・・・が急いでいたので、そのまま通り過ぎ、一週間忘れていた。
そして、一週間後の今日、またそこを通り、再びはっと思い、立ち止まった。
「è nato per rinascere」 そこには、『生まれ変わるために生まれた』と書かれていた。何の広告だったのかさえ、記憶にないのだが、その言葉だけが脳に焼きつき、聖書研究会へ・・・
ところで、この一年、聖書研究のクラスで、聖パオロについて勉強している。
先週は、彼の書簡の中でも『愛の歌』(Inno alla Carità)と呼ばれるコリントI-13章に触れた。
「愛」に関する言葉が15語並ぶのだが、その最後の4語は私にとってかなり大きく響く。
tutto copre すべてを忍び
tutto crede すべてを信じ
tutto spera すべてを望み
tutto sopporta すべてに耐える。
最近、どうも家族や、人との係わり合いの中で考えさせられる事が多い。
すべてを信じる・・・家族に当てはめてみよう。明らかに嘘をついているのが分かる時、また一度嘘をつかれると、その次はどうしても疑いの目を持ってしまう。それでも相手を信用する気持が大切だといわれた。信頼したくても、心配はつきもの。それに耐えるからこそ忍耐なのだろう。
人との係わり合いの中で、相手が受け入れない時は、言葉は無駄であろう。ただただ忍耐をもって沈黙せざるを得ない。忍耐とは心の力を使うことで、我慢とは違う。忍耐には希望があるという。
自分の心を開く事により、新しい人間として生きることができる。それこそ『復活』:è nata per rinascereなんだな・・・・と今朝見た看板をふと思い出した。
そして、聖書のクラスでは、今日の福音が紹介された。
マタイ20:20-28
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「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
うわっまさに家庭での私の事を言っている・・・ぐら~っときた。
仕えるのも仕えられるのも、その人の心次第。
この福音の中では、「杯を飲む」という言葉が出てくるが、このイタリア語「Bere il calice」というのは、「苦しいものを飲み込む」という意味がある。忍耐とは苦しいものを飲み込むことか・・・
自己主張の時代、自我を通すことにとらわれず、忍耐して内面を鍛錬する姿勢を忘れないようにしたい。