武将の銅像 | 八板金兵衛の銅像 - 戦国史史上最重要人物!火縄銃を作った男!! | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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武将の銅像めぐり、八板金兵衛の銅像です。

人物名銅像設置場所住所
八板金兵衛西之表港近くの交差点鹿児島県西之表市栄町
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八板金兵衛の銅像は種子島の玄関口・西之表港の近くにあります。
くるまr港周辺に停めさせていただきました。

八板金兵衛清定(やいたきんべえきよさだ)という人物をご存じですかはてなマーク
日本史史上においてとっても重要なお方なのです。

天文12年(1543年)、種子島に鉄砲伝来す
天文12年(1543年)、種子島に一艘の南蛮船(中国船)が漂着します。
そこに乗っていたポルトガル人が時の領主・種子島時尭(たねがしまときたか)に差し出した鉄の筒こそ、後に日本の合戦史を変えることとなる火縄銃でした。

※種子島時尭が火縄銃を買った(2挺2千両と言われています)のか、献上されたのかは不明だそうですよ。
僕個人の見解ですが、漂着した船を曳航し種子島時尭が修復してあげていますし、その間の乗組員約100人の世話もしていますので、普通に考えれば献上されたような気がします。
鉄砲伝来に関する書「鉄砲記」には買ったとは書かれていません。
また、種子島時尭が手に入れたのは2挺と言われていますが、実はもっとあったらしいです。
その辺り、種子島の職員の方に詳しく聞いたのでいつか紹介しますね。


関の名工、ネジの技術に苦労しながら2年で火縄銃を作る
種子島時尭は手に入れた火縄銃を刀鍛冶の八板金兵衛に与え、複製を作るよう命じます。
八板金兵衛は苦労の末、2年後に初の国産火縄銃を完成させます。
金兵衛を悩ましたのはネジだったんですよね。
螺旋を切るという技術が無かったので、最初は鉄の栓を打ち込んだのですが弾を放つと空圧で抜けてしまったんだそうです。
(ネジの技術を習得するために自分の娘をポルトガル人に嫁がせたという話もありますが、それも違うみたいです。それもいずれ)

八板金兵衛は美濃の関の刀鍛冶でしたが、良質の砂鉄を求めはるか種子島まで来たのだそうです。
腕のいい刀鍛冶が種子島へ移り住んでいたというのも不思議な偶然ですよね。
八板金兵衛という人物、種子島時尭とセットで覚えることをおすすめします。
ちなみに八板金兵衛が作った国産第一号の火縄銃は、種子島開発総合センター・鉄砲館に展示されています。


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八板金兵衛の銅像。
漂流船が曳航された西之表港近くにあります。



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なかなか躍動感のある銅像です。
でも一生の不覚です(T_T)
聞き忘れました。
…ど、どっちが八板金兵衛なのはてなマーク



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僕の想像ではこっちが八板金兵衛。



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鉄砲の筒鍛錬してます。



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お弟子さん(僕の想像)の後姿。



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銅像そばにあったベンチ。
イカしてますよねにやりにやり


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