排出権取引が活況を呈している。でもこの仕組みには単純な脆弱な落とし穴があり、やらないよりはマシなんだけど、「従来に比べて減らす」という目的は、たとえ瞬間的にできたとしても長期にわたって達成する事ができず、問題の先送りでしかない。


この落とし穴については、食料需要への不足や価格高騰問題が最初からわかりきっているにも関わらず、それを包み隠し、唯一素晴らしいアイデアであるかのように飼料、食料となる大豆やトウモロコシをガソリンに代わるバイオエタノールとした時と同じようなものだ。


この仕組みは本来


【世界の二酸化炭素排出量を従来に比べて減少させる事が重要なポイント】


にも関わらず、【これに逆行してしまう可能性が大】という見落としがちな落とし穴がある。


それは、世界の経済界に「今まさに存在する」


「二酸化炭素排出【過多】国、企業、団体」と「二酸化炭素排出【量割り当て規制を下回る】国、企業、団体」


の【どちらのパイも増えない前提】でしか成り立たないということだ。


つまり、新たな産業や新たな途上国から先進国へ向かおうとする国があって二酸化炭素が「更にプラスアルファになれば」、たとえ相殺したとしてもその分、世界全体の【CO2の絶対量は増えてしまう】のだ。


これを回避する為には、


◎二酸化炭素が増える分、同時並行して増える以上に減らすため、ことごとくこれまでの大量排出国、企業、団体が二酸化炭素を猛スピードでゼロにしていく

◎二酸化炭素を排出する国家プロジェクトや既存産業への新規参入や二酸化炭素を排出する国家プロジェクトや新規産業を禁止するか全く排出しない仕組みで参入させなくてはならない


が、1つめが簡単にできるならやってるだろうし、そもそも何かを始めても二酸化炭素を出さない技術があるはずで増えるはずはなく、減る一方になる夢また夢のアイデアであるか、現在の二酸化炭素排出産業を壊滅させるかいずれか。


1つめの前者が夢また夢で1つめ後者と2つめは経済発展に猛進する限り、そんな事は絶対しないだろう。


そうすると京都議定書の時と同様に蓋を開けてみたら結局


できませんでしたー!余計増えちゃいまいたー!当時の試算ではできるはずだったんだけどなー、いやぁ、難しいねぇ。。どうやったらいいんだろうねぇ。もう一度話し合おっか?


と初めて悟ったかのように舌を出すのが関の山。


バイオエタノールの時には道半ばで食糧部分ではなく茎や(食べるに適さない)葉などが利用できることがわかったんだけど、既に莫大な開発費を投じ、実現可能性が高まったタイミングだった(と思われる)事と大豆、トウモロコシなどの穀物農家の逼迫した状況から(食料となる部分の)流通を増やすべきという考え方があった(と思われる)事と、さらに商品先物取引市場の穀物相場維持のために方向転換しなかったと考えられる。



地球上にないはずだった近代化により人類が作り出してしまった分の余分な二酸化炭素と人類が伐採してしまったその地に生息していたはずの樹木、木々、草などの植物とそこに住んでいたはずの動物や虫たちが消えてしまった事で吸収できなくなった分を余計に排出している二酸化炭素だとするとまず、


◎第一に元そこにあった生態系をそのまま復元すること

◎第二に人類が余分に作りだした二酸化炭素を抹消すること


の2つが絶対条件であり、実現後の絶対的な付加条件が


◎地球に存在しなかったはずの新たな二酸化炭素を排出しないこと


これが地球自然環境回復の為に必須の改善策だ。これをおいて他に解決の道はない。


これ以外のどんな手法も単なる延命措置(しているような錯覚)に過ぎず地球が元の通り、息を吹き返す事はならず、問題の先送りでしかないのだ。


結果的に日本では最低でも日本人が洋服を着るより以前の江戸時代まで生態系を元あった状態に復元し、二酸化炭素排出量を抑制しなければ解決にならないということだ。


もはや1990年を基準にしてる場合じゃない。せめて1790年?(もっと前?)基準にしなくては間に合わない。


本気で地球を守る気なら200年のズレがある。200年ズレたまま地球自然環境保全を謳うなら年が経つごとにこのズレはさらに大きくなっていくだけだろう。


この感覚で善処する限り200年以降の急なズレ幅をいかに緩やかにできるかどうかといったレベルとなるだろう。


しかもこの200年は物事を考える以前の根本のズレ幅なのでそれを基準に対策を立てる限り、そのズレは計り知れなくなる。


益々様々なエッセンスの詰まった江戸時代に学ぶべき点は多いのかもしれない。