194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/18(月) 18:01:44 ID:Ze2GuhPS0
sea_lake_riverさん
SAPIOの連載によると、つまり朝鮮人と社会主義者=アカが結託してクーデターを
起そうと準備していた。そこに関東大震災が起き、混乱に乗じて朝鮮人が暴動・
放火・強姦行為をやった。特に横浜方面から品川にかけてのエリアで物凄い人数で
襲い掛かってきた。横浜方面だけでなく、深川、墨田他のエリアでどうみても火災が
起きるはずの無いエリアで爆発や火災が発生した。
その情報が警察とかに上がって丸の内とか外国の要人が居るので朝鮮人の暴動に
備えて厳戒態勢で備えていた。
この朝鮮人の暴動に怒り狂った日本人の自警団がそいつらをとっ捕まえて自衛の
為に殺害した。
なかには無実の朝鮮人と朝鮮人に間違われた日本人も居た。
戦後アカが主導になってでっち上げの人数を6000人とか捏造してデマで殺され
たと言い回った。本当はアカと朝鮮人が結託してテロ行為を起した事実を
知られるとまずいから。
苦し紛れにデマ説を必死で流した某学者は日本の社会・共産主義の土台を
作った一員でも有った(しかしそのアカの学者でさえ、実際に朝鮮人の
暴動破壊行為が合った事を大筋認めている)つまり、隠蔽工作である。
朝鮮人が暴動を起していたという証言は多数でありリアリティが有り、当時の新聞は
それを伝えているが、当時の内務大臣、後藤新平が「朝鮮人の暴動が有った事は
事実だが、自警団による自衛行為はやめさせてこの混乱を収拾させるべきだ」と
考え、風評の打ち消しに徹した。→それが所謂デマ説の正体。
「それではアカ朝鮮人から市民の安全を保証出来ない」と読売の正力氏は後藤大臣
の決定に怒り、反発して、9月末に地方へ転勤願いを提出した。
後藤新平は社会主義者と交友が有り、社会主義への知己も持っていた(後藤は右翼
とも関係が有り、いわば両刀使いだった)が、一連の暴動をきっかけに、
これではまずいと、治安維持法が制定され、社会共産主義者への弾圧へと、政府は
政策を見直し、遂行して行った。

これが大筋の事実です。朝鮮人の暴動から自衛の為に戦ったという事が歴史の
真実です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1426289464

と、2chのコピペが有ったので取りあえず「デマ説を必死で流した某学者」と言うのを調べてみた。

その学者とはズバリ吉野作造 ですね。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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吉野 作造(よしの さくぞう 1878年(明治11年)1月29日 - 1933年(昭和8年)3月18日)は、大正期を中心に活躍した政治学者、思想家、明治文化研究家。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。号は「古川学人」。弟は政治家の吉野信次。

思想 [編集]

吉野は民本主義の思想家として知られている。民本主義はDemocracyの訳語であり、大日本帝国憲法下においては天皇主権が法理学上の建前であったため、民主主義(主権在民)という言葉を避けてこの語が用いられた。吉野の民本主義論の主眼は、いかにして国民がよき政治主体となるかではなく、いかによき執政者を選択し、かつ監督するかという点にあった。すなわちそれは、普通選挙の提唱・推進ではあっても、政治主体としての国民大衆を想定したものではない。

しかし、晩年になると吉野は無産政党関係者とかかわるようになり、その時点においては民本主義という言葉をやめ、デモクラシー、民主主義と表現するようになり、政治スタンスはオールドリベラルから社会民主主義的なものへと変化している。

吉野自身は、朝鮮の独立運動家や中国の民族主義者に対して共感する部分が多く、朝鮮の独立運動家呂運亨について、道徳的に評価できると弁護したり、孫文の起こした辛亥革命に対しての共感を覚えている。また、関東大震災時における朝鮮人虐殺について批判論文を発表するなどした。日本の帝国主義的政策に対して批判的であったため、大杉栄とともに憲兵に狙われた。関東大震災直後、憲兵が吉野宅を急襲したが、近隣の住民に気付かれ暗殺は未遂に終わった。

以上が吉野の思想的な特質であるとされ、大山郁夫や長谷川如是閑ら、同時代の大正デモクラシーの理論的指導者が進化論や多元的国家論の影響のもとにその社会観を変容させていった吉野の影響を受けた東大の学生らは、新人会という社会運動団体を作るが、マルクス主義の影響が強くなると、吉野の思想は古いとみなされるようになった。

大日本帝国憲法下という時代的制約のなか、Democracyが世界の大勢であると広く一般向けに論じ、大正デモクラシーの機運を盛り上げた功績は、吉野の国際協調主義の今日的意義と並んで評価されるべきであろう。

まあ日本の社会共産主義思想のタマゴみたいな方なんですねえ。
このお方が「流言蜚語」だと言いふらしていた訳ですが、中央公論で必死に朝鮮人を弁護していました。
「~~サラでも貧乏な彼らは、途中飢に迫られて心ならずとも民家に行って食物を掠奪し、自らまた多少の暴行も働いた。これが朝鮮人掠奪の噂を生み・・・ 」中央公論 大正12年11月号

  ・・・ただの強盗じゃねえか。さらに、

「よし、(暴動や放火)があったとした所が、あの位の火事泥は内地人にも多い。普通ああいう場合にありがちの出来事で、特に朝鮮人が朝鮮人たるの故を以って日本人に加えた暴行という訳にはいかない。・・・」中央公論 大正12年11月号


  ・・・暴行を日本人に加えたと言っているじゃないか。

と言う事で、朝鮮人による暴行・強奪は有りました。と、デマ説を流していた張本人でさえ認めていたんですねえ(^A^)。


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