空(くう)になる

空(くう)になる

思想とは常に在り続けるものである、だがしかしそれは他に影響を及ぼすものではない、これ即ち己の全てが空(くう)になるという事ではないのだろうか

つまり私の思想はあなたには意味がない

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私の今年の目標というか、掲げる言葉が「構えない」です。これは2つの意味があります。
ひとつはどんな状況においても構え過ぎないという事、そしてもうひとつは私にとって余計な対象を構えないという事、この2つです。

今年、私は空手を再びやり始めましたが、始めたおかげで過去にやっていた時よりも遥かに多くの事を、この一年で学ぶ事ができました。

まず体力の大切さ、体力というのは心の生きる力と比例しています、体力があればずっと元気でいられます。
そしてその体力があるからこそ、構えずにいられるという事、確かに今はまだ体力が戻り出したところなので、どうしても組手では構えてしまいますけどね。

その構えないというのを今年からは日常に応用しています。今までの私は何か構えて生きていたところがあるので、それをしなくなった事によって物凄く心が落ち着くようになりました。
構えないという事は心の余裕を作るという事です、それを空手で改めて教えて頂きました。

ただ全く構えないという事ではありません、必ず構えの形はあります。私の言う構えないというのは、構え過ぎないという事です。
組手で構え過ぎてしまうと、相手に行動を読まれてしまうからです。それは日常でも同じ事ではないかと気づいたからこそ、私は落ち着いたのかもしれません。

そして日常の中を構えずに落ち着いてまわりを見渡す事によって、私が今まで必要のない対象まで構ってしまっていた事にも改めて気づく事ができました。
その前から私は心の断捨離を行っていたので、そのタイミングが良かったのもあります。
やっと私は皆さんと同じように、自身に必要のない対象を構わずに生きられるようになれたのかもしれません、まだまだだとは思いますが。

そうやって「構えない大人」を今年からの目標にして、できるだけ努力を惜しまず生きていこうと心に誓いました。
客観というものはひとりの目では作られない、小さな世界の膨大な数の目が作りあげたものが客観である
だから私の目もあなたの目もどう足掻こうと客観にはならない、ただの主観である
ただ唯一、自身が客観であるという主張をする方法がある、それは行動だ
客観は言葉の主張では多くは伝わらない、言葉は主観であるという客観があるからだ
言葉の価値などその程度だ
私の書いているこの言葉の価値もその程度だ

一番大切なのは自分の中にある思いだ
その思いを伝えるのは行動でしか成し得ない
言葉はその補足でしかない
だから私やあなたが信じている言葉なんて言葉でしかなく、実は大したものではない
大切なのはその言葉から感じた思いだ

あなたは何を思い、何を感じたか
それが今あなたが無意識にしている行動に出ている、それを他者は見ている
それを意識して行動する事をすれば、あなたにとって大切な行動になり、そして初めてあなたの出す言葉があなたにとって大切になる

行動より先に出る言葉なんて、実は何にもならない事を、私もあなたも心の中ではすでに知っている
それに気づくかどうかで全てが変わる

変われるか変われないかは、あなたの心の中の思い次第という事、結果がどっちであれ、それは紛れもないあなたである

恐れたら、そこまでだ
あなたは怒られる事が嫌いですか?怖いですか?
私は怒られる事が今は好きです、もちろん怖いですがそれが楽しいと思えたからです。

少しおかしな表現かもしれませんが、これはとても大事な事なのです。
なぜなら怒っているのは己ではなく、相手だという事です。
つまり相手の状態を把握できるのです。
ただその怒られた事に怒りを覚えてしまっては意味がありません、怒られた側は常に冷静に落ち着いて状況把握する事が大切です。

先に私が怒られる理由を書かせて頂きます。
私が仕事でよく怒られていたのは、自己判断で勝手に動いているからです。
ただ、ワガママな自己判断ではなく、常に効率を考えて先読みして動いているのです。
先読み故にまだ不確定な事を先に終わらせてしまうので、なぜ先にやってしまうのかと、それを繰り返して散々怒られてきました、当初は怒りを覚えた事もたくさんあります。
でもそのおかげで何が良くて何が悪いのか、その場合に何が大切で大切でないか、たくさんの事を学んでいて、今でも学んでいるのです。

私は無意識に自分から学びにいっていたのです。それに気づいた事により、私は怒られる事に怒りを覚えるのではなく、楽しみを覚えるようになったのです。
なぜその時自分が怒られているかも考えますし、なぜ相手が感情的になっているのかもその時見る事ができます。
私的に学びとしては一石二鳥なのです、いやその後どう動けばいいのかも考えられるので一石三鳥でしょうか、つまり簡単に一気に学べるのです。

だから今の私は悪い言い方をすると、誰かを怒らせようとして勝手に動いている、そのつもりはなくともそれと同じという事です。
相手からしたら厄介者と思っても仕方ありません、私もそう思うからです。
しかし今は私が相手側に立ったとしても、怒る事はありません、そこでなぜその行動をとるのかを考えるのです。
もしそこで少しでも役に立つ何かを考えてるならばそれは大人、何も考えず無意識な行動であるならばそれは子供、そのように私は解釈するようにしたからです、これに歳は関係しません。
その大人な行動をとる人には話をすれば大体は解決しますし、その子供のままの人は話をしてもほぼ理解はしないので何も教えません。
子供に何かを教えるのは私たちではなく、その親の仕事だからです、他者の大人には全く関係ありませんので、私も大人として生きていますから。

このように怒られる理由は人それぞれのものがありますが、簡単な解釈で言えば、怒られる事を恐れない人は怒られる事を知っているので、すみませんでしたもありがとうございますも言う事ができます。怒られる事を恐れる人は怒られた時に恐れて言葉を失ったり、声が出づらくなり謝罪や感謝を伝える事ができないでしょう。

あなたならどちらがいいですか?
もしあなたが大人なら、答えは目の前に見えてるでしょう、楽しみはすぐそこにありますよ。