とある法華講員さんが日蓮宗系らしき邪難を破折した記事を見て明快で分かりやすかったので此処に転載する。
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『人生相談や先祖・水子供養など相談例』というサイトに、「すが」さんと名乗る人が、以下の発言を記しています。
引用開始 >>>>>>>>>>>>>>
日蓮正宗も学会も教義は同じです。なんら変わりはありません。日本仏教会にも所属していないため 伝統仏教教団とは言えません。とくに斫伏論を主張しているため 他宗とは共存できません。最も釈迦を中心としていませんので仏教ではありません。
>>>>>>>>>>>>>>引用終わり
①日蓮正宗も学会も教義は同じ
本尊義や三宝義が異なるのに、日蓮正宗と創価学会の教義が同じわけないじゃありませんか。節穴にも程がありますよ。
②日本仏教会にも所属していないため 伝統仏教教団とは言えません
「 日本仏教会」ではなく、「全日本仏教会」です。略称「全仏」です。まず、全仏へは「所属」ではなく、「加盟」です。所属と加盟とではまったく別の概念です。
そして全仏に加盟していると「伝統仏教教団」で、加盟していないと「伝統仏教教団とは言えません」は、完全に矛盾しています。本門仏立宗、孝道教団、念法真教、妙見宗などの新興宗教が全仏に加盟しているからです。
日蓮正宗、日蓮本宗、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗山元派、真宗三門徒派などのように、「伝統仏教教団」であっても、全仏に加盟していない宗派はたくさん存在します。
③釈迦を中心としていませんので仏教ではありません
釈尊を中心としていなければ佛教ではない、との根拠が不明です。釈尊を中心としない佛教宗派の方が、我が国には多いです。
華厳宗は蓮華蔵世界の教主である毘盧遮那佛を中心とします。
天台宗は東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来を中心とします。
真言宗は真言密教の教主である大日如来を中心とします。
浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念佛宗は西方浄土の教主である阿弥陀如来を中心とします。
故に、釈尊を中心としていなければ佛教ではない、とは言えないのです。経典上の釈迦牟尼佛(釈尊)と印度応誕のゴータマ・シッダルタの違いなども、この批判者は理解できないと思います。
この批判者は、釈尊を中心としている日蓮系教団の関係者であろうと思います。全仏に加盟していなければ伝統仏教教団ではない、釈尊を中心にしていなければ佛教ではない、そう判を押したようなレッテル貼りを言うのは、全仏に加盟し、しかも釈尊を中心とする教団だからです。
真言宗は大日如来を中心とするばかりではなく、空海本仏論があります。真言宗で唱える「南無大師遍照金剛」とは、弘法大師に帰命します、という意味だからです。大日如来に対して、「大日如来に帰命します」ではなく、「弘法大師に帰命します」と唱えているのは、この批判者の見識に従えば、真言宗は佛教ではなく、〝空海教〟になってしまいます。
どの佛(如来)様を中心とするかは、依経とその解釈によって、また機や時や国土、縁起によって異なるわけです。ゆえに釈尊を中心としなければ、「仏教ではありません」とは言えないのです。批判者の浅識では、釈尊が過去世で儒童梵士(儒童菩薩)であったとき、燃燈佛に会われて能仁如来の未来記別を授けられ、更に法華経如来壽量品第十六で「是の中間に於て、我燃燈佛等と説き、又複、其れ涅槃に入ると言ひき」(開結四三一頁)は理解でないでしょう。
何しろ、釈尊が過去世に儒童梵士であったときに未来記別を授けられたのが燃燈佛であるということは、授けた燃燈佛と授けられた儒童梵士(未来世の釈尊)は別人であることを示すのに、壽量品では「中間に於て、我燃燈佛等と説」かれているのですからね。
くだけた言い方をすれば、卒業証書を授与する校長先生と受けられる卒業生は明らかに別人ですが、壽量品では「校長先生も実は自分なんだ」と卒業生が明かすのですからね。
しかし、どの佛様を中心とするかは、依経とその解釈によって、また機や時や国土、縁起によって異なることを知っていれば、何ら矛盾がないと受け入れられるのです。宗祖本佛論もまたまた斯くの如し。