江田三郎についての一考察 | 学校では教えない歴史

江田三郎についての一考察

江田三郎の戦前から終戦まで簡単に振り返ろう。

19077月商家に産まれる。神戸高商卒業後、東京商大へ進学。東京商大で、マルクス経済学を学ぶ。在学中に、身体を病み休学。療養中に無産活動に参加。中退後、全国大衆党に入党。小作争議の指導にたずさわる。1934年、全農岡山県連の書記長に選出。農民運動の中で「若手の実力者」として注目を集める。1937年、岡山県県会議員に初当選。翌19382月に治安維持法違反により検挙(第二次人民戦線事件)19409月、刑期を終え出所。葬儀屋に勤めるも程なく退社、華北へ渡る。華北で在留邦人にための現地土木作業にたずさわる。19464月帰国。帰国後、日本社会党に入党。

戦後から脱党まで。

江田の実利主義に最も近い政党ではなく、古巣の日本社会党に入党した。日本社会党が中央で内部抗争を行なっている一方、地方組織は共産党系との闘いであった。当時の共産党は「階級闘争を通じた革命政権の発足」を目標としていたが、江田は「農民の生活向上」を目的としていた。インテリ出身者には珍しい実利主義者なのである。この実利主義が、後に江田が日本社会党から追い出される「江田ビジョン」へと発展する。

日本社会党の中央の内部闘争は激しかった。末端党員に対し一貫したな思想指導を行なえず、かつ、十分な生活費を支給することができなかった。足腰の弱い組織になってしまった。日本共産党に比べ加盟党員数もはるかに少なく、党収入は党員からのカンパより幹部個人の集金力と労組に頼りきりとなってしまった。選挙のたびに労組の力をバックに左派が存在感を大きくなっていく。左派は「親ソ」と「親中国」とに分かれて行く。右派(西尾派)は脱党してしまう。これでは「国民に広く開かれた社会党」は前途多難であった。党内に、容共派(親ソ、親中国)から再軍備派まで、広い思想の持ち主達をまとめること自体に無理があった。党内人事は常に悩みの種であった。委員長を右派から出せば、書記長は左派から選出する。各委員も左派、中間派、右派をバランスよく配置する。左派に属する江田か注目され始めたのは、書記長に初就任した時である。書記長就任後は「構造改革」路線をはっきりと打ち出す。しかし、「構造改革」路線は、鈴木派の佐々木更三から反論を受け、その後旧鈴木派佐々木系、黒田系、野溝系が反江田で統一戦線を張り、江田支持は旧鈴木派江田派、河上派、和田派で、日本社会党を真っ二つに割った。

「江い田ビジョン」の発表

「江田ビジョン」はソ連型や中国型の社会主義ではなく、日本独自の社会い主義主義を論じたものである。

「アメリカの高い生活水準、ソ連の徹底した社会保障、イギリスの議会制民主主義・日本の平和憲法」の4つを目標としたものだ。江田がお手本としてのは、「イタリア共産党グラハム理論」であった。しかし、「構造改革」は左派に潰され、江田自身も脱党せざるを得ない状態に追い込まれる。

私の考え

江田三郎は戦後の一時代を作った希代の政治家である。しかし、日本社会党に入党したため、派閥抗争に巻き込まれ、不遇の党生活を送っている。彼には先見の目が合った。しかし、当時の社会党幹部には彼を使いこなす度量が無かった。もったいない話である。私は思う。戦後彼が日本共同党に入党していたらと。思想などはステッキで生きるためにはよりよいものを求める江田三郎は、もっと評価されるべき政治家だと思われる。

江田三郎

江田五月 ホームページより