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色々話を聞いていくうちに
あまり『普通』と大差がないということがわかった。
投薬は元々していたし
CD4の数値も元々高めだし
何が違うかっていうと
出産当日は薬を飲まないので
点滴での投薬?母子感染予防?(なんだっけ?笑)
になって、翌日だか翌々日から普通に薬飲む感じ。
その点滴はどこでもあるわけではないから
なんかかどっかの病院から取り寄せるために
『必要です』っていう書類にサインしたっけな。
自分自身は本当このくらい。
もちろん病院サイドはきっといつも以上に気を付けるようにとか言われてるかもしれないけど・・・
あとは、帝王切開になるから
あらかじめ『なぜ帝王切開か』というネタを考えて
産科の先生に不自然じゃないか確認して。笑
だって、エコーの写真見たら逆子じゃないのはわかるだろうし
前々から帝王切開ですってわかってるのは何か理由がないと。
かなりの人数に言ったけど、誰も疑うこともなく(まぁデリケートな話だしね)
当日まで問題なかったです。
あとは、母乳問題。
母子感染を防ぐために完全ミルクなんだけど
まぁみんな聞いてくるよね。笑
そんな母乳・ミルクについてツッこまれるなんて思ってもなかったから(私なら「へ〜」で終わる話題)
もっとリサーチしておくべきだったなと。
ちょっと受け答えに戸惑った。
1番精神的にキツかったのが
赤ちゃんに薬を飲ませなければいけなかったこと。
1日1回を6週間だったっけな?
シロップの薬とメモリのついてるスポイトをもらって、
本当にチョビッとの量だから
スポイトのメモリに合わせてボトルから吸い上げるのも難しいし
哺乳瓶の吸い口のシリコンにシロップいれて
ミルクも横に用意しておいて
先に薬を吸わせて
サッとミルクにチェンジして・・・
ミルクを貰えると思ってる腹ペコ赤ちゃんが
一生懸命吸ったのが薬で泣くのよ。
最初の2-3週間とかはすんなり大丈夫だったんだけど
やはり知恵がついてきて
「これ、違う」って拒否するようになるの。
しかも体重の増加に合わせて薬も増えて
大人からしてみたら数滴レベルだけど
新生児には何回も吸わなきゃいけない量。
最後は吸わせると一口で拒否するからスポイトでそのまま口に流し込むんだけど
最初は勢いでゴックン→泣くって感じだったのが
これまた知恵がついてきて吐き出すようになるの。
もう私も半ベソ。
ごめんね、ごめんねって。
6週間の薬が終わって、もう人生の中の1番辛いことが終わった感じで(私の体調も回復してくる時期だったし)
「もう私何が起こっても大丈夫な気がする」って心底感じたよ。
心も体もズタボロで
なんかの修行か罰ゲームなんじゃないかと思うほど。
ってか、本当に修行だよ。
恐るべし産後1ヶ月・・・
思い出すだけで泣ける。
というか、辛すぎて覚えてない。笑
家で検査して
まず当時の担当医にメールした。
病気が発覚して一番最初に先生と会ったときに
万が一、診察時間外で緊急なことがあったら・・・と
個人的な電話番号とメアドをもらっていて
まさかこんなことでメールするとは。笑
そしたら、明日診察時間の最終に来なさいと返事が。
翌日の夕方病院に行って先生と色々話した。
先生が当日、産科と小児科に聞いてみてくれたんだけど
拠点病院といえども、当時在中している先生にHIV患者の出産経験がないと意味がなくて
産科はOKだけど、小児科で診れる先生がいないとのこと。
だから転院先探すから!と言われてしまった・・・
薬も即変更。
今日もらって帰って、明日から新しいの飲んでって。
書類は後から変更で大丈夫だからと。
数日後、先生から電話があって
受け入れ先の病院が決まったから、予約しておいたから行って!と言われて
ドキドキしながら新しい病院へ。
先生と顔合わせして、今後どうしていくかを聞いた。
まずは、書類上の手続きが必要だから
アレ書いて、コレ書いて
役所に行って
病院行って
また役所に行って・・・
産科も予約して
今度は母子手帳もらいになんちゃらセンターみたいなとこ行って
2週間くらいの間に全部バタバタ全部やった気がする。
というか、あまりに忙しくて覚えてない。笑
そんなこんなで、嬉しいとか、そういう感情に一切浸る余裕なしでした。
ブログにも書いているけど
私は元々子供が好きではないということもあって
病気がわかったとき、結婚するとき
『子供はつくらない』と決めていた。
旦那にも言っていたし、納得して結婚したので
私の人生設計は生涯2人きりということしか考えてなかったし
その分自由に旅行行ったり、美味しいもの食べたり・・・って予定だった。
でも30歳過ぎて、
本当にこのままでいいんだろうか?
っていう考えが芽生えたのね。
子供が欲しい!って感情でなくて
『つくらない』って決めつけて
『試してみる』って選択肢を排除していいのかと。
自分が母親になる想像は全くできなくても
旦那を“父親”にしてあげるチャンスを奪っていいのか。
もやもやしたまま旦那に話した結果
終わりを決めて挑戦してみようってことになった。
それで出来なくてもいいしって感じで。
とは言ったものの、
まぁそんな簡単にできるわけないし
チャレンジしたけどダメだったね、予定通り2人でって密かに思っていた。
子供をつくらない勝手な罪悪感を薄めるだけの考えだったのもある。
思っていた通り
トントンとうまく事が運ぶこともなく
『やっぱね~ そりゃそうだ』って思いながら
期限がくるのを今か今かと待っていた。
10%ほしい、90%恐怖。
やっと期限キター!と思ったら陽性反応・・・
マジか・・・
10%喜び、90%恐怖・・・
恐怖感は病気の陽性を聞いたときより高かった。
そんな感じで、妊婦生活スタート。
※“妊娠”というとてもデリケートな話なので、不快になる方がいたらごめんなさい。
『望んでないのに妊活・妊娠』ということではなく、
『心の準備がないまま妊活・妊娠』という表現が私には合ってると思います。
20代ではないので、心の準備を待っている余裕が体にはないから。
なので、現実に心が追い付いてなかった当時の心境です。
ブログを更新していこうと決めたのに4ヵ月も空いていました・・・
前回のブログで、数年前に転院してました~って書きましたが
今日はその理由を書こうかなと。
何年も前からブログの更新が緩やかになってしまったのもここに理由アリ。
実はですね・・・
出産してママやっておりました(今もママやけど・・・)
そのため、その話を避けて通ると
ブログに書くようなネタなんて一切ない生活をしております。
タイムリーに書きたい気持ちはあったものの
日本国内で陽性者の出産なんて年にちょっとしかいないだろうから
安全策をとり
何年か後に書こうと決めていました。
陽性者としての出産ネタは実はそんな書くことなさそうなので
ただの子育てブログになってしまいそうですが
昔のことを思い出しながら、時間があるときに書いていこうとおもいます。
おひさしぶりです!
なんか年イチくらいしか投稿してない感じになってきたので
ちょっとがんばって更新していこうかなぁと思ってます。
チョイチョイ相談メールなどを頂くのですが、
ブログの更新がないからメールを躊躇してしまうようで・・・
申し訳ないです。
最近のCD4は650でした!
まぁ、可もなく不可もなくで
HIVに関しては本当に書くことがないんですよね。
病院にも、採血して薬もらいに行ってるだけって感じで。
そうそう。
ちょっと訳あって、数年前から病院を変更しました。(そのことはいつか書きます)
発覚当初からずっとお世話になってた先生だったので
引っ越しして少し遠くなっても
数ヶ月に1回しか通院しないから頑張って行ってたのですが・・・
わかってはいたけど、超めんどくさかったです!笑
役所と病院を行ったりきたり。
こんなんだったら投薬始める前に病院変更しとけばよかった!
新しい先生もホワっとしててイイ感じです。
そう遠くない最近、私の友人が闘病の末、他界しました。
旦那さんから連絡をもらったときは
大人になってからこんなに泣いたことはないというほど泣いて
思い出しては涙が出て・・・の日々。
ただ、闘病生活が続いている間は会っていなかったせいか
落ち着いて考えると、まだ現実味がないというか
本当にこの世にいないの?という不思議な感覚。
たぶん、家族なら看病したり病状を把握してるから喪失感はすごいと思う。
特に仲良し家族だったしね。
私と彼女は同じ会社で知り合って、
部署も違うしあいさつもしたことなかったけど
お互いに存在は把握してて、
ランチ中にカフェで遭遇して、よかったら一緒に・・・という流れで
『同じ匂いのする人種で気になってた』って互いに思ってて意気投合。
それからは、多い時で週3,4回は飲みに行ったりしてたし
会社が別になっても、だいたい金曜日は渋谷飲み→終電というコースだった。
彼女には私の感染も伝えてて、それほど仲良くしていた。
私が感染するよりちょっと前から闘病生活が始まっていて
調子がいいときは仕事もしてたし、飲みにも行けてた。
投薬なんか始まると、お酒はダメでもランチとか、おいしい店を探して色々食べに行ったり。
そんな感じで、調子が悪くなってもしばらくして元気になったからと連絡がきたり
その繰り返しだったから、今回のときも連絡を待ってたんだよね。
チョイチョイはメールしてたけど返事がないから心配はしてたんだけど
まさか訃報が届くとは全く思ってなかった。
後から聞いた話では
痛みを和らげるだけの緩和ケアだったとのこと。
それを聞いてしまって
自分勝手な私は
『なぜ連絡してくれなかったのだろう』とずっとモヤモヤが晴れない。
彼女の性格的に理解はできる。とても。
自分が同じ立場だったらどうかわからない。
でも、私はひとことでいいから
今までありがとう
って言いたかった。
メールでも電話でも手紙でもいい。
生きている間に、きちんと伝えたかった。
腹がよじれるほど笑わせてくれて
時には私の子供じみた考えを優しく直してくれたり
どんなときでも味方になってくれた。
だから、そういう病状だってことを伝えてくれなかったのは悔しいし
『また元気になって会える』と無理矢理にでも連絡をとらなかった自分の馬鹿さに腹がたつ。
誰に何を言っても、もう時間は戻らないし会えることはない。
だから答えがなくてモヤモヤが止まらなくて。
私の旦那は若い時に親を病気で亡くしていて
若いゆえ、そんなに重い病気だなんて思わなくて
親もあえて隠していたみたいで
あの時、しつこいくらいに会いに行けばよかったってずっと後悔してるから
私の晴れない気持ちを私以上に理解しているのが救い。
だから何だって話だけど、
彼女を思い出すだびに
言い残すことはない生き方をしようと思う。
自分が病気になって
案外、好き勝手楽しくやってきた人生だから
いつ死んでも思い残すことはないって
『人生』に対して執着はないことがわかったけど
彼女が亡くなって
誰にも何も感謝を伝えてないことに気が付いた。
それって、簡単そうで結構難しい。
最後にそうやって気付かせてくれたのだと信じ
いつか私がソッチに逝ったときには
連絡をくれなかった文句と
楽しい時間を一緒に過ごせたお礼を言おうと思います。