あなたの琴線に触れたい.com

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人生に問いが無くなると死ぬと割と真剣に思っています。
では問いとはなんでしょう。一緒に考えてみませんか。

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こんばんわcatです。
ネガティブってあまり良いイメージ無いですよね。一つの失敗から、またこの次も失敗するだろうと考え物事を悲観的な方向に傾斜した考え方をしてしまいがちです。
私もその手のタイプであり、失敗してしまった物事から派生する『これから起こりうる最悪の範囲のこと』まで想定してしまいます。
でもこれは悪いことなのでしょうか。と最近感じるようになりました。
問が立ってしまったのならこれは紐解いていくしかありません。
そういう訳で今回は『マイナス思考からくる未来予測』というテーマで書いていきたいと思います。お付き合い下さいよろしくお願いいたします。

『マイナス思考の何が問題なのか。』
・そもそもマイナス思考とは
船井幸雄の造語。古くは「心配性」「取り越し苦労」などとも呼ばれたが、行動を起こす前に否定的な結論を出したり、想像をめぐらせたりして内向的になりやがて自己否定につながってゆく。多くは一つの失敗から、またこの次も失敗するだろうと考え、自分は何をしてもだめなんだ、どうせやってみても無駄だろうと脳内において負の連鎖が起こり何事にも消極的になる。原因は生まれつきの性格や小児期における親のしつけや教育、友達からのいじめや喧嘩などのなかで、否定的な思考を植え込まれたケースなどが考えられるが、最近の脳生理学的な研究によりセロトニンという脳内物質の不足との関係が指摘されている。(wikipediaより)
『行動を起こす前に否定的な結論を出してしまう。』『想像をめぐらせて内向的になる。』
『一つの失敗から、またこの次も失敗するだろうと考えてしまう。』
パっと読んだだけでは、もの凄くネガティブな側面が押し出されていて一見ダメように見えてしまいます。では、少し見る角度を変えてみましょう。
『行動を起こす前に考えつく範囲で最悪な事を想定して意見を述べる。』『相手の性格、パターンを加味して想像力を巡らせる。』『一つの失敗から派生する失敗を考える。』
こうして見ると慎重で思慮深い人のような気がしますね。
ネガティブ思考の何が問題か、それは『最悪な事を想像して、そこで思考が止まってしまう事。』
それが問題なのです。
なまじ想像力がある故に思いつく限りの最悪を想像して気分が落ちていきそこで思考が止まって、やったって無駄だ、自分なんてどうせ、となっていきます。

『最悪を想像できるなら対策も立てられるはず』
・行動を起こす前の否定を否定出来る事を考えてみる。
先の想像力があるという事は『未来予測が立てられる』という事です。
行動を起こす前に否定をするのは『今から悪い事が起こるかもしれない』という予感があるからです。単に否定したいだけの人もいますがこれはただのガキなので放っておいてかまいません。
予感があるという事は『それに対しての準備ができる』と言うことです。
想像力をもう一歩先に進めてみましょう。自動車の免許を取得する時に教官からこんな言葉を教えられました。
『だろう運転よりもかもしれない運転を心がけてください』
例えば、深夜や僻地の道路において、「こんな時/所では歩行者はいないだろう」と運転するよりも「歩行者が突然現れるかもしれない」と判断して、歩行者がいる前提での運転を行う。と、物事をよりネガティブに考えゆっくり走行する、左右や前方の確認を怠らないなどの『先を想像することによって対策を立てる』という事故を未然に防ぐ行為です。
友人に対しても喧嘩して『嫌な事を言ってしまったから嫌われてしまっただろう』で終わってしまうのでははなくて、『嫌な事を言ってしまったから、嫌われてしまったかもしれないがどうしたら仲直りできるのか、仲直りした後に友好関係を円滑に運ぶにはどうしたらよいのか。』というような一つ先の思考を心がけて見るとどうでしょうか。

『最後に』
私自身ポジティブになりたいだとかモテたいだとか人気者になりたいだとか性格上無理でしょうし望んでもいません。むしろポジティブな人をなんでそんなに楽観的に考えられるのだろう。くらい冷ややかに見ています。
変える必要はありません。想像力を少し先に伸ばしてみましょう。
『最悪な事がおこるから最悪なことが起こらないようにはどうすればよいか。』
これだけで少し今ある焦燥感や劣等感は少しは軽減できるかもしれません。

それではこの辺で、
オ・ルヴォワール(またね)
こんばんわcatです。
日常で何気なく使う『頑張れ』自分を鼓舞する為ではなく相手に発する時のこの言葉が私はあまり好きではありません。
本来は相手を励ます為の『祈り』であったはずのこの言葉が相手の環境、心理状態によって『呪い』のような形になってしまうからです。
その本来は『祈り』であった言葉の形が歪められ『呪い』となって最終的に人を死に至らしめる場合もあったりするかと思います。
思いつく限りでは受験ノイローゼで自ら命を絶ってしまう受験生や育児や親の介護に追われ親族を手にかけてしまう人。挙げ始めるとキリがないのでこの辺にしておいて本題に入りましょう。
今回はこの『頑張れは祈りか。呪いか。』のテーマで考えてたことをツラツラ書き出していくので読んで頂いて何か感じ取って頂ければ幸いです。

言葉を発する人との距離の近さによって左右される
頑張れ』は本来、『祈り』の形であったと先に述べました。これのニュアンスは間違っていないかとおもいます。誰も相手を不快な気分に陥れようとしてこの『言葉』を使う人間はきっと存在しないからです。そもそも気にも留めないような人物であれば、『頑張れ』なんて言葉は使わないですし、相手の状況をまったく関係していない状態でコレを使っても『こいつ何言ってんだ?』という状況になってしまいます。『頑張ろう日本』という言葉に私が感じる気持ち悪さは此処に起因します。相手が不透明な空虚な頑張れ。善意の押し付けで、とても無責任でとても冷たく聞こえます。
祈り』が『呪い』に変わってしまう、『頑張れ』はもっと身近でそれこそ親や恋人、友人、から発せられる血の通ったものだと思いました。
例えば、親の発する『頑張れ』は子供により良い人物、俗に言う尊敬されるような人間になって欲しいという『祈り』なのですが受け取る子供側は大抵『これだけの事をしてもらっているのだから期待に答えなければならない』というような義務感を背負ってこれに答えられないと自己嫌悪に陥ってしまいます。この時点で『祈り』であったものが『呪い』に変わってしまいます。
上司や、恋人、親しい友人に発せられた場合もこのようになる事も多いかとおもいます。
しかし、そこまで親しいではなく友人、知人くらいの距離感だと『頑張れ』と言われても、『おう。頑張るよ。』くらいの感じで流せてしまいます。どのような違いがあるのでしょう。
思うに距離感が近すぎる為に言葉が言葉以上の重みとなって『呪い』の類になってしまうのではないのかという結論に落ち着きました。
口にしてあげる事も大事ですが、『目は口ほどに物を言う』という言葉もあります。言葉にして『祈る』とこも大事ですが時には黙って傍に寄り添って『祈る』事も時には必要なのではと思います。言葉に宿ると信じられている力が良いものとは限らないのですから。

そう考えると『god luck』って凄く良いですね。軽い感じで。
じゃこの辺で。
オ・ルヴォワール(またね)
こんばんは、catです。少し間が空いてしまいました。四稿目です。
先週映画を見て展覧会を見に行ってきました。とても良い休日だったように思います。
映画館に足を運び『キカイダーREBOOT』という作品を見たのですがその中で『君たちを守るこの身体止まるまで』というセリフが出てきます。作中において何度か使われ、物語の根幹と言っても良いかもしれません。
『キカイダーREBOOT』というのは『人造人間キカイダー』という40年くらい昔の作品を現代風にアレンジした俗にいう『リメイク作品』になっています。
『人造人間キカイダー』を簡潔に説明すると、不完全な良心を持つ人形が人間になることをめざすイタリアの童話『ピノッキオの冒険』を下敷きにしており、不完全な良心回路を持つロボット(人造人間)が人間に近づくことをめざす変身ヒーロー番組で『8時だョ!全員集合』というお化け番組の裏で16パーセントを叩き出した人気作品でもあります。
この作品を見た事で何となく思う事があったので、
テーマに『あなたはプログラムで泣いたり笑ったりしていませんか。』というものを採用してみました。
ちょっとだけお付き合い下さいよろしくお願いします。

『感情はフォーマットとプログラムがあるのだということ』
僕は激情型ではありますがあまり他人の感情や心証に左右されるタイプではありません。
笑ったりする事はありますが、ここ3,4年は泣いたという記憶が思い出せる限りではなかったように思います。
まれにすぐ感情移入できて泣いたり、笑ったりできる人に出会う事があるので時々ビックリして戸惑います。
少し前に『携帯小説』なんかが流行ったりして書籍化されていたものがありましたが、全然感情移入出来ないし『自分にそんな経験がない』ので全く泣けませんでした。
しかし、周りの子達はボロボロ泣いたとか言う話を聞いて当時は全く意味が分からなかったのですが、最近ある人が『泣けるフォーマット』さえしっかりしておけばどんな作品だろうと大抵の人は泣かせる事が出来るのだ。と言っていて「あ、なるほどな。」と感心してしまいました。
つまり、『感情のフォーマット』なるものを押さえておけば、容易に他者の感情を『コントロール』出来るということです。なるほどなるほど。
そう考えると『ディズニー作品』や『ワンピース』などはこの『感情のフォーマット』をうまくトレースいるので人気が出るのは当たり前といえば当たり前なのかもしれません。

今度は『フォーマット』ではなく『プログラム』という側面から考えてみようと思います。
ロボットは『笑う』という『プログラム』を命令されれば笑いますが人間は『感情』があるので、笑えと言われて『笑う』人間はいないと思います。
しかし、『感情』がある故にここは『笑っておく場面』だとか『泣いておく場面』だとかを
という『状況のプログラム』によって笑ったり、泣いたりする場合があります。
その『状況のプログラム』において感情をコントロールしなければならない場面というのは大人になるにつれて多くなってきたように思います。
可笑しくも悲しくもないにも関わらずにそのような事が出来るのは『プログラムで笑う機械』ともはやなんら変わりないではないでしょうか。
この『プログラム』で笑ったり泣いたり出来る人達はコミュニュケーションが上手で友達が多いような感じを受けますが、何となく微妙に距離を取っていたりその人の本懐が見えにくく何処か影のあるような感じがしてなりません。
本当に見ていると気の毒で、なんとかしてあげたいと思うのですが距離を取られているし本懐が見えないのでアドバイスも出来ないし、それも望んでいないだろうと感じるのでどうしようもなく大変もどかしい気持ちになります。
その人の問題はその人が解決する事であって他人が関与するべき事だと思っていて救うとかそういうつもりはさらさらないのでもし最近『状況のプログラム』で感情をコントロールしているなと思ったら少し距離を置いてみるのも良いかもしれませんね。

『人間は機械ではないし心もプログラムではない』のですから。

珍しく感傷的でしたが映画の影響という事でw人間っぽいですねw
それではこの辺にてオ・ルヴォワール(またね)