10年代の終わりに。

 

 

思えば10年代の始まりとともに始まったこのブログも、(一応は)10年間存在していた。

その間やったことはと言えば、本を読み、酒を飲み、恋に落ち、旅に出て、そしてどれもうまくいかずに、ただ野球を観ていた。

 

同年代の友人たちと話していると、だいたい仕事であれ家庭であれ自分の能力であれ、「人生こんなはずじゃなかった」という話で要約されることを数時間聞いていることが多い。僕はと言えば、こんなはずじゃなかったというところもなくはないわけだが、概ね人生順調に行っている気がしなくもない。だから絶望的なまでに、同年代の友人たちの、(あるいはこう言ってよければ)凡庸な愚痴とは、話が合わない。

 

僕にとって絶望をもたらすのは、ただ、あるとは何か、という問いをめぐることだけである。絶対的な無が、僕自身を吸い込んでしまうのではないか、という不安だけである。その不安が、いつしか自分のささやかな希望を断ち切ってしまうのではないか、ということだけである。

 

ただただ、空虚だ。

 

 

最後に、次の10年間への希望を込めて、この10年間に訪れた風景のベスト10枚。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・20代があと少しで終わる。あまり感慨はない。目標は「よく食べてよく寝る」(真面目に)だったので、それは達成できそうで嬉しい。体重が少し増えすぎだが。

 

・久々に羽目を外したくなって、初対面のアーティストの卵たちとなぜか朝まで飲んでしまったのだが、6つも年下の子に「あなたは笑顔で誤魔化して人と距離を作って、そして疲れている」と言われて中指を突き上げられたので、若いっていいなあと思いながらにこにこしてた。たぶん、6年前だったら僕も同じようなことを6つ上の人間に言っていたのかもしれないけど(たぶん中指は突き上げないけど)、この6年間はいろいろなことがありすぎたし、十分に疲弊したし、30才の人間がそれをやるには、いささか筋肉が凝り固まりすぎているのだ。20代とお別れをするにはよい一晩だった。

 

・次の10年の目標は、「よく寝る」くらい。あと、もう10か国くらい行ったことのない国を訪れたい。南半球に行ったことがないのは、致命的な欠落のような気がしている。

今浪の入場曲で神宮球場にかかるのがすごく好きだった。

吉見が先発した試合で今浪から先制スリーランを浴びた試合があったっけな。

もう聞けないのが残念だし、初夏の夜空に響く感じとか最高だったので、

誰かヤクルトの選手は引き継いでくれないかしら。

 

 

5月にとある国のとある湖畔で買った民芸品の靴、小洒落てて多分日本で

僕しか履いてないだろうから気に入ってたのだが、

さすがに色あせてきたので、新しいものを購入した。

今年は、信じられないくらいよく歩いたのだな、と。

 

 

結局のところ、東京というトポスのなかで自己が揺らぐ。

中心にして周縁だけど、周縁にして中心の、

人間的にして非人間的だけど、非人間的にして人間的な、

なぜそのアイデンティティに苦しめられるのか、わからないけど、トーキョーという甘美な響き。

 

 

今年も終わりだが、年末にナボコフ、大江、村上、メルヴィルと

3日間で4つの読書会に参加しなくてはならず、久々に文学青年に戻る。

とにかく信じられないくらい大変な年だった。

とにかくよく歩き、よく移動した年だった。

 

辺境というのは、その地の人にとっては辺境ではないので、失礼だなと思う時がある。例えば、さすがに中国を辺境呼ばわりされると、それは違うのでは、少なくとも僕にとっては辺境じゃないよといいたくなる。だがしかしそれは、僕の辺境性を強化させかねない(「辺境を辺境とも考えられない、辺境の中の辺境の人物」)ので、どうしたものかなあと考えたり。

 

 

どうしても、東京人の上から目線というのは外れないようで、どう足掻いても無理ならばいっそ開き直ろうかとか考えたり。

 

 

結局のところ、水が低きに流れるが如く、人は支配したい他人を捕まえては、愛だの思いやりだのなんだのと身勝手な名前をつけるだけなのでは、と考えたり。

 

 

稚内〜富良野〜夕張〜大阪〜三次〜奥出雲〜鳥取と辿ってから、実に十数年振りに常念〜大天井〜燕と歩いた。同行者との相性がよかったのと、信じられないくらい好天に恵まれた(2日連続でご来光を眺めたのは人生初)ので、またしばらくはいいかなと思ったけど、来年は北穂〜奥穂をやろうという話にもなっている。

とある尊敬する方に、「いい1年だったんじゃないかい?」という感想をもらった。やるべき自分の仕事をきちんと1つ終えて、かつ私たちに色んなコントリビューションをくれた、沢山の異なるパースペクティヴを与えてくれた、と。お世辞でも(たぶんお世辞なのだろうけど)、それでも少し報われた気になった。

 

 

その会話の数時間前に、延々と1時間、別の尊敬する方とお喋りをした。途中から考えてることを延々とぶつけているうちに話が長くなり、ほとんど人生相談みたいになった。こいつは精神的にきてると思われたのか、めちゃくちゃに持ち上げられて、めちゃくちゃに褒められた。二つの道があって、そのうち、より野心的なほうを薦められた。野心的であれ、と言われた。1年前も似たことを言われたけど、彼はいつもそうなのだ。

 

 

二つの道に大きく迷う。しかし、たぶん人生でいちばん精神状態はいい。躁なんじゃないかということだけが心配だ。

 

 

この場所で色んなことを学んだけど、お二人(正確にはもう一人いるので、お三方)の姿を見て思ったのは、peripheryに対するcuriosityなのかな、ということだった。常に、自分を脱中心化しながら、やむにやまれぬ内なる衝動(「知性への偏執」と換言してもよいかもしれない)を抑えることもなく、ただただ外へ外へと進んでいくエネルギーに変えていくこと。長年の戦いに疲れた様子も見せずに、何十年と仕事を継続させられるのは、内側にそのような好奇心が満ち溢れているからなのだろうな、と(もちろん、それを支える「運のよさ」もあるのだろうけど)。ある人は、新しいことを知るとよく興奮して、hugely exciting!!と子どものようにはしゃいでいた。ああ、いいなあ、とそのはしゃぐ様子をみながら、つい微笑を禁じ得なかった。

 

 

あと1週間でこの場所を去るけど、場所を移動し続けることが、大事なのかなと思った。1か月とどまって、次の1か月は別の場所に移動して、というような生活を向こう1年続けようかなと考えている。

 

 

Two drifters, off to see the world

There's such a lot of world to see...

 

 

固有名でもって生き延びるには、固有性が属していないといけないという当たり前のことを確認する。世界中の誰を相手にしても、自分とはこういう人間である、と述べられることなど実は何もないのか、という、ごく当たり前の重圧と閉塞と、ささやかな折れない自信のなかで、右腕一本でどうにか突破口を見つけなくてはならない。膨れ上がって破裂しそうな自意識過剰のなかでなお道を求める。必要に迫られてイタリア語の勉強を始める(本当は数年ぶりにドイツ語を読まなくてはいけないのだけど、これは日本に帰ってからやる)。頭は疲弊でぼんやりしているし、顔の表情は強張り続けている。まだ折れずに戦えている幸運を、誰にともなく感謝する。

 

 

中学生のころ、好きだったこと、叶えたい夢が3つあった。実はその3つともいっぺんに叶っているのが今ではないか、と、僕のことを誰も知らない、汚くて臭くて燦爛とした雑踏の混沌(僕はこの街が嫌いなのだ)を足早に歩きながら、ふと気づいた。不思議だと思うし、幸運だと思う。これこそ求めていた自由だ、と思う。

 

 

ふと高校を卒業したころのことを思い出した。大学の合格発表の前日、某中央図書館の隣の公園で寝そべってサガンをぼんやりと読んでいたことを不思議に記憶している。あれから、10年たった。10年後は、果たしてこの世にいるだろうか、この夜空を覚えているだろうか、と、北斗七星を見上げながら思う。(星座表を確認するまであれが北斗七星と判らず、クエスチョンマークに見えていた。なるほど宇宙とは謎なのだ、と思っていた。)

 

 

固有名を持って戦うとは何なのか、飛行機に乗って、彼らに教えを乞いに行かなくてはならない。

 

・来る者は拒まず、去る者は追わずという感じで生きること。自分本位。自己充足ができない人間が多いと、他人に依存したり、他人を攻撃したり、人間関係が混沌とする。正直鬱陶しい。自分の持っている能力を自分くらいは認めないと、誰も認めやしない。誰がそんな人を認めるほど暇だろうか?

 

・他方で、自分の期待値を下げることも必要なこと。

 

・「よき細工は、少し鈍き刀をつかうといふ。」(徒然草 229段) なぜだろうか。解釈の分かれるこの一文、鋭すぎる刀は、細工師自身をも斬ってしまうからだ、と思っている。

 

・いちばん大事なのは自分でコントロールできることのみに携わるというメンタルの姿勢。それ以外は考えない。いまの自分の最善を尽くすこと。

 

・「お前を対等なものとして扱うからな」「いやいや、少しは考慮してくださいよ」vs「あなたはハンデがあるから、それは考慮しなくてはいけないですね」「そんな情けはいらない。馬鹿にするな」。実質的な不公平を包んだ形式的公平と、形式的な不公平を包んだ実質的な公平。Is this understanding fair?

 

・順応的選好というマジックワード。或いは、意志を前提とすることの是非。

 

・プロであることに拘る。お金を貰うこと。その代わりに、自分の人生を賭けること。背水の陣。不安だから練習する。

 

・東京生まれ、ということ。それが既に何らかの特権であること。原発と貧困。

 

・アイデンティティ。或いは故郷喪失について。日本人という不毛なレッテル。日本語は東京弁ではないこと。何か線を引いて反転させることはしない。ポスコロの陥穽。昔、東京から旅立つ無垢な青年と、東京に帰る老人を交互に描く小説を書こうとしたことあった。うまく書けなかった。

 

・うまくいかないときは、うまくいかないなりに「器用」に振舞うこと。ふりをすること。ふりをしているうちに本物にすること。

 

・来る日も来る日も、肩肘張っての戦い。ドライになる必要。アジャストする必要。

 

5月下旬から、1か月ほど旅に出ようかと思う。

1か月間で5つの国の首都を訪れるという無駄にグローバル意識高い系人間(笑)と化しているが、やっぱり旅というものがなんなのかよくわからず、旅に出て考え事をして情緒不安定に陥るという変なことになったりする。

 

http://ameblo.jp/smilebb5/entry-11783008379.html

 

以前こんなことを書いたころから、旅に出るときのメンタリティと方法はほぼ変わってないが、これが先進国ならいざしらず、途上国だったり、そもそもdeveloped or developingという規準にあてはまらない国を訪れる際には、目の前に拡がっている空間と、自分――あくまで自分というものが存在し、この二分法が妥当するとして、だが――との距離感覚が遠すぎて、その拡がっている空間そのものの理解が著しく困難になる。仮構(fiction)として世界を認識する際の、仮構そのものが自分の内側から構成されず、只々、生々しく、しかし決して認識できない何かが目の前に蠢いている、そんな理解不能さに圧倒され、呆然とし、苛立つことになる。

 

もちろん、仮構を構成する装置が、普段の自分であるならば、何らの問題もそこには生じない。多くの先進国を訪れる場合には、世の中のシステムの類似性(ex.金を払って物を買う)に安穏として、真に眼前に拡がる風景を理解することを放棄することで、問題を生じさせないという態度をとる。勿論先進国同士の違いというのは決して看過してはならないのだが、その違いそのものがある程度事前の知識として共有されていたりする(ex. あの国の人はこういう文化を持っている)。ある程度誰かの理解に、またある程度は世界最強の先進国のひとつ(これがポジティヴな意味か否かは読者の判断に委ねる)で生まれ育った自分の経験と理解に依拠しながら、歩いていくことが出来る。

 

この予め持っている思考を、見慣れぬ風景の国に、適用することも十分にできる。その場合、「上から目線」であれ、少なくともいろんなことを言うことはできる。「この国の人はお金にがめつすぎる」「なんという文化的な貧しさだろうか」「こんなまずい料理は有り得ない」云々。自分の経験にてらして、文句を言うのは端的にかような態度の表れである。

 

問題は、旅に出るときの態度として、これが適切か否か、である。勿論、こういう態度になることは、窮極には致し方ない。僕はその場所に住んでいないし、いわゆる文化と呼ばれるものをほぼ何一つとして共有していない。その場合、頼りになるのは、基本的に自分のバックグラウンドだけであるのだから、この態度こそ、最も誠実と言うべきか。

 

だがしかし、僕が遭遇する事態は現地のコンテクストに置くといったいどういう意味があるのかを、なるべく現地目線で、「理解」したいという欲求に僕は常にかられる。しかしながら、理解とは何なのか?どうやったらそんなことが可能なのか?距離が遠いほどそれは困難に、そして不安定になる。ひとつには、事前の知識が圧倒的に乏しい。もうひとつは、経験との乖離がはなはだしい。なるべく対等な、水平の目線で風景を理解しようとすることは、この二重の、言うなれば苦痛と対峙することなのだ、と思う。果たして、そんな不可能な実践に意味があるのだろうか。

 

 

話題を変える。

 

 

何か月か前に、今住んでいる国で起きているわけのわからない出来事について語るという機会に接した。僕は僕の見たものについてしか語れないから、その限りにおいて意味が分からないとしか言えない、と思いながら、とりあえず見たものについて語ってみた。そしてその逡巡をそこに同席していたある友人にこないだ吐露したところ、フランスに住んでいたとき日本について沢山聞かれたことで、留保を大量に付ける癖がついたというその友人は、「あくまで自分の主観である、と留保を付けることは致しかたない」「ある国について語る際には、その人のバイアスがかかっていることは、受け手も最初から理解していることで、だから自分のバイアスについてもそれがバイアスがかかっていると理解してくれる、と期待するしかない」と返事をしてくれた。だいぶ救われた気になった。

 

 

ある遠い国で自分の見たことについて、自分が形成してきた意味世界を超えているなかでそれを理解しようと努める際のもう一つの困難は、自分の目の前に広がっている風景は、どの程度(その風景にとって)典型的なものであるのか、一瞬しか存在しなかった自分にはわからない、ということである。風景は、天気一つでその印象を大きく変える。曇りの日に訪れた街は、つい活気がない街であるような誤った印象を受けてしまう。しかし、その街で曇りの日は365日でほんの数日かもしれない。僕は天気のデータにアクセスを試みる。天気だけならそこまで困難ではない。だが、一瞬一瞬で触れた風景が、どれほど特殊なのか、そうでないのか、そのひとつひとつについて、いったいどうやって判断すればいいというのか?

 

 

語る際の単位(unit)がわからない。

 

 

旅の最中に、抽象的になるな、生活しろ、と友人に言われた。その通りかもしれないし、そうでないかもしれない。その場合の「生活」とはなんなのか。生活そのものが抽象化との反復においてしか理解できない気がする。その場合、生活することが、いったいいかようにして可能なのか。よくわからない。より正確に言えば、ほとんど全くわからない。

 

 

敢えてoversimplifyして約言すれば、僕は自分が存在してはいけない世界にいるような、そんな不安をいつもどこででも覚えるのだ。95%くらいの僕はいつもそれを(ある時は意図的に、またある時は心底忘れることで)無視して、自我をただ大きくして偉そうに生きているが、たまに残りの5%が首をもたげることがある。そんな首を出しながら、1か月間を、送っている。数日後には、また別の国の首都を訪れなくてはならない。距離を測るために。

 

こないだ生で聴いたのですが、やっぱりシュニトケは頭おかしい(褒め言葉)と思うのです。そしてここ十数年で一番の衝撃の出会いは、ネゼ=セガン。徹底的で緻密で斬新な解釈と、それを具現化する見事な統率力。まさしく天才としか言いようがない。こんな才能が同業者にいたら、絶望するほかないと思いました。特に幻想交響曲は絶品です。今まで何百回と聴いたこの曲が、いったい今までの演奏は何だったのかと思えるくらいに、違う曲に聴こえます。ほぼ毎週この天才の所業を目の当たりにできるというのは、たぶん人生で二度と訪れえない、最高に贅沢な時間。ダフクロもオルガン付きも、よかった。今週は、ショスタコの4番。

 

 

t.fくんの3種類あるぶろぐを漁っているうちに、久々にこのブログの存在を思い出しました。

再読してて青臭すぎて笑いましたが、まあどうせ数年後には今の僕も笑われているのでしょう。

 

しばらく日本を離れてますが、頭の中で毎日ぐるぐる似たようなことを、あーでもないこーでもないと考え事をし続けているのが楽しくて楽しくて仕方ないので、相変わらず変人扱いされています。興奮すると早口で滑舌悪く捲し立ててしまうのは言語が違っても変わらず。

体調を崩しやすい季節なのか、頭痛と腹痛が出てきてちょっと寝込んでました。正露丸の偉大さを思い知った何日かでした。


元気なのか元気じゃないのかよくわからないけど、元気じゃないほうが僕らしいので、まあ悪くはないような(?)今日、Iさんとランチしてたのはやっぱり有益でした。


あせってもよくないので、ゆったりやります。まだあわてるような時間じゃない。