躾と仕付け | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

イタリアのバールやレストランは犬同伴okのところが多い。はっきり言ってお行儀が非常に良い。下手な子供よりよく躾けられているなあ、と思うことがある。

 

それでも、歩道での犬の糞尿の多さは犬のせいではなく、飼い主のモラルの問題。自分の家が汚されるわけではなければ、どうでも良いのだろうなあ。

 

ところで、最近ある本のまえがきで面白い内容を読んだ。

 

>犬には躾けができるが子供にはなかなか教育ができないだろう、と思われる理由は、犬のトレーナーは人間の優位をあくまで明確にし、犬にはきちんと理屈の通ったことを命令して従わせ、その上で時間を改めて十分にかわいがるという姿勢を貫いているが、今の日本人は、先生も子供も平等で、教育はあくまで当人が自発的に望むものでなければいけない、厳しく言うのもいけない、という姿勢だから、規律と個性を持った人間など、ほとんどつくれないのである。

 

というものだった。私はペットを飼ったことがないので、犬のことはよくわからないのだが、子供の躾に関しては、小さい頃が肝心で(ある意味強制で)それが習慣づけられれば理想なのだが、そうそううまく行かない。いや、ちっちゃくてもお行儀の良い子はたくさん見るが、どこが我が家と違うのだろう?と頭を抱えてしまう。

 

ところで、中学生の頃、教師にビンタをされたことがある。数学の教師だったのだが、チャイムと同時に教室に入ってきて、その場で立っていたものを一列に並ばさせ、頬を叩いて行ったのだ。チャイムが鳴ったら席に着けば良いわけで、チャイムと同時に入ってくるとは、嫌がらせ?としか思えない。親にも叩かれたことがないのに...ショッキングだった。理屈がわからない。それでも問題にはならなかった。今では大変なことになることだろう。

 

また、さすがにこれはやられたことがないが、授業中問題のある生徒を教壇に立たせ、一段下から教師はその生徒の顎に両手の親指をいれ持ち上げるのだ。顎が外れた生徒はいなかったように思う。それでもいつからかクラスメートが後ろの黒板に教育委員会の電話番号を書いてから、そういう出来事がなくなったような記憶がある。

 

学校でも家庭でも「躾」といって、本気で生徒、子供を殴ってあざだらけにさせたり、怪我をさせたら、それは「暴力」(虐待)だろう。生徒、子供よりも感情が先に立ち、一時でもそれをコントロールできず、力で相手を服従させるとしたら、それは教師(親)の「人間性」に関わってくると思う。本質的にはそこに「愛」かあるのかどうか。個人的にも子育てには本当に頭を抱えているが、親、教師、指導者となる人たちの「人間性」と生徒、子供達からみた信頼性、徳?がなければ人間的に成長させる教育?はありえないような気がしてしまう。

 

話は逸れたが、洋裁はミシンで本縫いをする前に「仕付け」をする。(わたしなんぞ横着なんで、ただ待ち針を刺すだけだが)。しかし、和裁では、すでに縫いあがった着物に「仕付け」を施す。洋裁では仮縫いであっても、和裁では、仕上げに縫った部分を定着させる為、仕付けを施す。そして、着物を着るとき、その糸を外すのだ。考えてみれば新しいジャケットやプリーツのスカートにも仕付けは施されている。

 

勿体無いというか、面倒くさいというか、そのとてつもなく手のかかる作業、姿を消して「一作品」となる。

 

それは、子育て、人間の成長と同じなのだろう。いつまでも、仕付け糸がついていたり、仕付けの工程を省いた作品には型崩れも出てくることだろう。

 

こういったものは親がするものであるのに、今や学校やお金を出した他人がしてくれると思っている親もいる。

 

手作業には手作業の喜びがあるように、子育ての喜びも見出そう。