1か月間で5つの国の首都を訪れるという無駄にグローバル意識高い系人間(笑)と化しているが、やっぱり旅というものがなんなのかよくわからず、旅に出て考え事をして情緒不安定に陥るという変なことになったりする。
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http://ameblo.jp/smilebb5/entry-11783008379.html
以前こんなことを書いたころから、旅に出るときのメンタリティと方法はほぼ変わってないが、これが先進国ならいざしらず、途上国だったり、そもそもdeveloped or developingという規準にあてはまらない国を訪れる際には、目の前に拡がっている空間と、自分――あくまで自分というものが存在し、この二分法が妥当するとして、だが――との距離感覚が遠すぎて、その拡がっている空間そのものの理解が著しく困難になる。仮構(fiction)として世界を認識する際の、仮構そのものが自分の内側から構成されず、只々、生々しく、しかし決して認識できない何かが目の前に蠢いている、そんな理解不能さに圧倒され、呆然とし、苛立つことになる。
もちろん、仮構を構成する装置が、普段の自分であるならば、何らの問題もそこには生じない。多くの先進国を訪れる場合には、世の中のシステムの類似性(ex.金を払って物を買う)に安穏として、真に眼前に拡がる風景を理解することを放棄することで、問題を生じさせないという態度をとる。勿論先進国同士の違いというのは決して看過してはならないのだが、その違いそのものがある程度事前の知識として共有されていたりする(ex. あの国の人はこういう文化を持っている)。ある程度誰かの理解に、またある程度は世界最強の先進国のひとつ(これがポジティヴな意味か否かは読者の判断に委ねる)で生まれ育った自分の経験と理解に依拠しながら、歩いていくことが出来る。
この予め持っている思考を、見慣れぬ風景の国に、適用することも十分にできる。その場合、「上から目線」であれ、少なくともいろんなことを言うことはできる。「この国の人はお金にがめつすぎる」「なんという文化的な貧しさだろうか」「こんなまずい料理は有り得ない」云々。自分の経験にてらして、文句を言うのは端的にかような態度の表れである。
問題は、旅に出るときの態度として、これが適切か否か、である。勿論、こういう態度になることは、窮極には致し方ない。僕はその場所に住んでいないし、いわゆる文化と呼ばれるものをほぼ何一つとして共有していない。その場合、頼りになるのは、基本的に自分のバックグラウンドだけであるのだから、この態度こそ、最も誠実と言うべきか。
だがしかし、僕が遭遇する事態は現地のコンテクストに置くといったいどういう意味があるのかを、なるべく現地目線で、「理解」したいという欲求に僕は常にかられる。しかしながら、理解とは何なのか?どうやったらそんなことが可能なのか?距離が遠いほどそれは困難に、そして不安定になる。ひとつには、事前の知識が圧倒的に乏しい。もうひとつは、経験との乖離がはなはだしい。なるべく対等な、水平の目線で風景を理解しようとすることは、この二重の、言うなれば苦痛と対峙することなのだ、と思う。果たして、そんな不可能な実践に意味があるのだろうか。
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話題を変える。
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何か月か前に、今住んでいる国で起きているわけのわからない出来事について語るという機会に接した。僕は僕の見たものについてしか語れないから、その限りにおいて意味が分からないとしか言えない、と思いながら、とりあえず見たものについて語ってみた。そしてその逡巡をそこに同席していたある友人にこないだ吐露したところ、フランスに住んでいたとき日本について沢山聞かれたことで、留保を大量に付ける癖がついたというその友人は、「あくまで自分の主観である、と留保を付けることは致しかたない」「ある国について語る際には、その人のバイアスがかかっていることは、受け手も最初から理解していることで、だから自分のバイアスについてもそれがバイアスがかかっていると理解してくれる、と期待するしかない」と返事をしてくれた。だいぶ救われた気になった。
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ある遠い国で自分の見たことについて、自分が形成してきた意味世界を超えているなかでそれを理解しようと努める際のもう一つの困難は、自分の目の前に広がっている風景は、どの程度(その風景にとって)典型的なものであるのか、一瞬しか存在しなかった自分にはわからない、ということである。風景は、天気一つでその印象を大きく変える。曇りの日に訪れた街は、つい活気がない街であるような誤った印象を受けてしまう。しかし、その街で曇りの日は365日でほんの数日かもしれない。僕は天気のデータにアクセスを試みる。天気だけならそこまで困難ではない。だが、一瞬一瞬で触れた風景が、どれほど特殊なのか、そうでないのか、そのひとつひとつについて、いったいどうやって判断すればいいというのか?
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語る際の単位(unit)がわからない。
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旅の最中に、抽象的になるな、生活しろ、と友人に言われた。その通りかもしれないし、そうでないかもしれない。その場合の「生活」とはなんなのか。生活そのものが抽象化との反復においてしか理解できない気がする。その場合、生活することが、いったいいかようにして可能なのか。よくわからない。より正確に言えば、ほとんど全くわからない。
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敢えてoversimplifyして約言すれば、僕は自分が存在してはいけない世界にいるような、そんな不安をいつもどこででも覚えるのだ。95%くらいの僕はいつもそれを(ある時は意図的に、またある時は心底忘れることで)無視して、自我をただ大きくして偉そうに生きているが、たまに残りの5%が首をもたげることがある。そんな首を出しながら、1か月間を、送っている。数日後には、また別の国の首都を訪れなくてはならない。距離を測るために。