この頃は病院からの帰りは歩く。


今日は昔のフジテレビした通りを通って、父の家で一休み。


フジテレビはお台場に行き、大きなマンション群が代わりに現れた。


商店街は寂しくなる。


私はこの辺に小学生のころ下宿させられていて詳しい。








今日は検査の結果がよく、とんかつ屋さんに余裕で入る。


だが、やはり躊躇してかつどんだけにした。


裏から上がると、出たところが中学から通っていたバス停である。


懐かしい。


当時はきずかなかったが、バス停の前が自衛隊の裏門である。








随分変わった。


正門も綺麗に、立派になった。


昔の裏門は警備は厳しかったが、すぐ横に使わなくなった戦車が置いてあった。


子供がのって遊ぼうと、動きはしないが、


みんな上った。


戦車のなかにもは入れて楽しかった。


今門の横の道は昔と同じで、車両機動隊が出入りしている。


自衛隊の前身は警察予備隊。


混乱したデモ隊を鎮圧。


今の自衛隊は主に災害出動だそうだ。


学生時代は面白い。


危険なデモに行く親友に、自宅の裏庭で防具をつけ、


長槍を特訓。


その時代は長い棒をデモで出すのも勇気がいる。


情報は車両機動隊の道場で剣道の稽古をしていたのでよくわかった。


ふつうは危なげな学生は近づけないが、本庁の偉い人を知っていると扱いが違う。


あの大きな敷地は、そこで戦う士官にはそばに家が必要だった。


裏門は士官が我が家に帰る道。




外苑東通りという。


大きく道を広げている。


まだ早稲田までだが、いつか朝霞へと続く。


3師団が大急ぎで移動できるだろう。


友達に聞いた話では表の道は、重装備の車は通れないという。


戦争も大震災も嫌だが、来れば戦う。


父の家も少し崖を壊してといわれている。


だがまだ、白い蛇が崖に住んでいると信じている母がいる限りこのままにしておく。








父の客間は、下座床になっている。


最近いろいろ研究して使い方が分かった。


父の家は大正14年、大震災の二年後。


廃材をたくさん使い作った舟形の家、風の流れはよく。


どんな暑くても父は冷房を使うとは言わなかった。


今には博多人形の二つがならんでいた。


母である、姉と私のつもりである。




兎に角大変、母の冬物を探す。


頼まれた半纏、セーターの巻きスカート。


母でも女性の衣服を見つけるのは辛い。


姉のものと混ざってしまう。


ないと思っていた、祖父と父、私のしゃんじゃくが出てきた。


かび臭い。


大変と急いで風通しのよいところに干す。


そうなのだと、衣替えは虫干しでもあるんだと昔の人の知恵に驚いた。




教室にやっと着き、炭を今週の天気に合わせて四日分作る。


もう乾かしてあるので、


今週はこれらの炭はすべてなくなる。


今週は寒い時で最低で11度という。


もう本来は炉開きなのだ。


京都のお家元ではもうすぐお茶壺道中だ。


上林というお茶屋さんが昔から、新茶が入った茶壺を柿と栗を添えて、


家元に届けるのである。


伝統行事である。


私は100えんでみんな自衛隊のそばで買ってきた。


嬉しくて薩摩芋を昔のふかしききで、いや美味しかった。


値段ではない、旬なのだと思った。








私は最後に一番気に入っている帽子、マフラー、手袋を出して終わりにした。