創世記4:26「エホバの名を呼び求める」とは冒涜的? | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

創世記 4:26 には、「その時エホバの名を呼び求めることが始まった」 とありますが、これは今日


の日本でいうところの 「苦しい時の神頼み」 という格言的な意味での崇拝行為の一形態です。


それは心に律法が書き記されていなかった時代の特徴としてヘブライ語聖書の随所に見られます。


イエス以降の油注がれたクリスチャンは心に律法が書き記されていたので、こうした祈り方はギリシ


ャ語聖書にはほとんど出てきません。 したがって人類のごく初期に始まったこうした祈りは、今日、


神からの恵みがないあらゆる国民に普通に見られる行為の一つにすぎません。 無神論者でさえ


本当に苦しい時には神にすがるとも言われます。 つまり普段は神を無視しているが、苦しくなると、


らにもすがりたい気持ちで神を拝むということです。 


物見の塔解釈ではこの部分を 「冒涜的に呼ばわること」 としていますが、むしろこうした傾向は、始


まりの時ではなく、終わりの日の特色であるはずです(ペテロ第二3:3)。 この部分の欄外参照で


は、出エジプト 20:7 の、「いたずらにみ名を取り上げる」 ことや、列王第二 19:16 の、神の


み名を嘲弄するアッシリアの王セナケリブの言葉を例に取り上げています。 なぜこんな解釈になる


のでしょうか? 


それは、「自分たちは神の目から見て義にかなっており、その祈りも神聖なものなのだ」 と考える一


方、「それ以外の者たちは汚れており、その祈りなど聴かれるはずはない、奴らは滅びに値するの


だ」 という裁きが、すでに彼らの心の中でなされていたからに他なりません。 ルカ 18:9~14で


イエスは、パリサイ人と収税人の祈りを比較された際、収税人を裁いて自分を高めるパリサイ人を


ダメな祈りの見本、自分の罪を悔いて許しを請う収税人の祈りを、パリサイ人より義にかなっている祈


りであると判断されたのと同じ原理です。 


もちろん、遥か昔にエデンの東に住んでいた彼らがその時点で真に悔い改めていたわけではないで


しょう。 だからと言ってエホバのみ名を冒とくしていたことになるでしょうか? セツの家族は新しい


世代であり、過去の悲劇を言い伝えでしか知りませんでした。 彼らはただ失楽園前の状態を求めて


いたのです。 彼らは当時まだ身近に存在していた、「ケルブたちと自ら回転し続ける剣の燃える刃」


の向こうにある 「命の木」 を思い見てエホバの名を呼び求めたのです(創世記 3:24)。


では、こうした小さな聖句の解釈を取り上げて正すのは、テモテ第二2:14~18 にあるような


「言葉をめぐる論争」 であり、クリスチャンにとって何の益にもならないとお考えでしょうか?


そうではないでしょう。 ここで指摘されている者たちは、まだ起きてもいない復活を何の根拠もなしに


すでに起きたと解釈して人々の信仰を覆していたのです。 そうではなく、聖書中に見られるある聖


句の解釈、こうした解釈は心から出るものであり、その裁きの精神は、その人物が扱う物事のすべて


を支配しているというのです(テトス1:15)。 口では親切を語っていても、顔は微笑んでいても、


動物が獲物を襲う時のように瞳孔は開き、その奥で炎が燃え盛り、心では滅ぼしている。 これらは


偽善がはびこるパン種の基なのです(テモテ第一4:2)。


むしろ創世記 4:26 の聖句の欄外参照聖句も改め、裁き人3:9 とか、申命記 4:30 などとす


べきでしょう。 まさに神の民に関する歴史はこの繰り返しであり、エホバから反れてバアルを崇拝す


るようになる民が苦境に遭うようになると、エホバが顧みてくださる。 しかしすぐにはそうはせず、


彼らをその罪に応じて十分に懲らしめられる(イザヤ28:23~29)。 ここにエホバの憐れみ深さや


公正が見られます。 人の目から見ると、「悪い者が許されることなどあってはならない、そんなの虫


が良すぎる、そんな神に仕えるぐらいなら死んだ方がましだ」 などと言いますが、人にはこれを阻む


権利などありません。 ヨナの書は全体を通してこうしたことを教えています。 つまり預言者その者


の悔い改めです。 


それでこれから物見の塔指導部が行うべきこと、それは、今後新しい出版物の発行を即座に止め


これまでに発行した出版物の間違い捜しを外部の声も参考にしながら徹底的に行い、以前の間違い


を訂正し、謝罪し、以前のものを破棄していただくようお願いし、集約結果を一つの書籍にまとめ、


日々の集会では、この書籍と聖書を用いて研究を行うことによって、すでに定着してしまっている間違


った知識を正しいものにし、さらに新たに見つかった間違いや新たに見つかった理解を世界中から集


め、月ごとに公表するのです。 こうしてまず自分たちに関する神との和解、人々との和解を進めてゆ


くことです。 それができれば、やがて周りからの攻撃も静まり、納得して受け入れる人びとも大勢現


れることでしょう。 それができないなら、もうこれ以上エホバのみ名をいたずらに取り上げるのを、


あなた方自身がやめるべきなのです。 あなた方にはエホバのみ名が付されており、その証人という


重い荷まで課されているのですから。 創世記 4:26 の聖句をライブラリーで調べていたら、「エホ


バの名を呼び求めること」 に関してこんな一文が出ていました。 


「神のみ名を偶像のような対象(目に見えない神を崇拝しようとする際の見える有形の助けと見なさ


れるもの)に当てはめた」 これはまさに今、日本の 「エホバの証人」 の多くが陥っている状況では


ありませんか。