本来の自分らしさとは、

「これが自分だ」というアイデンティティの無いそのままでいられる自分。

「自分らしさとはこれである」という定義をつくった時点で、自分に制限を加えてしまいます。

 

「自然体でいよう」と思った時点で自然体ではなくなっていくのと同じで、「自分らしくある」ことの究極は、そ

れすら手放した状態であると思うんですね。

 

つまり・・・「これ」という自分らしさは本来存在しないのではないかと。

 

しかし文字を必要とする人類は、その自然体で自分らしさにこだわりもない自分というものを「自分らしさ」という言葉に言霊としてもたせている感もあります。

 

自然体で自分らしさにこだわりも無い状態というは、

常に『今ここ』において起きていて、
『今、ここ』を味わい尽くすことにつきる。

『今、ここ』で自分としてあるのは、自分としての真実。


そこに不具合が起きている感じがするのは、過去や未来への自分像という制限を引っ張り込んでいるからかもしれません。

 

「ある」「ない」という二元性の中で生きているからこそ、制限・限界というものがある。

 

そういう意味でも私たちは『制限』とか『限界』といったものがそもそもある世界で生まれてきます。

 

スピリチュアルに憧れを持ったり、

ヒーラーとか覚者になりたいと

思ったりするのはいいけれど、

 

スピリチュアルな意味づけとか

気づきだと思っているものは時に

『制限』になってしまうこともあります。

 

その意味づけや気づきといったものは、

普遍的な意味を持つ訳では無いし、

正しくもなければ間違ってもいません。

 

私たち人類は未だ二極性の中にあって、

そこに矛盾を抱えて生きていることも少なくありません。

 

むしろそういうことを経験するために地上にいて、

いかにその枠を広げたとか超えたかを

学んでいるのではないでしょうか。

 

そうすることで「清濁併せ呑む」という、

中庸の在り方への学びが積み重なっていくんだろうかと。

 

そういう意味では、

魂はこの矛盾を経験していること自体も

また喜びなんだろうと思います。 

 

この世界で起きることは時に

中庸では片付けられないことも沢山ありますから。

 

やがて、「こうでありたい自分」

というものと今の自分の矛盾を超えて、


自分らしさにこだわりもなく、

ただ自然体であることを受け入れるようになっていくのでしょう。

 

「今、ここ」をひたすらに味わっていくことは、
「今」の自分が、過去にも未来にも影響を及ぼすことのできる存在であるという在り方でもあります。


それは、

自分の人生を誰にも、何にも支配され無いことでもあり、
魂としての自分をこの物質次元で体現することでもあり、

それは結果的に集合意識から人類全体に影響する在り方でもあります。

 

そして、もっと言ってしまえば、宇宙全体に響き渡る在り方でもあると思うのです。

 

度重なる過去生で、

アイデンティティの消失を積み重ねた自分。


それは、強制であったり、

信仰であったり、

自己犠牲であったり、

奉仕であったりもしたし、

罪悪感だった時代もあっただろう。

 

どれも本当の意味での

自然なアイデンティティの消失ではなく、
無理矢理、泣く泣く、

あるいは消失しているようで

自分ではない何かをアイデンティティとしてすがっていたこともあっただろう。

 

私たちの魂はそういうことの積み重ねから、

ようやく、自然なアイデンティティのあり方というものを理解していく経験をしていきたいのではないでしょうか。

 

私はそう思います。