ギランバレー症候群を克服したことを、途中までこのblogで綴りましたが、

私の次なる人生の本当の“闘い”は、退院してからでした。

このことを闘病中の患者や家族だけでなく、

多くの人たちに共感を持ってもらえるような、新しいスタイルを模索してきました。


克服してから今年で7年目。

試行錯誤しているうちに、時期が熟すというか、チャンス到来。

心情的にも、やむにやまれなくなったというのが本音です。

新blogをスタートしようと決めました。



それにあたって、まずルポ形式のプロローグを書いたところ、

公開する前に読んでくれた友達から「何度も泣きました」という感想をもらいました。

この闘病blogの読者には、私なりにシンパシーを感じているので、

まず先に泣いてくれた友達の感想を抜粋して、お伝えしますね。



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一言で言って、素晴らしい。


感動で何度も涙しました。
(泣き虫ですが)笑


あなたそのままが溢れ出ている、
その純粋で素直な人柄が、心から伝わります。


まずは、そこが大切ではないでしょうか。


もう今の時代は、うわべやまやかしの人間は通用しません。


真の意味の生命力のある人だけが残り、
またその中でも、魂の美しい人、がこんな社会だからこそ、必要なのです。


しかしながら、得てして、そういう優しい心の持ち主ほど、
何者かに支配されている金欲のもうじゃたちに
にきりつぶされてしまう。


たくさんそんな人たちを見てきています。


心が痛いし、生きるのが苦しいときが多々あります。


でもだからこそ、
そういう人たちが、心の声を発して、
ひとりでも多くの人がそれらを知れること、が重要だし、
世の中は、いま、そこかわ変わっていきます。


あなたの勇気と本気の人生に、どれだけの人が励まされ、
勇気付けられ、
生きる意味を見出すかわかりません!


その為にも、心から露出してほしい内容だと思います。


素晴らしい勇気に、ありがとうございます。


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改めて、嬉しいというより気恥ずかい限りです。

ただ、心から自分の真実を伝えたかった。その迫力が、友達を感動させたのかもしれません。



新blogは、多くの人に共感を持ってもらいたいという願いから

ノンフィクションとフィクションの融合という形で

スタートすることにしました。

私の入院ライフで役に立つこと、医療の現場でもキーマンが必要ということなどなど。

さらに、社会復帰の過程で、火の粉のようにトラブルに見舞われたことに対して、

どのように対処していったか。

・生きがい

・家族

・お金

この3点についても、私の経験や患者の取材を交えながら、お伝えします。


スタイルは、闘病中の男性に元患者の女性から、手紙が送られるというもの。

二人の関係が、どのように進展するのか、フィクションとしてもお楽しみください。

すでにプロローグをアップしました。


★「あたなのためにできること」

http://ameblo.jp/anatanotamedekiru





さて、友達が感動した私の闘病後の「真実」

ノンフィクションのプロローグを、この闘病blogのこの欄にだけ、特別公開します。




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「ギランバレー完治後のいばら道から光ある世界へ~気づきとキーマンを見つける方法」(仮題)



10万人に一人の難病・ギランバレー症候群を完治してから7年が経過しました。
 2007年4月8日葉桜の朝、慶応義塾大学病院に救急搬送され、すぐに気管切開まで及ぶ重篤患者となり、集中治療室(CPU)の一番奥で10日間ほど生死の間をさまよっていたそうです。CPUでの記憶はありません。うとうとするとすぐに悪夢に捕らわれてしまい、夢と現実の区別もできませんでした。
 ギランバレー症候群は自己免疫性のシステムに異常が生じる自己免疫性疾患で、主に運動神経に障害が起こるため、身体が動かなくなるだけでなく、重篤患者だった私は、まったなしの誤嚥防止で気管切開を余儀なくされ、声を発せられない状態が続きました。声帯も喪失してしまったと思い込み、さらなる悲しみと絶望の日々でした
 加えて最初の病棟の第二主治医から「ナースコール押すな」と、ナースコール禁止令が出されたため、死んだ方がまだ精神的に救われると、死を願っていたものです。
 転機が訪れたのは、ゴールデンウィーク明け。病棟が変わってから、新しい病棟のK研修医との出会いです。
当時26歳のKは私に「病気になったのはあなたのせいではない。僕だってギランバレーになるかもしれない。病気になったのは仕方がないことなんですよ」とまるで患者を救い続けてきた名医のような言葉で励ましてくれたのです。
K研修医のおかげで、私は「病気」という魔物に憑りつかれていた自分を発見し、そのことによって、魔物から解放してあげる方法を見出したものでした。
おそらく、この瞬間から、自然治癒力が稼働してくれたのでしょう。
5月の後半にはカテーテルはじめ、各種医療器具が外されて自律神経の薬の使用が終了し、6月には歩行できるほどリハビリの効果も驚異的に現れ、そして7月20日に退院できたのです。
K研究医は、その後地方の病院勤務を経て、慶応義塾大学病院に内科医として戻ってきますが、6年後に私のさらなる別の病気治療のキーマンになってくれたのです。しかも劇的な再会によって。


病気や怪我が、「気づき」のサインであるということを、難病を克服した私が身を持って知ることができました。
発症や事故に遭った頃の、その人のこれまでの人生が全て露呈するといっても過言ではないでしょう。
仕事、家族、親や恋人や友人や職場などの人間関係、健康管理、資産、将来への展望など、個人差こそあれ、患者の人生の全てがタイムラインとして一列に並ぶ。その様は、患者しかわからないある種のエキサイティングな状況なのです。
病気や事故によって、喪失するものもあれば、新しい希望やビジョンが生まれ変わるために、用意されていることがあります。
私は、そのことをギランバレー克服した後で、新たな苦難をクリアーしていくうちに、やっと「気づく」ことの重要性に目覚めたのです。


ギランバレー症候群を克服、社会復帰を遂げた私ですが、私の人生はさらなる険しい道のりが待っていました。
まず闘病前から、母親との関係で悩んでいたことが、一度に勃発したと言っていいでしょう。やっと世間が「鬼母」を認知してくれるようになりましたが、それでも「母との確執」の「確執」という言葉に抵抗があります。私は母を憎んだり、蔑んだこともない。いつも母から一方的でした。
CPUで生死の間を彷徨っていた時に、葬式用の写真を用意する等、重篤患者だった頃は優しかった母が、完治後に、また元の鬼母に戻っただけでなく、まるで魂が悪魔にでも乗っ取られたような豹変ぶりで、バッシングが再開したのです。
母に一体、何が起こったのかを確かめる余裕のない病み上がりの私は、途方に暮れたのです。ギランバレーを克服した私の最初の大きな課題が、重くのしかかってきました。

親族の協力や援助がないまま、社会復帰をどのように遂げるのか。

リハビリも継続中、住む家がない(一生車いすと診断された直後に、母が私の住まいを引き払ったため)、
慶應義塾大学を退院後、悪辣なリハビリ病院の環境に耐えきれず自主退院、その後宿泊施設で暮らしながらリハビリ再開、ウィークリーマンションに越すなど、病気克服後の失費が重なり、すぐに働かなければならない状況になったのです
とてもではありませんが、「気づき」から新しい人生を歩んでいこうという考えも持てないほど、苦境に立たされてしまったのです。

その後、コスメ会社の契約社員として仕事が決まったのですが、女社長の理不尽な理由で不当解雇され、再び2007年の暮れに、奈落の底に落ちてしまった私―――。
でも、私の人生には、必ず「キーマン」が現れるのです。
路頭に迷った挙句、世田谷区の区役所に駈け込んだところ、担当の福祉課職員の年配女性が
「あなたは、勇気を持って社会復帰を遂げなければならない人なの。頑張りなさい!」と叱咤激励して、手を差し伸べてくれたのです。精神的に救われました。
福祉課職員に勧められて、不当解雇したコスメ会社を相手に、調停、そして裁判を起し、2009年勝訴。勝因も信頼している友達のおかげと感謝しています。
仕事の上でも、社会復帰に相応しい「リハビリの現場」取材を連載でいただいくきっかけが、日刊ゲンダイのI部長。キーマン登場でした。
リハビリ現場の記事が縁でもらった夕刊フジの連載で、患者と患者を救った医療関係者を取材していくうちに、
やっと私自身の「気づき」をもらうことができたのです。


このblogは、難病後の私の七転び八起きを読み物として発信するだけでなく、
読者に困難にぶつかった時の「気づき」をキャッチすることの大切さを、
そして変わるときに必ず必要な「キーマン」となる人と出会い方など、
奈落の底に何度も叩き落とされた私が、這い上がっていく過程で見出した「生きるためのサバイバルを掴む」ことをお伝えしたいです。


この新blogをもっと早く配信したかったのですが、
残念ながら2年前に兆候もなく、新たな病気を患ってしまいました。
2012年7月に、左乳房に乳がんが発病したことがわかったのです。
半年ぐらい前から始まったある人間関係が、発病の7月前後に「ヘイト スピーチ」に近い感覚で、私を襲いました。この場合はすぐに自分を変えざるを得なかった。私の性格の一つである「お人よし」を返上して、すぐさま人間関係を整理し、新たな闘病に臨むことになったのですが―――

ギランバレーとはまた異なった困難ないばら道が続きます。
最初の世田谷区T医療センターのM医師のサディスティックな診察態度に傷つき、2番目の中央区S○加病院のO医師の下の新米女医による医療ミスで乳房がどす黒く腫れあがるほど、乳房負傷。その後のS○加病院の対応に、「殺される」と危機感を抱いた私は、乳房温存治療のパイオニアである神奈川県O病院A医師の元で治療をすることになったのですが、S○加病院の医療ミスによる事故のせいか、それとも乳がんによる転移なのか、リンパ節の腫れが、さらなる病気悪化の可能性を掲げ、何度も「死」を想定することに。
半年以上に渡るホルモン療法による精神的な苦しみ(ホルモン療法によってがん細胞が小さくなる、というA医師の可能性に賭けたつもりが、びくとも変化しなかった)の最中、
手に取った坂口安吾の小説から、安吾のテーマ「明るい絶望」「前向きに前進する絶望」に深い感銘を受け、同時に、これまで私を苦しめてきた亡き父や母も、戦争による犠牲者だったことがわかったのです。
闘病中に、家族から解放されたのは、不幸中の幸いといえるでしょう。
その後も母の「困った人」ぶりに振り回されたこともありますが、今は娘として、落ちついた距離感で見守っています。

さて、やっと2013年の3月にO病院で手術を受けたものの、病理検査結果から次の治療方針がなかなか決まらず、退院後に通院しても、A医師の判断があいまいで、しかもドクハラ発言も連発。
医師が患者のために尽力するという医者の倫理観より、組織を重要視するO病院の姿勢、そして退院後にA医師が10年間に1臆円の横領事件で書類送検されていたことを知った私は
「これまでの私は運が悪かった」
と切り替えて、新しい主治医を探すべく、動いたのです。
キーマンはやはり、慶応義塾大学病院の日研究医で現在内科医Kでした。
がん治療に関する著作も多数の近藤誠先生に診察してもらった結果、
「全ての治療を終了する」ことになったのです。

パズルがパチパチと解ける瞬間でした。
近藤誠先生から紹介の川崎の病院のM医師から、再発も転移の可能性が低いと診断され、やっと健康を取り戻すことができたのです。

とはいえ、人生は何が起こるかわからない。
でも起こったことを受け止めて、時には共存しながら、時には少し距離を置きながら、
困難が立ちふさがるときに、私自身が経験から学んだ智恵をいかしながら動き、
物事の解決となるキーマンを探しあてたい。
私の経験から培ってきたエッセンスが、読者のこれからの人生のヒントにしていただけたら‥‥
私の苦労も報われるというものです。
ぜひ最後までお読みください。


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