福島県原発被災地区の復興に向けて

福島県原発被災地区の復興に向けて

3月11日を境に、僕らは変わった。
また、変わらざるを得なかった。

南相馬市小高区(旧小高町)で、僕は生まれた。
福島原発のある双葉町が、青春の舞台だった。
二つの町に、原発事故による避難指示が発令された。
僕の両親や親戚、また、多くの幼馴染みや同級生が町を離れた。
いつ戻れるかわからない。自分の町が消えてなくなるかもしれない。
けれど、いつかは戻れる日がくる。みんなで町に集う日がくる。
そう信じる。信じるしかない。
その日のために、今から準備をしたい。僕らに何ができるのか。
みなさんといっしょに考えていきたい。

志賀 泉

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脱原発文学者の会 第3回福島訪問

 2015年6月7,8日、「脱原発社会をめざす文学者の会」(略称・脱原発文学者の会)の第3回福島訪問旅行に参加し浜通り地方の原発被災地をめぐった。参加者は僕をふくめ11人。メンバーには南相馬市小高区出身の僕の他に、被災地出身者として浪江町で被災し埼玉県で避難生活を送っている橘光顕氏(シンガーソングライター)がいる。彼は僕と同じ双葉高校の卒業生でもある。我々は東京駅から常磐線の特急ひたちに乗車し、いわき駅で下車。駅前でレンタカー2台に分乗し国道6号線を北上した。

 旅行のプランは基本的に僕が計画した。昨年(2014年)9月に規制が解除され全線が開通した6号線を走ることが今回の旅行の目玉だ。6号線は帰宅困難区域の大熊町や双葉町を縦断する。もちろん線量は高い。福島第一原発の排気筒が見えるポイントも通過する。

 ネットを開けば「線量高いのに人命より復興優先かよ」とか「首都圏に放射性物質を撒き散らす」とか批判の声をやたら目にする。全面否定はしないとしても、僕としてはこれらの声にヘイトスピーチと同じニュアンスを受け取ってしまう。率直に言えば、自分が避難されたように傷つく。多くの福島県人がそうであるように。

 正義を標榜する人間は時として平然と人を傷つけて省みない。誰がどう言おうと、浜通り地方の住民や出身者にとって、6号線開通は原発被災地を貫く「風穴」だ。閉塞していた土地に風穴が開いたことで、実質的な生活面ばかりでなく精神面でも以前よりはるかに楽になるのは事実なのだ。正義の人々の口にする「正しさ」が被災者の生活感情と逆立ちするなら、僕は被災者の生活感情を優先する。

 何が「正しい」かなんて、断定的な言い方を僕はしたくない。被災者の意見も感情も多様で矛盾だらけだが、僕は被災者が迷うように迷い、悩むように悩みたい。それが被災地出身者としての僕が自分に課した思考の流儀だ。いろいろブレまくりではあるがこれだけは一貫している。

 もちろん、それゆえに間違うこともあるかもしれない。しかし被災者にとって切実な問題は、何が「正しいか」ではなく何が「必要か」のはずだ。その上で自分に何ができるかを考えていくべきではないのか。そこを突き詰めていけば本当の「正しさ」が必然的に導き出せるはずではないのか。

 あるいは「正しさ」なんて最初からないのかもしれない。あるのは個々の生き方だけかもしれない。震災当初、多くの人が自分の生き方が根本から問われているように感じたはずだ。なのに身の回りで日常性が回復するにつれ、問いそのものを忘れてしまったのではないのか。日常を喪失したままの被災者の存在を忘れて。もしくは忘れようとして。

 本当は、僕たちは絶えず自分自身に問い続けなければならないはずだ。何度でも問い直すために、あるいは問いを探すために、震災から4年たっても非日常の現実を晒し続ける被災地を知ることが必要なのだ。今回の旅行もそのための契機になればと願う。

 文明論の視座から生活者を見下ろしながら、同時に生活者の視座から文明論を見上げるような小説が書けたらと思う。まだまだ僕は満足のいくものを書けていない。一編の小説もまだ日の目を見ていない。

 村上春樹も書いているとり、「故郷について書くのはとてもむずかしい。傷を負った故郷について書くのは、もっとむずかしい」(『辺境・近郷』より)

脱原発文学者の会 第3回福島訪問 2



   久之浜

 いわき市の市街地を抜けると国道6号線は北へ行くにも南へ行くにも海岸沿いを走る。震災直後は避難する自動車で渋滞し身動きとれなくなったところへ津波が直撃するという悲劇が起きた場所もある。我々は北へと向かう。津波で多大な被害を受けた四倉港も現在は復旧工事が進み、堤防に並ぶ無数のテトラポットがまっさらな肌を陽光にさらし、海に沈められる時を待っている。

 僕は震災の二か月後に隣の海水浴場で浜辺のゴミ拾いをしたときの体験を話した。砂浜から津波が大量の砂をさらっていったおかげで、何十年も前に不法投棄されたゴミの袋が露出していたのだ。ラベルからすると日本が消費社会に突入していった70年代初頭のゴミ。「それは面白い話だ」と詩人の森川雅美氏が手を叩く。「福島に原発が作られていった時代のゴミでしょ。それが原発を破壊した津波によってまた姿を現したんだ」

 なるほど、と僕は感心する。僕は考えつかなかった。詩人というものは頭のどこかに神の視点を備えているものらしい。

 さて、久之浜港は四倉港より約5キロ北にある。福島第一原発からは30キロの距離だ。

 漁港の町として賑わっていた久之浜は津波に流され63名の死者・行方不明者を出した。なにしろ防潮堤のすぐ横にけっこうな町があったのだ。工場から流れ出た重油に引火して発生した火災は明朝まで続いた。焼け焦げたバスや郵便ポスト、焼け爛れた街路灯を覚えている。震災二か月後に訪れたとき、街の様子は震災当時そのままに残され、街ひとつをまるまるミキサーにかけて掻き回したように破壊され尽くしていた。原発事故の発生で住民が避難したおかげで瓦礫の撤去はままならず街は放置されたままだったのだ。

 四年後の現在、同じ土地を防災緑地にするための工事が進行していた。盛り土によって土地は1メートル以上かさ上げされ、町の痕跡はすべて赤土の底に埋まった。記憶の光景が宙に浮いて眼前の現実に重ならない。こういう場所に立つと一種の記憶喪失に陥ったような気分になる。

 「このへんさ遺体がいっぺえ流れ着いてただ」と指差していたおじさんや、「汚染瓦礫はみんな東京さくれでやればいいだ」と舌鋒鋭かったばあさん、津波で荒れた庭先に造花を飾っていた奥さんたち、みんなどこに行ったのだろう。仕方ないといえば仕方ないのかもしれないけれど、寂しいものはやはり寂しい。

 ただ一点、町の中心にありながら奇跡的に津波の被害をまぬがれた稲荷神社の小さな祠だけが、復興のシンボルとして赤土の大地にぽつんと残されていた。まるで、生き残りの孤独感に一人で耐えているように。

 橋を渡り、岩陰の奥に隠れた漁港を見に行く。個人的には、何となく畏れ多くて一度も足を踏み入れなかった場所だ。

 高校時代の同級生で、仲の良かった友だちの数人は久之浜から通学していた。

「前の日に壺を海に入れておいて翌朝に引き上げると、中にタコが入ってるんだ」と教室で話していた友だちを思い出す。ついでに、「おもしろーい。私もやってみたい」と目を輝かせていた女の子の顔も思い出す。


 漁港は静かだった。人影はない。補修の跡が白い波止場に繋留された漁船が穏やかな波に揺れているだけだ。どの船も白塗りのペンキが真新しく、使われている形跡がない。漁協の建物も外壁と屋根が残っているだけのがらんどうだ。風景そのものから魂が抜かれている。漁協が壊れているから水揚げされないのではなく、放射能の海洋汚染で操業を停止しているのだろう。いくら港を補修し漁船を確保しても4年前から時間が止まっているのと同じだ。

 それとも試験操業でたまには漁に出ているのだろうか。なにしろ人がいないので尋ねるわけにもいかない。突堤の先で釣りをしている人がいる。遠目だからよくわからないが、どことなく気抜けしたまま釣り糸を垂らしているようにも見える。釣った魚は食べるのだろうか、放すのだろうか。食べるのかもしれないな、と思う。世の中には身に染みついた生活習慣を何が何でも守り抜く人がいる。どんなに注意されても線量の高い山に入り山菜摘みを止めない人もいるのだ。チェルノブイリでも、フクシマでも





脱原発文学者の会 第3回福島訪問 3

大熊町

 久之浜漁港でぶらぶらしているうち予定の時間を大幅に過ぎてしまい、富岡町は明日訪問することにして国道6号線を北上していく。

 作付けを終えた清々しい田園風景は、いつしか雑草の生い茂る野原に姿を変えていく。僕らは違うレベルの世界に入りつつあることを肌で感じる。同時に、巡回するパトカーもやたら目につくようになる。そして「これより帰宅困難区域」の看板があるポイントを通過すると完全に次元が異なる世界に入ったことを実感する。枝道はすべてバリケードでふさがれ、沿道の民家や商店、レストランはどれも朽廃の時を刻んでいる。アスファルトの割れ目を押し広げ猛々しく伸びる雑草。ペンキが剥げて錆の浮いた広告塔。作家の岳真也氏は核戦争後の世界を描いた映画『渚にて』のラストシーンを思い出したと語った。

 半年前に通ったときは「アトム寿司」という、いまとなってはブラックジョークのような看板を見かけたのだが、見落としたのかどうか今回は見つけられなかった。

 坂道を下ると沿道に「福島第一原発」の表示板が立っている。荒廃した田園の向こう、山陰に原発の排気筒が見えてくる。本当は駐停車禁止だが、僕たちはなぜかそこだけが開いている枝道に車を駐めて車を下りた。線量計を数値はたちまち5ミリシーベルト毎時を超えていく。気のせいか空気にもまがまがしさを感じる。目に見えない恐怖を皮膚感覚で味わう。メンバーたちは思い思いに道路に散らばり、寡黙になりながら写真を撮ったり線量を測ったりしている。

 原発の排気筒は平然と目の前にある。高校時代は原発のある風景を当たり前のように受け入れてきた。港区に東京タワーの建つ風景が当たり前であるように。そのせいでおそらく、僕が原発のある風景から受け止める感想はたぶん他の人とは違う。

 半年前に一人でこの場所に立った時はなぜか『ムーミン谷の彗星』の一節を思い出していた。地球に向かってくる彗星にムーミン谷の住人が大騒ぎする話だ。

「彗星って、ほんとにひとりぼっちで、さびしいだろうなあ」(ムーミントロール)

「うん、そうだよ。人間も、みんなにこわがられるようになると、あんなに、ひとりぼっちになってしまうのさ」(スナフキン)

 もちろん、どんな意味でも原発を擁護するつもりはないけど。

 離れたところに立っていた警備員が頃合いを見て「あのお、このへん1ミリシーベルトを越えてるんで」と声をかけてくる。要するに早く立ち去ってほしいのだ。

 俺はあんたらと面倒を起こしたくないんだ、わかってくれよと、声の調子で伝わってくる。訛りからすると地元の人だろう。誘導灯を振っていちおうの警告を与え、肩を揺すりながら面白くなさそうに持ち場に引き返していく。

 僕も警備員をしていた時代があったから彼の気持ちはよくわかる。おまえら視察か調査か知らんがいい気なもんだよ。俺は生活のためにここに立ってんだよ。僕ならきっとそんなふうに考えるはずだ。

 危険地帯であることを来訪者に告げながら、彼自身はマスクをしているだけの軽装だ。被曝について知らないはずはない。数年先の健康を気に病むよりは現在の生活を優先する。誰がどう言おうと、原発被災地で生きるとはそういうことだ。



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