何年もパーキンソンや幻視、せん妄などのレビーの症状に苦しんだ母は、

きっと向こうの世界では安らかに暮らしていることと思います。

 

母の夢を見たいと思っていたら一度だけ、

10日前くらいに、元気でハツラツとした母が夢に出てきました。

 

最後は、体が固まり、手も固まったところからほとんど動かなかったキツさは計り知れないでしょう。

でも、お顔の表情だけは普通に近いものでした。

 

元気な時は、掃除や庭いじりをして、

おいしいものを食べて、嬉しいときはニコニコしすぎるくらいで、

顔も表情豊かで。

今は本当に、そんな母ばかりが思い出されます。

 

夜中の病室で、誰にも看取られることなく、最期を迎えた母は、

医師の話では、「老衰」とのことでした。

体も動かなくなり、体の機能も、もう限界だったのでしょう。

 

 

レビー小体型認知症、早く、予防薬、治療薬を望みます。

 

 

このレビー小体型認知症は、母をずっと見てきて、

これまでの時間が過ぎ去って思うことは、

本人にも、近しい者にも、とても大変なものです。

いや大変というか…とても悲しいものです。

 

アルツハイマーなどの他の認知症や、他にも沢山の病気がありますが、

 

母を見たきた私個人としては、レビー小体型認知症というこの病気を、

どうにかして予防できるとか、治ることになるとか、

そういう未来がなるべく早く来て欲しいと思います。

 

 

 

 

23時50分、兄から電話が…

 

さて今日も一日無事に終わり、眠りにつこうとベッドに座ったその瞬間、

今どき、あまり鳴ることのない、固定電話の着信音が鳴った。

 

嫌な予感…は的中し、受話器をとると兄のせわしい声が聞こえてきた。

「病院から電話があって、お母さんが心肺停止って…」

車で病院に向う途中だった。

「え……心肺停止って…え…」

「とりあえず病院に行くから!また連絡する!」

 

 

私の声を聞いて、もう床についていた夫も起きてきた。

隣の部屋で漫画本を夢中で読んでいたはずの娘は、

大好きなおばあちゃんのその急な現実に、

ベッドの上で布団を両手で握り締め、泣きじゃくっていた。

 

私は呆然と…寝室から出て、どうしようもなく廊下をウロウロとしていた。

(間違いであってほしい…心肺停止と思っていたら間違いだった。

実は静かに寝ていただけだったと…祈っていた)

祈りと願いと、いやでも、有り得ることでもあるし…

自分がすぐに駆け付けられない所にいることに、苛立ちさえあった。

 

30分後、兄から再び電話があり

「やっぱり駄目だった…」という言葉が聞こえてきた。

悲しみと共に、「これからどうしなければ…」と頭の中で考えた。

「お母さん、実家に帰るんだよね。じゃあこれから実家に行くから」

と兄に言い、午前0時過ぎ、実家に帰る身支度をさっさと済ませ、車に飛び乗った。

 

 

約5年ぶりの帰宅…

 

 

 

このコロナ禍で、昨年11月以来、再び面会禁止になり、

スマホのリモート面会を1月20日にしたのが母との最期だった。

次のリモート面会予約の日は、約10日後。娘が春休みになって、

と思い、少し予約日を遅らせていたのだった。

 

2月中に一度、予約できていれば良かった…

という後悔と、

23時半過ぎの看護師さんの巡回のときには心肺停止状態だったことを知ると、

独りで、誰にも看取られることなく、苦しんだのか、そうじゃないのかもわからず、

母を逝かせたことをとても悔やんだ。

 

なんてことだろう…

私はなんて子供だろう、なんて娘だろう…

 

実家に向かう途中、高速道路を走りながら、そう思ったし、

母のことを恨んだり、疎ましく思ったことが嘘のように頭から消えていた。

こんな娘でごめんね。

母に対して、謝罪の言葉しか出てこなかった。

私がもっとデキた人間だったら、頭のいい人間だったら、

もっと母を苦しませずに出来たかもしれない。

 

そういう思いしかなかった。

 

午前3時過ぎ、母は長年住み慣れた我が家に帰ってきた。

いつも寝ていた部屋に、逆向きに寝かされた。

「や…っと帰ってきたね」

 

母は、穏やかで、綺麗な顔をしていた。とても。

どこかホッとしているようにも感じた。

 

レビーの幻視、せん妄が酷くなり、

実家でひとりでの生活が難しくなって以来、

住み慣れた家を離れていた。

 

それから兄の家で生活をし、

そこでも幻視、せん妄に悩まされ、家から庭に飛び出した時に骨折し、

整形外科に入院して7カ月。

そこでも幻視、せん妄でいられなくなり、

認知症専門病棟での入院約1年半。

 

誤嚥性肺炎で一時は命の危機もあり、

口から食べることができなくなり、寝たきりになって約3年。

 

母の入院生活は、とてつもなくキツいものだったろうと思う。

心身ともに。

悲しくて、寂しいものだったろうと。

 

本当に、どんな気持ちだっただろう…。

聞いてみたい気もするけど、…。

 

 

 

8カ月ぶりの面会。

 

2月中旬の面会以来、コロナ禍で面会禁止となっていた母の施設が、

9月から15分だけ面会ができるようになった。

 

月初めに面会の予約をし、提示された日にちから自分が行ける日を決め、

「15時~15分のみ」と決められている。

10分前には病院の1階に来ているように、との指示だった。

 

10分前に行くと、まずマスク必須で、検温とアルコール消毒。

ロビーのほうに進むと、椅子が10脚ほど並べてあり、

そこに8人ほどが座っていた。

 

まず渡されたA4一枚の用紙に、名前、連絡先、母との続柄、その日の私の体調を記入。

それが済むと、看護師さんにフェースシールド、マスク、割烹着を着せられる。

 

準備が整った人は、順次一人ずつ看護師さんに、夫々の入院棟に案内される。

私は、母の棟の、エレベーターを降りたすぐの部屋に案内され、

その部屋には、母一人がベットに居て、透明のビニールシート越しに面会。

 

棟に案内されるまでに、看護師さんに「母はコロナの状況が理解できているか?」

「最近の調子はどうか?」などを道々質問したが、

コロナのことはやはりわかっていない様子だった。

(ネガティブな話は耳に入れないとは思っていたが、

何か月も誰も会いに来てないことを不信に思っていなかったかと思い)

 

8カ月ぶりに見た母は、あまり変わっていなかった。

むしろ顔色はピンク色で体調は悪くはなさそうだった。

「お母さん、私よ、わかる?なかなか来れなくてゴメンネ」

と言うと、母の目からは涙が滲み出ていた。

 

母とはビニールシート越しに1mほど離れているので、

私が発した言葉に、母もなにか返しているようだったが、

なんと言っているのかがわからなくて…。

病室の入り口で、看護師さんが時計を見ながら立っている。

 

母とはあまり会話が成り立たない状況で、

すぐ15分が経った。

「また来るね」と手を振ると、母も動かない手をなんとか動かそうとしながら、

病室を出る私を目で見送ってくれた。

 

面会は、1人、ひと月に一度と決められているので、

また来月。

でも、8カ月も会えなかったことを思うと、ホッとする。

 

 

テレビで蛭子さんもレビーの兆候があると知って…。

 

コロナ時代となり、2月中旬から母と会えずで。

規模的に小さくない療養型施設なので、

リモート面会などはできることなく、

「いつ会えるのだろう」と想いだけが募ります。

 

母の状況を兄に聞くと

「変わらずみたい」とのこと。

 

一度、5月の母の誕生日、

造花のアレンジフラワーと、成長した娘の写真を病院まで届けてみましたが。

病院の出入り口で、係の方に預けて帰るしかありませんでした。

 

私や可愛がってくれた娘のことは、覚えているのか?

母の心の中、今、どんなふうなのか、とても気になっています。

 

そんな時、

テレビの健康番組で、偶然、

蛭子さんが専門の医師に、認知機能を診察しているところを目にしました。

 

洗濯籠の中の服が、奥さんが中で倒れているように見えたり…

との幻視も見えているとのこと。

物忘れも酷いとか…

でも、私がテレビで見た蛭子さんは、母が幻視が見えている頃からすると、

元気なように写りました。背筋もしゃんとされていたし。

専門の先生に診ていただいて、進行を遅らせたり、

治療や薬も、何年か前よりは進歩しているかもしれません。

あまり進行せず、これからも穏やかに過ごせるといいな…と願いと共に思いました。

 

蛭子さんには、若い頃、仕事で一度ご一緒したことがあります。

テレビで見る蛭子さんそのままの、

裏表のない、自分に正直な方で。

その時から、密かに?ファンとなってしまいました(笑)

 

蛭子さんがテレビに出ていると、思わず手を止めて

見入っては、楽しい気分にさせていただきました。

 

 

レビーを発症してこれまで、これで良かったのか?

 

兄じゃなく、私家族がずっと一緒にいたら、進行しなかったんじゃないか?

認知症専門病院に入れて良かったのか?

「ここから出して」と電話してきたとき、出してやったら?

もっと優しくしてやれば進行しなかったんじゃ?

私が結婚してなければ、こうなってはなかったかも。

 

と、今でも時々、考えてしまいます。

もうずいぶんと遅いけど。

 

認知症専門病院に入院するときの、

ガラス扉に両手を開き、へばりつく母と、悲しみに満ちた大きな目…。

実の子供たちから大きく裏切られた…そんな。

 

「ここから出して」「早く迎えに来て」と、

病棟から、残わずかなテレフォンカードでかけてきたときの声…。

必死に、助けを求めていました。

 

そんな母の姿や声は、一生忘れることができません。

忘れたくても。

 

あの時の自分は、母をそうするしかなかった。

選択せざるを得なかった。

 

言い訳になるけど、

入院することで、母に合う薬がみつかり、

進行を遅くするどころか、逆に良くなって回復して退院し、

私達と一緒に生活し、おいしいものを食べて、笑って、

暮らせるものと思って、そういう希望をもってのことでした。

 

が、もう、二度と、家で暮らすことができません。

 

そしてまた思うんです。

レビーが進行し、兄家族も私も、疲れ果てるそれ以前に、

進行をなるべく最小限にするために、

いい医師と薬、そして私たちの対応を最善、最良、最強のものにできていたら…

 

ぐるぐると、考えてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、

 

もし、私が結婚してなかったら、

父はまだ生きてるかも。

だったら、母とまだ実家で暮らしてるかも。

 

もし、兄が結婚した人があの人じゃなかったら、

父も母も、もっと幸せだったかも。

そして、今も元気で生きているかも。

 

なんて、考えてもどうしようもないことを考えてしまう。

 

父はC型肝炎が治る薬が出る前年に、それが原因の肝臓癌が原因で他界したし、

母は父がいなくなったことがあまりにもショックだったのも原因で、

レビーが急速に悪化し、今の状況になった。

 

父の肝臓癌は、早めに手術をしていれば助かっただろうに、

なぜか手術を拒んだため、帰らぬ人となった。

癌が大きくなっていることも私達は知らなかったし、

おそらく、母が手術…入院する日時を遅らせたのではないかと思う。

父の状態がどうしようもなくなった時、

主治医から、「どうして手術をこうなるまで拒んだのか」と、私の目の前で言われたときには、

横にいた母は何も言わず、はぐらかす感じだった。

 

現に、私の胆石の手術をなるべく早くしなきゃいけないという時、

「冬は私が風邪ひいたりするから、春にして」と言われ、

2才の娘を預かってもらわなければならなかった私は、

痛いのを我慢して、春まで自分の手術を伸ばしたことがある。

 

とか、

20年前に、母が某大学病院で、動脈瘤の手術をしていなかったら、

レビーになっていなかったかもしれない。とかとかとか。

 

まだ、まだまだ、私も実家で盆正月を忙しく手伝っていただろうし、

私の娘のことも、可愛がってもらっていただろうし、

兄や兄家族とも、交流あっただろうし。

 

父や母がいた実家。

贅沢はできないけど、そこで幸せに暮らしていた頃。

ポカポカと陽があたる庭。

庭仕事をする父や母。

木漏れ日が差す窓辺。

ふわりとあたたかい日常。

 

帰る実家がなくなると、あの頃が懐かしく、愛おしい。

これが「ノスタルジー」というものなんだろう。

私のお年頃には、アルアルなのかな。

 

年末は実家に行き、御節料理を作る手伝いをしていた。

スーパーにその材料が並ぶのを目にして、

「ああ、もう実家で作ることはできないんだ…」

と寂しさを覚える。正月明けに家に戻ってくるときには、

年末年始、台所に立ちっぱなしで、

ボロ雑巾のように疲れ果てはするのだけど。

 

 

この前、母のところに行ったとき、私が

最近も父が幻視で来ているかと思い、

「お父さんはきてる?」と聞いたら、

「お父さんは亡くなったでしょ」と久しぶりに、現実世界にいる目をしていた。

 

日によって違うけど、父が亡くなったことをわかっている母は、

最近、めずらしかった。

栄養状態も悪くはないようで、ゲッソリ痩せ細っていた頃よりは、

血色も良いし、お肌も綺麗だ。

 

もうすぐ年末年始。

実家に行けなくて、寂しがる娘と、私。

今年は家で、がめ煮と御節をちょっと、作ります。

 

 

足を運ぶたび、ホッとする私。

 

暑すぎる夏も過ぎ、台風や大雨で日本全国に甚大な被害が相次いだ秋。

そして、今年は早めのインフルエンザ流行…と、そろそろ冬に入ろうとしている。

 

私が子供の頃から、勝敗で母のご機嫌も左右するほどだった読売巨人軍。

今年はソフトバンクホークスに日本シリーズでは負けてしまったが。

 

母のところに行き、

セ・リーグ優勝を果たした新聞記事を持っていき原監督が胴上げされる写真を見せると、

とても喜んでくれた。

 

天皇皇后両陛下の即位祝賀パレードの新聞記事を見せると、

「あら~雅子様、綺麗ね」と、これもとても喜んでくれた。

ちゃんと令和の時代を生きている。

 

私にとって、母に対しては子供の頃から色々と思うところもあるし、

レビーが発覚するまで、そしてその後、兄の家で生活したり、

私の家に来たりした時は、周りは困惑し、振り回され、疲弊したときもあったが、

やはり母は母。

 

気候やお天気の話をしたり、好きなことや果物の話をしたり、

私の娘の話をしたり、こんな時間がいつまでも続くといいのに…と願う。

 

今は、ベッドの上で仰向けの体勢で、枕をひとつ抱えている。

足はほとんど自力では動かせず、手は、ゆっくりゆっくり、顔のほうに持っていくことはできる。

顔はとても表情豊かで、嬉しいときの笑顔は、素直な感情が伝わってきて、こちらも嬉しくなる。

もっと嬉しくなるようなことを言ってやりたいが、なかなか思いつかないときや、

母の頭の中の世界と、私が言っていることにギャップがあると、

イライラさせてしまうこともある。

 

昨日も、

「そこにある柿を後で剥いて食べよう」とか、

「お夕飯は、冷蔵庫にお豆腐があるから、それをどうにかしようかね」とか、

「そろそろお洗濯を取り込まなきゃ、冷たくなるよ」とか、

「お父さん、お父さん、今日は耳鼻科に行く日よね」と、

目の前に父が見えているようで、何かを話しかけたりしている。

 

母の中では、住み慣れた自分の家で普通に暮らしているのかもしれない。

もしそうだと、ありがたい。

 

できることなら、何十年も住み慣れた家に、一度でも帰らせてあげたい。

できることなら、最後に美味しい料理を食べさせてあげたい。

 

「あなたの家に、行ってもい~ぃ?」と言われ、

「うん、いいよ」と言うと、ホッとした表情を浮かべていた。

 

 

 

 

 

母のベット脇に座っていると、ドクターが来られて、

「最近、肺炎になる間隔が狭くなってきたね。

                 そうなってくると、ね…もう…」

 

と、なんとなく今の母の状態を匂わせてきた。

 

昨年春、誤嚥性肺炎がひどく、吐血し、救急センターに運ばれたときには、

もう…と思ったが、一年以上経った今、寝たきりではあるが、母はちゃんと生きている。

 

救急センターでは、肺にガンのような影がある、とまで言われ、

ガンであれば、あと何か月…とまで言われていたが、2019年の夏が来ようとしている今、

母はちゃんと生きている。

 

誕生日も母の日も迎え、

大好きな読売巨人軍の話をすると楽しそうに相槌をうつし、

 

母の知りあいの方の息子さんが、すごい漫画家になって、

それが映画にもなってるよ、と話すと、

「まあ立派になられて…」と返す。

 

以前、叔母とコスモスを見に行った写真を見せて、この時、覚えてる?と聞くと、

「覚えてるよ。あの時は綺麗だったね」と話す。

 

寝たきりで、足も手も固まってきているが、一時間以上会話をするし、

看護師さんがお世話をしてくれた後は、ちゃんと「ありがとうございます」とお礼を言う。

 

 

肺炎もおさまり、熱もなくなると、顔色も良く、

一年前よりも頬もふっくらしているように感じる。

 

せん妄や幻視は今もあるが、

以前、母の世界を搔き乱すほどにひどかった頃に比べると、

今は、母の世界は平和だ。

 

このまま、穏やかに過ごしてくれることを願うばかり。

 

 

 

 

 

ときどき、発熱。ときどき、ほっこり。

 

 

母は時々、尿道に炎症を起こしたり、軽い肺炎のようなもので熱を出す。

高いときは39度近く発熱するので、そのときは病院から兄に連絡がある。

次の日に病院に様子を見に行ってみると、酸素マスクと点滴、アイスノンをしている。

 

同じ病棟で、

何もなく穏やかでいるときは、ナースステーションから少し離れた部屋。

発熱すると、少し近めの部屋。

病状がちょっと重いと、真ん前の部屋にうつる。

ので、病室によって、母の状態がわかる。

 

熱を出していないときが続くと、顔色もピンク色で頬も少し肉がついてきて、

いい顔をしている。

発熱が続くと、点滴だけになるので、少し体重も落ち、頬がこける。

 

去年までは、手には必ずミトンがはめられていたが、

今は手がだいぶ固まってきていて、手を温タオルで拭こうとすると、

指と指の間を少し力を入れて開けなければいけなくなってきた。

 

少しずつ、母の身体が固まってきているのを実感すると、

またどうしようもない感情が胸にくる。

 

自分の性格を否定されたり、嫌みや文句を言われ、悪態をつかれたりすると

子どもの頃からの母への思いが走馬灯のように頭をよぎり、

思いっきり私からも文句をぶつけたい衝動にもかられるが、

母のそんな状態を目の当たりにすると、

たったひとりの自分を産んだ母親への感情が湧き出てきて、

目が熱く、涙がとっぷりたんまり、溜まる。

胸が重くて痛くてしょうがない。

 

どうしようもなくて、いつも帰りの車の中で、自分の中でなんとか消化する。

 

人によって、親への思いは色々あるだろうが、

私も、色々複雑なものがある。

けっして許したくない部分もあるが、

けっして放ってはおけない。

嫌いになりたいときもあるが、

心底嫌いにはなれない。

 

 

令和元年、母の日。

 

「4月で平成は終わって、5月からは令和になるんだよ」

と母に“令和オジサン”なる菅官房長官が文字をかかげた写真が載る新聞を見せた。

すると「知ってる。聞いたよ」

と知ってて当たり前みたいなドヤ顔。

かと思うと、

「あの人が入ってくるから、そこの窓を閉めて!」と

これまでも母を悩ませている人たちが悪さをしに来る(幻視、せん妄)。

 

母の日、私が造花で作った小さなアレンジメントをベット脇の棚に置いてみせると、

ちゃんと「ありがとう」と言ってくれる。

ベット脇には、私の娘も含めた孫たちの写真を置いている。

よく見てくれているようなので、時々違うものに差し替える。

 

 

春休みに、私の娘を連れていったときには、

小さいときに比べて思春期女子は雰囲気が変わっているので、

ちゃんとわかってくれるかちょっとだけ不安があったが、

娘を見るなり、「あら可愛い!」と言って、

母は顔全体をしわくちゃにして喜んでくれた。

 

スマホで娘からのメッセージを動画で見せるときも、

顔全体をしわくちゃにして喜んでくれる。

そんなとき、「来てよかった…」と感じる。

自分が母にとって少しは役に立ってるのかな…というか。

その時、罪の意識が私の中にあるのがわかる。

 

 

「あなたの家に行きたい」と、時々言うので、

どうにかできないかと思う。

でも、どうしたらいいのか…と考えてばかりいる。

 

一度実家に帰らせてあげたいとも思う。

 

 

認知症がハッキリして以来、有無を言わさず、実家を出てこさせられた母にとって、

何十年も住んできた自宅に戻れないことは、

人生の中で、大変な心残りなのだろうから…。

 

 

 

 

 

 

 

400床以上もある長期療養型専門病院。

 

療養型専門なので、診察に来る患者などはいない。

だから玄関もひっそりとしている。

玄関を入り、廊下を進んでいくと、エレベーターで3階に上がる。

上がったところからまた廊下を進むと、またエレベーターで3階に上がる。

そうして行きついたところが、母の病床。

 

私が初めてそこに着いた日、

昼食の時間だったようで、看護師やスタッフの方が、

楕円形のガラス材の入れ物にチーズ色をした

栄養剤が入ったものを部屋数分、運んでいた。

 

部屋に入ると、

「お食事ですよ~」と言って、それぞれの経鼻チューブに繋ぎ、点滴のような要領で

栄養剤を流す。終わったら白湯。それで「食事」は終わる。

 

その作業を定期的に、機械的にする様子を見ると、

職員の方からすると、命を守る医療行為なのだろうが、

私から見ると、たまらない。人がする食事とは、到底思えない。

 

病院にもよるだろうが、夏は

「環境保護の観点により、冷房を最低限の温度設定にさせていただいております」

のような貼り紙が、院内の所々にあり、今年の酷暑でも、本当に最低限の温度設定だったようで…

暑がり、汗かきの母は、気が付くと、玉のような汗をかいていた。

 

そんな環境なので、スタッフの方は、Tシャツにエプロン、

もしくはズボンの作業服のような恰好。

どの方が看護師なのか違うスタッフなのか、さっぱりわからなかった。

 

母の病室は4人部屋の窓側だった。が、院内の建物やパイプなどしか見えない場所で、

上のほうに見える空だけが、外の世界を知る唯一の眺めだった。

 

病室に私が入るなり、母は

「ここは悪い。前のとこに戻ろう。ここは悪い。」と何度も何度も言った。

 

母は、目は爛々とし、自分の状況がわかる。

体の筋肉はだいぶ硬直し、相変わらず幻視、せん妄はあるが、

けっこう意識はしっかりしている。

自分の今がわかるだけに、はがゆいし、嫌な気持ちが沸き、

心の中は、居ても立っても居られない。

 

「悲しい。なんだかよくわからないけど、ここがとても締め付けられて、とても悲しい」

と胸に手をやり、涙を流しながら、私に訴える。

 

「帰りたい。ここから出たい。今日、連れていって!」

その場ではどうしようもなく、なだめ、落ち着かせた。

が、たまらなかった。

 

実は、どうにかできないものか、私の住む地域から兄の住む地域にかけて、

特老やホームに片っ端から電話したり、

話を聞きに行ったりして探したのだが、

他に一つも受け入れてくれるところをみつけることができなかった。

 

以前の病院では、ベッドから車椅子に移り、リハビリもしたりなど、

なんとか希望や楽しみをみつけられたが。

そこには、3カ月しかいられず、病状が落ち着いた時点で

ソーシャルワーカーの紹介で、ここに転移したのだ。

 

殺風景な病室と窓の眺め。

それだけが、母の今の世界。

 

 

 

 

 

誤嚥性肺炎から吐血以来、半年…

 

半年以上、ここで書く気になれなかった。

「この先、母はどうなるのか…」

「もうだめなのか…」

と思いながら、様々なこともありながら、書けなかった。

 

実はあれから3度、母は病院を移った。

 

今は、療養型の病院で、鼻に管を入れて栄養を入れ、寝たきりの状態。

そう、鼻腔経管(経管栄養)。

まともに食事を摂ったのは、もう吐血以前のこと。

ベッドに寝たきりの状態で、鼻に入れた管を引き抜かないようにと、

両手にそれ用のミトンをはめられている。

 

朝、昼、夕と、経管栄養と白湯を摂るだけ。

ベッドの上で、一日中ずっと、一週間、何か月と、

その状態でいるだけ。

 

この状態を考えると、どうしようもなく、書けなかった。

 

 

療養型病院…ここには、寝たきりの人ばかり。

 

元気だった頃の母が、今の状態を見て喜ぶかと言ったら、

絶望するんじゃないかと思う。

現に、私はそう。

 

母には失礼な話だが、私はああなりたくない。

あんな病院に入りたくない。私だったら、栄養なんて鼻から入れず、

自然のまま…そこで命が尽きるのなら、それが本望だ。

いや、誰もがそう思うのかもしれない。

 

管を抜けば、あとは点滴しかないが、それだけだとやはり痩せ細ってしまう。

鼻腔経管(経管栄養)になったのは、今の病院の前にいたところで、

「点滴より経管にしたほうが体の体力がつくだろうから、

嚥下機能のリハビリをしながら、体力がつき少しでも飲み込めるようになれば、

口から摂れるようになる!」

そういう希望を持って、経管にすることに同意したのだ。

 

母に、もう一度でも、何か美味しいものを食べさせてやりたかった。

 

前の病院では、転移ギリギリまで、リハビリができていた。

専門のリハビリの方が、ゼリー状のものを口に入れ、飲み込み具合を診てくれていた。

たまには、スルメを噛んだり、飴を舐めさせてももらえた。

リハビリ時には、テレビを見たり、談笑したりと楽しそうな表情も見せていたので、

少し安心していた。

 

「転移しても、リハビリ頑張ってくださいね」と言われながら…

 

今の病院に来てみたが、リハビリができるどころか、

誤嚥性肺炎や尿道に炎症を起こし、たびたび熱を出しているからか、

リハビリどころか、2度も急変し、ハラハラするばかり。

 

こんな状態を続けていいのだろうか…。

食べたいものも飲みたいものも口に入れられず、

自分で動かすことができるのは、腕を上下に少しだけ。

すでに足は微動だにも自分で動かせられない。

 

週に1、2度、母のところに通っているが、

私が傍にいるときだけミトンを脱がせて、手をふき、

やわらかくアロマオイルで撫でるだけ。

その時は、「あ~気持ちいい~」とは言ってくれるが…。

 

すでに体のあらゆる筋肉がほとんど無いので、

以前に、足を撫でるようにマッサージしたときは、

しばらくして顔をものすごく顰め「痛い!痛い!」とマッサージした部分を痛がったので、

あまり滅多なことはしてはいけないようだ。

 

母にとって、今、楽しみとは、何なのだろう?

 

生きていると言えるのか…?

これは、ただ単に、無理やり鼻から栄養を入れ、

延命させているだけじゃないのだろうか?