大原麗子さんが亡くなったニュースが、8月6日の夜に突然流れました。

弟さんが最近連絡がとれなくなったと、警察へ通報。

自宅のベッドで亡くなっていたのが発見され、死亡は2週間前とのこと。



実は私は今年の1月に、彼女に取材を申し込み、自宅まで伺ったことがあります。

大原さんには会えませんでしたが、その時の様子から、ただならにものを感じ、

その後、このブログでも、書けないことが生じました。

その経緯と、大原さんと同じ病気を患った元・患者として、

そして彼女と接触しようとしたライターとして、大原さんの死を悼みながら

これまでのことを綴りたいと思います。




まずニュースの第一報が「病死」。

ギランバレーの患者サイト運営者にメールしたら

次のようなメールが届きました。



「女優の大原麗子さんがお亡くなりになった」にショックを受けております。
ギラン・バレー症候群にかかっても、退院し、日常生活に戻った人が、この病気で亡くなることはないと思っているからです。
(高齢であったり、他の病気を併発した場合は、死に至ることはあるようですが、、、、)
私は、この病気で現在闘病中の人やリハビリ中の人が、このニュースで誤解されるようなことがあっては困ると思っています。



私も同感です。

「病死」ではなく「孤独死」ではないでしょうか。

元・患者として、また接触しようとして動いたライターとして推測するには

「死亡から2週間後に発見」というのは、彼女が身内やスタッフを寄せ付けられなかったのでしょうか。

別の言葉でいえば、ひょっとしたら周囲を拒絶したのではないでしょうか。
一部報道にはギランバレーだけでなく、うつ病も患ったとありますが、

精神的に病んでいたことを裏付けるyほうなことが、取材の中に、見えていたのです。




取材の発端は昨年11月に転倒して怪我をしたというニュースと共に、「何度も再発している」という大原さんの発言。

ギランバレーは、発病も10万人に一人で、再発の確率はさらに低いと言われています。

たまたま某媒体で取材した元・ギランバレー患者から

「退院する時に、神経内科のドクターから再発はめったにないと言われましたが、でも連日テレビで大原さんが“再発”を繰り返しているのを聞いて、とても不安です」。

きっと私と同じ気持ちの患者や元・患者も少なくないのでしょう。


またマスコミの過熱報道も気になりました。

ただでさえ、病気のことで辛いのに、報道が加熱になればなるほど、ますます心が傷ついていくのではないか…
では元・患者でライターの私が、患者を代表して彼女からきちんと病気のことを聞くべきだ。

そう思って、取材依頼をしたのです。




昨年の12月に、最初の手紙を出しました。

私が元・ギランバレー患者だということを伝え、それを証明するために、昨年の8月にある媒体で掲載された体験記の記事コピーを同封したのです。


一患者として病気のことをきちんと聞きたいこと、

私も社会復帰の過程で苦戦中なので、良い智恵があったらアドバイスをしてもらえたら嬉しいなど、

ライターと一患者の中間にいる自分の立場を伝えながら、お願いしました。
期待していませんでしたが、ケイタイ番号など、連絡先も伝えました。

でもケイタイ電話に非通知が2件もあり、もしやと希望を持ったのです。
そこでクリスマスが近づいた頃、クリスマスカードでお見舞いを申し上げました。




そして2009年1/10、取材を申し込もうとご自宅に伺いました。
三連休の最初の土曜日です。


 
住所にある家は、シャッターが締まっていて、表札も人の気配もなくひっそりとしています。
インターフォンを押して、名乗りましたが返事がありません。

2度3度くりかえしているうちに、最初のインターフォンから数分も経たないうちに、渋谷方向から一台の車がやってきて、私の前で止まりました。



運転席の窓が開いて、かた太りで目の大きな50代半ばぐらいの女性が「何の用事ですか?」と聞いたので、

名前と、取材媒体名から記事枠をもらっていると伝えると、
突然シャッターが開き、年輩の男性が顔を出しました。シャッターから年賀状数枚がぱらぱらとこぼれ落ちたので、長い間シャッターが開けらなかったことが想像されます。二人ともスタッフのようで、「帰って欲しい」と断られました。



予想していたのですが、でもここでひるまずに、元・ギランバレーの患者として、手紙を出したことを伝え、
「一日のうちでも良いときもあれば悪いときもありますから、朝良くても午後悪くなることもあります。闘病中は患者も周囲も本当に大変です」。
すると年輩の女性も男性も少し心を許してくれたような気がしたので、さらに
「この病気は再発率がほとんどないと主治医に言われましたが、大原さんは再発ですか?それとも完治していないのですか?」
と聞くと
「本人は再発した、と思いたいようです」とその女性。
 胸が苦しくなりました。再発ではなく、病気が治っていないことがわかったからです。
「あなた、名刺、ある?」
と、その年輩女性に言われてはっとなり、名刺を渡したら
「聞いてみるからちょっと待って」
と家の中に入り、5分もたたないうちに戻ってきて、
「体調が良くないから、誰にも会いたくないそうよ」
と名刺を返されてしまいました。
しかもお見舞いのお菓子も拒否されたので、一回りしてお菓子と簡単な手紙と名刺を紙袋に入れて、玄関のドアのノブに置いてきました。




とても複雑な心境でした。
病気は再発ではなく、治っていないということがスタッフの証言でわかり、しかも本人はそのことを認めたくないのです。あくまでも再発だと思いこみたいのです。
そこでライターとしてより、患者として何ができるかを考え、悩んだ末に、ギランバレーの患者の会のサイトに掲載されている闘病記を送るのはどうかと思い、サイト運営者にメールで相談をしました。



運営者は去年の11月過熱報道された時に、テレビでギランバレー症候群について発言していた人です。
運営者のの返信によると「ギランバレー症候群は人により症状は区々で、境界線ははっきりしないのですが、

大原麗子さんはCIDP(慢性炎症性脱髄性多発根神経炎)に近いように思います」。



そこでCIDP(慢性炎症性脱髄性多発根神経炎)を調べると、末梢神経疾患が際だち、転倒しやすくなるとあります。
もし再発ではなく、治っていないのなら、ギランバレー症候群の中でこのCIDPの可能性が濃厚ですが、私たちは医者ではないので、憶測だけでいえないです。



運営者から「闘病記を送るのは良い考え」と賛成してもらったので、サイトにある闘病記から3つセレクトして、
「自分のことでいっぱいいっぱいですが少し元気になってくると、他の患者のことを知りたくなりますから、気が向いたらどうぞ~」とゆるゆる~とオススメの手紙を送りました。



ところがそれから1週間後ぐらいに、封筒ごと返されたのです。
オモテには「受取拒否」と赤いペンで。宛先も赤字で塗りつぶされています。

さらに裏を見て、仰天しました。
私の住所と名前を記しているところに「訴える」、「警察にスタッフ名刺渡してある」、「スタッフ顔覚えている」、「二度と近づくな」と、これも赤字で、しかも書き殴ったような汚い字で綴られているのです。



何事が起こったのかを把握するまで時間がかかりましたが、編集者や、先輩ライターから彼女が訴訟マニアだと聞かされ、「元夫も彼女に関する発言を一切しないと、神経質になっているほどだから、関わりを持つのをやめたほうがいい。精神を病んでいるようだから」とアドバイスされたのです。

病気になる前から、周囲をぴりぴりさせる女優で、

過去の離婚会見で「私が男だから、家庭に男が二人いるようなものだった」という毅然とした態度から、

周囲だけでなく、自分自身に対していつも緊張感いっぱいで、ぴりぴりしていたのだろうと想像されます。



取材を一時中断して、様子を見ることにしました。



私は彼女との接触の方法が間違っているのだと反省しました。
考えてみると、私は病気を克服したのですが、大原さんはまだ闘病中でした。
突っ返された手紙に書かれていた呪いのような言葉は、彼女の絶望感の象徴で、痛々しい悲鳴そのものだったような気がします。
私は彼女の死が「ギランバレーによる病死」とは考えにくいと思います。

私が訪問した7ヶ月前には、スタッフや身の回りの世話をしてくれる人がいたわけですが、

報道によると、半年前から一人暮らしだったそうです。
病と老い、そして孤独から周囲の人を遠ざけた末に亡くなった「孤独死」、

あるいは「ゆるやかな自殺」のような気がします。

(ファンの人には申し訳ありませんが、元・患者で取材のために接触を試みた私の率直な感想です)




死亡報道から3日、彼女の死因は

頭部血管が破れており、不整脈による内出血と報道。

月1回の通院や、筋トレなどリハビリも行っていたそうですが、

たった一人でも日常生活を過ごせるような状態だったのでしょうか。

少なくても、手伝ってくれる人が必要だったのではないでしょうか。

芸能活動を再開するつもりなら、特に。



私は大原さんがギランバレーによる「病死」ではないと

思っています。

でももし大原さんが天国で「病死よ」と言っているなら、それはそれでいいのかもしれません。

病気は、患った経験がないのなら、患者の苦しみもわからないし、

症状も様々ですから、

患者が必ずしも患者の気持ちがわかるというわけでもないですから。



今年の1月に取材拒否の姿勢を、封筒に記された赤字の言葉で示されたわけですが、

ショックを受けた私は、あの当時、ある元・週刊誌の記者に電話相談したところ、

現物を見たいといわれ、

数日後にその元・記者と、企業の役職に就いているキャリアウーマン2人に、見せました。

そのときに

私が「接触を間違った、マスコミではなく一患者として臨めばよかった」

とうなだれたところ、

キャリアウーマンがかなり強い言葉で

「じゃあ、どうしてあなたはそのことを最初から伝えなかったの?」

と責められ、これには絶望しました。

病気のことを知らない人たちに相談した私が大馬鹿者だったからです。



偶然に死亡報道があった翌日に、

たまたま知人の出版ミニパーティがあり、

そこに元・記者とキャリアウーマンも出席していたので、二人にそのことを告げたら

二人とも「封筒を見た記憶がない」。

これにはまたまた仰天しました。

そこで、見せた場所とシチュエーションと、彼らの発言を説明しましたが、

覚えていないというのです。

「ひどい!」と、私はそこで、とうとう泣き出してしまいました。

大原さんの死で、ナーバスになっていたせいかもしれませんが、

病を知らない人たちにとって、有名人だけど同じ病気の患者から、ある意味でバッシングされたことなど、

他人事なのだと、また絶望感に襲われたからです。



でも私は被害者意識を持つのが嫌なので、

「病を知らない人に相談した私が大馬鹿」という考えを捨てることにしました。

こういう出来事があった、ぐらいで流していこうと決めました。



もはや「勝ち組」とか「負け犬」とか、

それに振り回される世の中は、ある意味、平和なのだと思います。


病や老いや孤独は、有名無名問わず、

誰にでも訪れます。

それを意識せずに、毎日「勝ち組」めざすことが健康であり、成功者の秘訣と信じるのも、

また人生なのでしょう。



老いや、老いからやってくる孤独の前に、病を知りました。

病はある日突然前触れもなくやってきて、これまでの人生を大きく変えます。

でもそれも、知ってしまったと受け止めながら、先に進むしかないですね。

命が助かったわけですから。

それに心から感謝できるような人生を目指しながら。