証言がありますが、そのように感じられるのは、上記のような理由によるものと思われます。


最後に、この解説文全体は、科学的な記述ではありません。なぜなら、ホメオパシーもオーラソーマもバッチフラワーレメディーも、現代科学の領域では、その効力が疑問視されているからです。そして、これらのレメディーが上記のような特有の波動を持つということは、いかなる科学的な実証もなされていません。ただ、効果はあるということを、経験上よく知っている人たちがいるだけです。
ですから、上記の説明は、このように理解してはどうか、という方便としてお受け取り下さい。


エドワード・バッチ年表
1886年生誕(パスツールが狂犬病ワクチンを開発した翌年)
1918年、32歳、史上最悪のインフルエンザ⇨全世界で2000万人以上が死亡。
1920年、34歳、ワクチン療法への批判。
⇨ホメオパシー(同種療法・肉体の自己治癒力増進・10の60乗倍に希釈)への共感。
1920〜1930、ホメオパシーと近代医学の統合を夢見た時期。
1928年、42歳、インパチェンスと出会う。
自己の内的波動と植物の波動との共感と共鳴のプロセスを経験。波動の調整療法。
以後、その体験を重ね、経験を深める。
1930年、44歳、太陽法(光による波動の転写*)の発見。フラワーレメディーの誕生。
1931年、45歳、「汝、自らによって病む」講演。現代医学と決別。12ヒーラーズの完成。
1936年、50歳、7ヘルパーズ、セカンド19まで、38種類のレメディーを見出したのちに永眠。

*太陽法〜バッチ博士は、花の上の朝露を見た時、「この朝露に花の特性の全てが保たれているに違いない」と感じました。そして、花を揺すってボールに受けた朝露を口に含んだ時、感じたものを再現するため、摘んだ花を水に浸して、太陽の光を浴びさせるという方法で、人工的に朝露の効果を得ようとしたのです。花の波動を光の作用で水に転写するための簡単な技法。日本では、古来から重陽の節句(**)で、似たような技法を用いていました。

**重陽(ちょうよう)の節句〜九月九日、朝には、菊の花に溜まった朝露を飲み、昼は、菊の花びらを浸しておいたお酒(菊酒)を飲み、菊の花を愛でる宴を楽しむという風習。菊の花の香気によって、邪気を払い、健康長寿となるとされています。
この節句は、五節句(***)のひとつとして、奈良時代に中国から伝わり、平安時代に貴族の年中行事として、菊の鑑賞や菊酒や朝露を飲む風習が、この国に根づいたのです。

***五節句〜陽の数(奇数)が重なると陰(偶数)に転じることから、邪気が生じるため、それを払わなければならない、とされた日。
★1月7日七草の節句には七草粥を食す。煮沸法に通じるものを感じる。
★3月3日桃の節句には桃花の酒を飲み、桃の葉の湯で湯浴みする。邪気を払うとされる。雛人形もまた、本人の代わりに邪気を受ける依代となる。桜餅を食べる。
★5月5日端午・菖蒲の節句には菖蒲湯で湯浴みし、菖蒲酒を飲む。邪気を払うとされる。
★7月7日七夕・笹の節句には、笹に願い事を書いた短冊をかける。邪気を払うとされる。
★9月9日重陽・菊の節句には、菊酒を飲む。寿命が伸びるとされる。
冬至には柚子湯に入る。風邪をひかない。

実存主義とは何か?

テーマ:
実存主義とは何か?
実存主義とは、「実際に今ここに存在している自分の固有の人生を生きることについて考えること」を意味します。簡単な言葉にすると、「今、ここに生きている自分」が、具体的に「どう生きるべきか」について考えることを最重視する哲学ということです。知識や体系ではなく、生きることそのものに価値を置いているのです。
第二次世界大戦前後のフランスでは、人類の持つ(とされてきた)理性への信頼が失われ、人間の努力への悲観主義が蔓延していました。その頃、「不条理な世界を生きる不条理な人間の虚無的な心」をあらわす言葉として、「実存主義」という哲学用語は、かなり否定的な意味で使われていました。
当時は、定職につかず、カフェなどにたむろして、刹那的な享楽主義を生きるその日暮らしの若者たちが、パリには大勢いました。そして、「実存主義」は、彼らの漂流する自我と目的のない不毛なライフスタイルを、批判的に表現する蔑視の言葉だったのです。具体的には、カミュの「異邦人(*)」などに描かれている不条理で空虚な生き方がそうです。
しかし、同じくフランスの哲学者サルトル(1905〜1980)は、「実存は本質に先立つ」と述べ、まず「生きる」という実態があって、そこから初めて精神の本質が生まれると考えました。それは、つまり、明確な目的を持って人間を創造したはずの神の不在を認め、それ故に、「人は理由も目的もなく、この世に偶発的に勝手に存在を始めるのだ」という、人間の無神論的実存の事実を表した言葉です。そして、存在を始めた、その後で、人は「何のために生きるのか」を主体的に決めるのだ、という主張です。
また、サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」とも述べています。「自分の自由意志で主体的に生きることを強いられながら、人間にはその結果に対して自己責任を取ることは能力的に不可能だ」ということから、「自由であることは個人には背負いきれない重すぎる負担である」と考えたのです。
しかし、その一方で、「実存は本質に先立つ」は、「人は、実存に目覚めて初めて、主体的に自由に生きることが可能になる」という積極的な意味にも考えられます。さらに「いまだ実存に目覚めない微睡む精神のままでは、人は真の人生を生きることはできない」という戒めの意味もあり、「人間は、もともと不条理な存在であり、その不条理な自分自身の心に気づくことがもっとも大切だ」ということでもあります。

実存主義のルーツと言われるのは、19世紀前半のデンマークの哲学者キルケゴール(1813〜1855)です。キルケゴールは、人間の実存を、三つの段階に分けて考えました。第一段階は、「美的実存」という生き方で、この段階の「楽しければ、それでいい」という幼稚な精神状態では、人は「あれもこれも」とひたすら快楽を追いかけて生きています。しかし、何度か痛い目を見て、深く反省させられ、そうした享楽的な生き方に疑問を抱くようになると、人は徐々に「倫理的実存」に目覚めるようになります。つまり、深い罪悪感を抱くと同時に「もっと正しい生き方をしたい」と願うようになるのです。
ところが、人間の心はままならないもので、正しく生きたいと強く願い、「あれかこれか」と選択を悩む時に、「他者を踏みにじっても自己中心的な欲求に従いたい」という意思を完全に消し去ることが、どうしてもできません。そして、正しく生きられない自分自身に、次第に絶望するようになります。キルケゴールは、倫理的に生きようとする個人が必ず直面する、この自己への絶望を「死に至る病」と呼びました。
人の心の中には、必ず嫉妬やら恨みやら邪心やら驕慢やら怠惰やらの悪の心が潜んでいるものです。どんな人でも、人である以上、その悪から免れることはできません。倫理的・道徳的に生きようと、どんなに努力しても、自分の心の内なる悪を退治することはできないのです。
大抵の人は、その内なる悪に気づかないふりをして、外面だけうまく取り繕って生きています。誠実に倫理的であろうとしたら、死ぬよりほか道がなくなってしまうからです。夏目漱石が「こころ」で描いた「先生」の最期のように。
しかし、人は時として、その苦悩と絶望の淵から、一切の我欲を捨て去った「宗教的実存」に目覚めることがあります。ごく一部の人が辿り着く「神の前にただ一人立ち、神の意志に従う」という究極の境地が、この宗教的実存です。この状況は、文学の中では、主にファンタジーとして描かれます。ナルニア国の王アスランの前に立つエドマンドのように、すべての罪を認めて、神の前に身を投げ出してすべてを委ねるのです。
キルケゴールの場合には、「自分は彼女を幸せにできない」という思いから、深く愛しているが故に最愛の女性と別れたエピソードが有名です。

しかし、19世紀末〜20世紀初頭においては、唯物論・無神論が、欧州の価値観を根底から揺るがしていました。科学信仰と進歩主義によって、伝統的キリスト教精神が失われつつある当時、キルケゴールの宗教的実存は、神の実在を疑う無神論者にとっては、自らの生き方としては受け入れられないものだったのです。
そして「神は死んだ」という言葉で有名なニーチェ(1844〜1900/ドイツ)が登場しました。ニーチェにとっては、伝統的な教会の権威に依存したり、当時欧州を席巻していた社会主義思想に傾倒する生き方は、創造的自己変革を初めから諦めている弱者による醜い自己正当化(ルサンチマン)に過ぎないと思えました。彼らは徒党を組んで、自分より優れた者を引き摺り下ろすことに躍起になるのですが、それは自分が劣っていて醜悪であることから目をそらす手段に過ぎないのです。ニーチェは、こうしたキリスト教の信仰や社会主義思想の信奉を、正しいことを他者に決めてもらい、自分の立場を権威に保証してもらい、都合よく心地よくそれに従うという、忌わしい奴隷の道徳であると感じました。
それだけではなく、例えば、「権力は悪だ!」「イスラム教徒は悪だ!」「金持ちは悪だ!」「警官は悪だ!」「トランプは悪だ!」「日本は悪だ!」というように、自らを正義と思い込み、他者を悪と決めつけて、身勝手な憎しみを抱く、このような空虚な倫理観を、ニーチェは「君主の道徳ではなく、弱者による醜い奴隷道徳である」と断じたのです。
そして、己の心を支える何物も信じられない「神のいない世界」で、生の意味を見失い、虚無主義(ニヒリズム)に陥っていた人々に、ニーチェはまったく新しい生き方(あるいは太古から続く由緒ある古典的な生き方)を示しました。
それは、どんなまやかしの権威や価値観にも依存せず、「意味のない人生を、意味がないと知りつつ、その無意味さを真正面から受け止めて精一杯生きる」という仏教的な無常観にも通じる生き方でした。ニーチェは、これを人(弱者)を超えた超人(強者)の生き方として、「永劫回帰(無限に続く無意味な繰り返しを運命と受け止め、その自己の運命を愛して生きる)」と表現しました。
そして、その生きる意欲を支えるものは、盲目的な「生への意志(力への意志/権力への意志)」であるとニーチェは考えました。

このニーチェの影響を受けたのがハイデッカー(1889〜1976/ドイツ)です。ハイデッカーは、「大衆社会の中で没個性的に生きる個人(世界内存在)は、自分の死に直面して初めて、自分がやり直しのきかないたった一度のかけがえのない生を生きる唯一無二の存在(現存在)であることを知る」と考えました。
例えばキルケゴールは、自分が34歳までには死ぬと信じ込んでいました。それは、彼の父親が、自分の犯した強姦の罪のために、自分の7人の息子たち(キルケゴールは末っ子)は、キリストが磔にされた34歳まで生きられないと頑なに信じ込んでおり、実際に長男と末っ子を除いて5人が34歳までに死んでいたからです。この自己の存在の根っこにある不安が、キルケゴールの思索の出発点でした。自分は必ず若くして死ぬと信じていたことが、キルケゴールを深く苦悩させ、若くして実存に目覚めさせたと考えられるのです。
このことをハイデッカーは、「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」と言っています。自分の命の有限性に気付くことが、囚われの盲いた心を責任ある自由に向けて解き放つ、ということです。
つまり、「人は、自分がいつか必ず死ぬということを思い知って、初めて、個人として生きていることを真に実感することができる、それはすなわち、心を根源的な真理に目覚めさせることにつながる」と考えられるのです。その真理とは、ハイデッカーによれば、「個人は共同体と民族のために自分の限りある生を奉仕させるべきだ」という「民族の運命に殉じる精神」なのでした。
誰にとっても、人生は常に有限であり、一生の間にできることには限りがあります。その限りある生を自由に主体的に「民族への責任を持って生きよう」と決意する勇敢な意思こそが、ニーチェが「権力への意志(生への意志)」と名付けたものである、とハイデッカーは考えたのです。
第一次世界大戦後の廃墟の中で、人間の理性への信頼を失いかけていた人々に向かって、ハイデッカーは、虚無主義(ニヒリズム)を乗り越えるために必要なのは、この「決然として明晰な意志の力」だと主張しました。そして、そのカリスマ的知性は、当時の多くの学生を魅了したのです。

ニーチェもハイデッカーも、具体的な目標も方向性も持たない原初的な生への衝動とエネルギーを、人間の根源的な生きる力の源泉として、極めて肯定的に捉えていました。ただし、ハイデッカーの場合は、この「権力への意志」は盲目的なものであってはならず、明確な目的を与えられるべきだと考えていました。
このニーチェとハイデッカーの思想は、日本人にはそれほど奇異には感じられないのですが、欧州においてはあまり馴染みのない考え方で、そのせいか、ひどい誤解を受けました。「神のいない現実世界では、倫理的な罪も罰もあり得ないのだから、人間は何をするのも自由であり、自己の生存を保持する上で、他者を支配する権力を獲得するためには、どんな手段を使うのも、無制限に許されている」と受け取られてしまったのです。
同時に、第一次世界大戦という災厄によって、キリスト教精神と人類の進歩への根深い懐疑に囚われていた欧州人の心を動かす道具として、「権力への意志」という煌めくイメージが、民族意識の高揚に利用されたということもあります。
例えば、レニ・リーフェンシュタールによるナチス党大会の記録映画「信念の勝利(1933)」「意志の勝利(1934)」、ベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア(1936)」などの映像作品によって、ナチスの権力掌握の物語として「権力への意志」のイメージは強烈に印象付けられました。
さらに、シュペングラーの著書「西洋の没落(1918〜1922)」に象徴される「生き残りを賭けて、第三極を目指せ!」という当時の欧州諸国の危機意識があり、スペンサーの社会進化論と国家有機体説(**)などの強い影響もあって、国家社会主義思想が注目されるようになりました。こうした情勢を背景に、民族主義と国家優先主義を唱えるヒトラーのナチスは、ドイツの最先端科学技術と芸術を複合的にプロパガンダに利用し、国民の熱狂的支持を得て急速に台頭しました。
その過程で、ニーチェやハイデッカーの哲学が政治的に利用され、結果として、ナチス・ドイツの無神論的な全体主義思想とゲルマン民族至上の優生学思想に権威を与えてしまったのです。また、ハイデッカー自身、事実、ナチスに入党(1933)していました。
当時、多くの文化人や知識人が、初期においては、ナチスを「現代の最も力強い精神運動」として礼賛していたのも事実なのです。中でもハイデッカーは、非常に熱心なナチズムの信奉者であり教育者でした。その他、戦後、ナチズムの本質を「道具的理性(***)」として批判したフランクフルト学派のアドルノも、1934年まではナチス賛美の言論活動に加わっていたと批判されています。
おそらく、ニーチェが生きていたならば、「ナチスの反ユダヤ主義もまた、ルサンチマンに過ぎない」ことを看破していたかもしれませんが。

この激動の時代に、キルケゴールの宗教的実存について、再び考察しなおした哲学者が、ハイデッカーと同世代の哲学者ヤスパース(1883〜1969/ドイツ)です。ヤスパースの妻はユダヤ人であり、ヤスパース自身、大戦末期には妻とともに収容所へ送られる寸前でした。自国の政府により殺される寸前、敵国の政府に助けられることになるのです。この自己の寄って立つ基盤(日常)が崩壊していく生々しい喪失体験(実存の不安)が、ヤスパースの哲学に決定的な影響を与えたと考えられています。
一般に日常的現実の中に埋没している人間は、キルケゴールの言う美的実存を生きており、生活の安定と享楽だけを望んで生きています。難しいことを考えるのは面倒なだけですし、実際、興味もないのです。
しかし、「限界状況(極限状況)を体験した人間は、もはや以前と同じではいられない」とヤスパースは考えました。限界状況とは、人間が耐えうる限界の体験を意味し、生と死の狭間の体験、究極の苦痛や苦悩の体験などをあらわします。
限界状況において決定的挫折に直面した人間は、どうすることもできない孤独と絶望に突き落とされます。誰にもわかってもらえないかもしれない終わりのない苦しみに、独り苛まれるのです。けれども、その極限の苦悩と孤独の中で、人は真実の人と人の深い交わり(実存的交わり)を求めるようになります。それは、深い理解と共感への切実な飢えです。この「飢え」を感じない者は、実存的交わりを求めることもないのです。また、同時に、限界状況にある者は、時として、ショル兄弟やシモーヌ・ヴェイユのように、想像を絶する恐怖と苦痛と絶望の中で、絶対的な存在(超越者)の実在を感じて、真の実存(宗教的実存)に目覚めることもある、とヤスパースは考えたのです。
ちょうど、アンデス山中に飛行機が墜落し、雪山に遭難した「生存者(****)」たちのように、彼らは非日常的な生と死の狭間を体験して、まったく新しい心で世界を感じ、まったく新しい目で世界を見るようになります。これが「実存の目覚め」です。
このように、ハイデッカーとヤスパースは同時代の盟友ではありますが、ハイデッカーが無神論的にドイツ精神の高揚を目指したのに対して、ヤスパースは有神論的に個人の実存を追求したのです。

それにしても、ハイデッカーとヤスパースの晩年は、あまりにも対照的でした。ハイデッカーはナチスへの協力者と非難されて惨めな老後でした。一方で、ヤスパースは、戦後、評価が高まり、華々しく活躍を続けました。
しかし、ハイデッカーとヤスパースの人間性や思想に、それほどの差があったのでしょうか。たまたまヤスパースにはユダヤ人の伴侶がいた。ハイデッカーにはいなかった。けれども、もしも、教え子でもあり恋人でもあったユダヤ人ハンナ・アーレントとの付き合いが続いていたら、そして二人が結ばれていたら、どうだったでしょう。ハイデッカーもまた、早々とナチスと距離をとったかもしれません。すべては〝運〟だったのではないでしょうか。
とはいえ、ハイデッカーやアドルノが、戦後、ナチスへの協力に関して追求を受けた時の言い訳は、かなり見苦しいものでした。打たれ慣れていない人間の脆さが、もろに表出した感があります。
思えば、ニーチェもキルケゴールも、あまりにも真面目で、ある面で精神のひ弱さを感じさせる人でした。ニーチェが発狂したのも、キルケゴールが早死にしたのも、神経が繊細で、性格が純粋すぎるがゆえとも思えます。その反面、生真面目すぎて、くだけた話が通じないというか、言わば、猥談のできない人たちと言うのでしょうか。人間としては、少し面白みに欠けるというか、フーテンの寅さんと友だちになれない人たちと言ってもいいかもしれません。そういう人たちは、どこか打たれ弱い。
そういう点では、孔子やソクラテスやセネカやマルクス・アウレリウス・アントニウスといった古代の先賢たちは、本当に逞しかったと思います。生活臭が濃厚で、なおかつ、日常的に戦場があり、命のやり取りをしていた古代の人たちは、やはり経験値が豊富と言うか、肉体面でも精神面でも鍛え方が違います。精神を支えるバックボーンが重厚で骨太なのです。近代で、これに近い経験値を感じさせる哲学者は、ドストエフスキーぐらいでしょうか。
彼ら先賢たちの逞しく野太い精神を支えたのは、根源的で盲目的な〝生への意思〟と、神(運命)への深く揺るぎない信頼です。
その意思と信頼をもって、彼らは豊かで実りの多い人生を全うしたのです。



*「異邦人(1942)」→フランスの植民支配下にあった北アフリカのアルジェリアが舞台。老人ホームで実の母親が孤独に死んだという通知を受けても、なんの感慨もいだくことのない主人公ムルソーが、同じようになんの感情もなく些細なことから人を殺す。取り調べで、なぜ殺したのかを尋ねられ「太陽が眩しかったから」と答える。
全ての虚構を剥ぎ取り、人間の心の不条理と非共感性の真実の姿(実存)を、一切ごまかすことなく誠実に描ききった、「ペスト(1947)」と並ぶカミュ(1913〜1960)の代表作。

**スペンサー(1820〜1903)→19世紀イギリスの社会学者。
当時、社会を席巻していたダーウィンの進化論を人間社会に当てはめて、「国際社会においても『適者生存の法則』が働いている」つまり「環境によりよく適合した国家だけが生き残ることができる」と考えた。これが『社会進化論』の概念である。また、さらに考えを進め、国家の構造と機能の優劣が国際環境適応力に密接に関係するという『社会有機体説』を生み出した。
こうしたスペンサーのアイディアが、国家の効率性向上を至上目的として、個人に全体(国家)への奉仕を無条件で強いる国家社会主義思想(全体主義/ナチズム)に援用された。

***「道具的理性」→大戦後、ユダヤ系のフランクフルト学派によって、ナチズムの元凶の一つとされた思考形態。ホルクハイマーやアドルノによって作られた概念。
本来、ソクラテスに見られるような健全な信仰心に裏打ちされた知を愛する精神が働かせる理性は、内的にも外的にも「より深く知ろうとする」哲学的意欲によって為される知的思索行為のための道具だった。
しかし、信仰を見失った近代人の心においては、理性が欲望に仕える道具として働く。その場合、思考は単に目的達成の手段を獲得するためにのみ働くのである。そのため、知的関心の範囲は極めて制限され、「これは何なのか」ではなく「どうすればいいのか」だけを考えるようになる。
まとめると、「近代の理性は、正邪を見抜く叡智の働きを宿すことなく、集団と個人の支配欲や成功欲、あるいは保身や防衛の実現のための手段に過ぎないものとなり、つまりは人間の欲望の道具に成り下がってしまっている」というのが、フランクフルト学派の主張である。
そうすると、「どうしたら、人は本来の理性の働きを取り戻せるのか」というのが、次のテーマとなるはずである。しかし、マルクス主義を哲学的に発展させようとしたフランクフルト学派は、道具的理性を乗り越える道を見出すことが、ついにできなかったように思える。第2世代のハーバーマスが提唱したコミュニケーション的理性というのも、何となく本質から逸れた詭弁に聞こえてしまうのだ。

****「生存者(1974)」→P・P・リードによるノンフィクション。映画「生きてこそ(1993)」の原作。冬のアンデス山中で70日間を生き延びた旅客機遭難事故の生存者たちの実話。孤立無援の極限状況の中、次々と仲間が死んでいく。それでも希望を見失わず、仲間の人肉で飢えをしのいで厳しい冬を越え、決死隊が自力で救助を呼びに山を下り、奇跡の生還を果たした人々の物語。
一切の人為が通じない極限の大自然の御手の中から帰ってきた男たちの一人が語る、「山には神がいた」という言葉が胸に刺さる。
しかし、これは山だったからこその言葉であり、もしも、この極限状況が、人間の作り出した悪夢である戦場であったなら、決して起こり得なかっただろう。