『乾坤一擲』、後漢初代皇帝劉秀
普段『ぐず』でも、やる時にやれば皇帝になれる。
その例が後漢初代皇帝の劉秀である。
劉邦が建国した漢も次第に政治が乱れ、王莽に国を簒奪された。
しかし、王莽の重税政策で働いても所得以上の税金がとられ、農民たちは他の農民から食料を奪って生き延びるという地獄の時代だった。
一致団結して生き延びようということで造反軍が各地で形成された。
「緑林軍」と「赤眉軍」が大きな勢力となった。
「緑林軍」に参加したのが劉秀である。
劉秀は慎重すぎるほど慎重な性格で、彼が挙兵したことを皆がきくと、
「あの人が挙兵するくらいだから王莽の時代は終わりだな」
と続々と挙兵に参加した。
しかし、王莽も40万の大軍をもって緑林軍に攻めてきた。
緑林軍の諸将たちは、操縦しやすいロボットを皇帝として立てていたが、劉秀は皇族の一人であり、手柄を立てれば皇帝になり
緑林軍を牛耳られてしまうと考え、1万に満たない兵で城を守らせた。
たちまち城は大軍に包囲された。その数10万。
劉秀は十数騎を従えて城を脱出。城外で兵を集めて、城を救おうとした。
近辺の諸城で兵を集めその数2000~3000人。
劉秀は慎重すぎて「ぐず将軍」と呼ばれてきたが、本質はそうではなかった。
勝負するときは『乾坤一擲(けんこんいってき)』で勝負する人だったのだ。
また、「ぐずである」という評判も利用した。
劉秀はみずから先頭にたって数千騎で10万の大軍に突入したのである。
あの劉秀が自信満々で攻めてくる。
「なにかあるかもしれない。」
敵もさることながら味方もそう思った。
敵は翻弄され、味方も不思議な暗示をかけられ実力以上の力を発揮した。
また、敵の首脳陣も二つに分裂して意見がかみ合わず、統率が乱れていた。
そんななか、篭城していた味方の兵も王莽軍苦戦の報を受けて色めきたち、門を開いて出撃した。
天候も幸いした。大雨、雷が鳴り、優位あるものに力を与え、劣勢にあるものは心がくじかれてしまった。
勝敗は決した。
10万の王莽軍は大敗した。
この敗戦で王莽は脱落した。
緑林軍は首都を落とし、諸将たちは要職についた。
いったん勝利して政権を握ると権力闘争がおこる。
劉秀は「ぐず」で評判が通っていたので、権力闘争で殺されずにすみ、首都より北の河北へ左遷された。
河北での仕事は中小軍閥を緑林軍に帰順させること。
中小軍閥といっても、強力な軍団が多い。
強力な軍団は避けて、翻弄していた。
しかし、運が向いていた。
弱小軍団が劉秀に下ったのである。
そうなれば、将棋倒しのように他の弱小軍団も下ってきて、とうとう最強の軍団「王朗軍」と対抗できるようになった。
そして、最初の戦いで王朗軍を大いに破った。
中立を決め込んで山の上から傍観していた地方の実力者たちは劉秀軍に加担し始めた。
王朗軍は壊滅し、王朗は処刑された。
そのころ緑林軍は権力闘争に明け暮れており、人心も離れていた。
そこへもうひとつの造反軍「赤眉軍」が攻めてきた。
緑林軍が負けたのは言うまでもない。
次は赤眉軍が政権を握った。
赤眉軍は優秀な人物がおらず、食べ物が欲しいだけの集団だったため、国の政治はできない。
劉秀軍に攻められて赤眉軍は滅んだ。
ここに、後漢初代皇帝劉秀が誕生した。
普段はぐずでも、やるべき時に実力が発揮できれば、なんとかなる。
なかなか、励まされる人物でした。
PS.
今のドラゴンズはまさにぐずそのもの。乾坤一擲でタイガースを倒してくれ。。
そういえば、緑林軍は最初は農民中心の軍隊だったが軍資金や食料がなく、また、地方豪族のうまいスローガンや軍資金、食料の援助で地方豪族にのっとられたんだよな。。
アルカイダNo2のザワヒリ容疑者がビデオ映像で「イスラム教徒よ、国連の仮面をかぶった十字軍から、あなた方の土地を防衛せよ」といっているが、うまいスローガンだよな。。
私もスローガンを作ってみるか。。
「当たらなければ意味がない!!」
夏競馬外れまくった私でした。。
凱旋門章のディープインパクトどうなっかな??
10月1日(日本時間2日午前0時35分発走)だから、日曜の夜中にやるのか。。
10月2日の新聞にはディープインパクト1着って見出しが来るのかな??
検討を祈る。。