「自分力の底力に気づけ」弘兼憲史著より。

つまり、その価値をとりあえず肯定し、そういう力を大切にしていこう、と筆者は提案している。

“自分にしかない自分が持っている価値”、なんていうと理屈っぽい人はそんな価値はないとか、価値のあるなしは他人が決めることではないか、というかもしれない。

まあ、それはともかくとして人はそれぞれある程度短所と同時に長所もあるはず。長く生きているほど、それはなんとなく自覚しているのではないだろうか。

筆者はまた、あるがままの自分でともかく生きてみる、そういう力を「自分力」だと表現している。いくら強がりをいったところで、弱いものはしかたない。そのままの姿で生きていけばいいのだ。

平凡であっても「存在感のある男」を目指すのもいいかもしれない。成功とか勝利といった目標とは無縁のまたは別次元の生き方もあってよさそうだ・・・な。そんな人は、単に結果だけで一喜一憂するよりその過程を楽しめるかもしれない・・・
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「志賀直哉はなぜ名文か」山口翼著より。

これはフレーズというより、書名そのままだ。私が若いころ志賀直哉は「小説の神様」と言われていた。もしかしたら、今でも学校ではそう教えているかもしれない。

でも、それはなぜだろうとは思わなかった。昔からみんなからそういわれるからそうなのだ、ということで納得してきた。この本のサブタイトルには“あじわいたい美しい日本語”とあった。

だからこそ、この本のタイトルを見たときに気になってしまい、すぐに買ってしまったのだ。筆者は長年にわたって多くの作家の全集を、片っ端から読んで名文を集めて研究してきている。

そして、整理して『文章のコツ・志賀直哉ほか』と題してまとめて原稿を編集部へ渡したのだ。ところが、編集部は「志賀直哉ほか」の「ほか」をとって志賀直哉一本で書いて欲しいといってきたのだ。

つまり、専門家からみても、直哉に比べると他の文章は見劣りがしたのだ。やはり、だれも「読んで光る文章」、「巧みな表現」、「推敲をこらした文章」に自然に目がいくのだろう。

私も学生時代、国語の授業で習った『清兵衛と瓢箪』が気に入って、全文を原稿用紙に写し取ったことを思い出した。もう一度、機会があったら志賀直哉をじっくりと読んでみたくなってきた・・・な。
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「日経新聞夕刊」2006.5.29付けより。

“サイト東西南北”というコーナーにあった記事より。現在はさらに増えていることだろう。900万人から1000万人かも知れない。

しかし、これはあくまで登録してある数字であって、とうてい生きた数字だとは思えない。というのも、誰でもほんの15分もあれば登録できてしまえるし、3日坊主でもそのままのものも多いと思われるからだ。

私はブログをはじめてから12ヶ月目になるが、昨年コメント欄で交流があった人のところを訪問しても既に更新されてないものも多いことに気づく。1000万人の登録があったとしても、実際継続しているのはその十分の一程度かそれ以下ではないだろうか。

ブログの登録だけなら誰にでも容易にできるものの、一年以上にわたって週に5日以上書き続けることはそう容易なことでもないだろう。総務省のいうようにただ登録しただけならどんどん増えていくには違いない。実際は9割がユーレイ会員かもしれない。

つまり、本当の数字は一年、二年と継続している人がどれほどいるのかの方ではないだろうか。そんなところがちょっと気になる・・・
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「閑のある生き方」中野孝次著より。

中野氏は物が過剰にある状態が人間に幸福をもたらすわけでもないと述べている。さらに、筆者の友人である加島祥造氏の本「伊那谷の老子」からの引用をしていた。その部分は詩の形になっていて分かりやすい。

土をこねてひとつの器をつくる。
中がくりぬかれて、うつろになっている。
うつろな部分があってはじめて
器は役に立つ。
中までつまっていたら、なんの使い道もない。

部屋も食器棚も同じこと。家具や物、食器などで詰まっていたら使いづらい。自宅の部屋もそうなりつつあることに気づいた。無用なものでどんどん部屋が狭くなってしまっている。そのうちと思っているがなかなか整理もできないでいる。

床に積んでしまった本や雑誌は動かすのが億劫になってしまう。そのため掃除もしづらい状態のままだ。やはり何ごともほどほどでなければいけないと痛感している次第。

人の生き方も同様で、将来のためにあくせく働いても現時点が充実しているとは限らない。もっと自分らしく生きるためには生活をある程度単純化することも必要そうだ・・・な。それはいったいいつになることやら。


でも、シンプルライフから生れる何かがきっとあるはず・・・(そう信じたいもの)

「朝日新聞朝刊」2006.5.24付けより。

アスパラ写真俳句塾の第一回投稿特集があった。そのなかで作家の森村誠一氏が応募作品の総評を書いていた。その最後にあった氏の俳句が上記のもの。つまり、従来の季語を入れる文字だけの俳句より簡単だということだろう。

写真俳句とは一枚の写真と五七五の17文字を組み合わせて一句にまとめたものだ。ここには優秀作品10点が掲載されていたが、私が気になったのは次のものだった。

「飽食に行き場失う残り柿」
添付された写真には柿の木の枝先に数個の熟した柿がみえる。その上には雪が積もっている。背景は快晴の空。京都府の男性(64)の作品だった。わずか17文字の中にいろいろと幅広い世界を想像させてくれる。

これを目にした際になぜか、自宅の庭にまだ残っているキンカンの実を二階の窓から眺めてしまった。冬の間に熟したキンカンを取るタイミングを失ってしまった。とくに必要性も感じなかったからかもしれない。その前年まではキンカン酒や蜜煮を作ったりしていたのに・・・

近づいてみると、そのキンカンの枝先にはもう白い花が咲き始めている。そんなところにも季節の移り変わりを感じてしまう。確かに近所でも大きい柿の木があるが、その実はほとんどとられずにただ鳥の餌になるか熟しきって落ちるだけのようだ。

蛇足ながら、森村誠一氏の写真俳句については今年の1月5日の日記 でも触れていたことを思い出した。
「pronto pront!」2006.vol.02(5月26日発行)より。

たまたま昼食後喫茶店のプロントに入ったら、このチェーン店のフリーペーパーがあった。その特集は“みんなの仕事道具”だった。そのはじめのページにあったフレーズ。

これを読んでいたら、つい先日の巨人ー日本ハム戦をテレビ観戦していた時の新庄選手(ファイターズ)のこだわりについて思い出した。彼はプロ野球に入ってからずっと同じグローブを使っているという。

もちろん守備は一流であることは確かだ。彼の商売道具ともいわれるグローブはほかの人には絶対触れさせないという。試合がホームグラウンドで連戦のときでも、ロッカーに置いては帰らないようだ。一見派手なパフォーマンスばかりに目がいってしまうためか、それは意外なことでもあった。

打者では松井選手やイチロー選手もバットにはこだわりを持っていることはよく知られている。スポーツ選手以外でも持つ道具にこだわっている人は多いだろう。落語家なら扇子や手拭い、ミュージシャンなら楽器、釣り人なら竿、ビジネスマンなら手帳・・・数え上げたら切りがない。

またたとえどんな一流品の道具を持っていようとも、それを自在に使いこなせなければプロとはほど遠い。自分に最もふさわしい道具は長年の経験によって選ばれ、作られていくものだろうか。

私が仕事や日常で使っているちょっとこだわりの相棒は・・・せいぜいゲル状インキのボールペンくらいかな。
「R25」2006.5.25号より。

このフレーズの表現は自分にとっても比較的しっくりくるように思えた。パソコンに向かっている時間のほうがノートを開いている時間より圧倒的に多い。しかし、聞きかじり、見かけたもの、思いつきや切抜きをまるで吹き溜まりのように集めておけるのはノートのほうかもしれない。

そんなものから仕事のアイデアや遊びや日常生活のヒントが得られたりする。私もかなり前からノートは使っている。しかし日付はあるものの別に日記ではないので思いついたときに不定期に書いている程度だ。

何のためかは自分でもよく分からないが、継続している。ある意味クセともいえそうだ。新聞、雑誌などの切り抜きが乱雑に張ってあるページもある。読んだ本の抜粋もある。また、思いついたことのイメージも描いてある。それらはしばしばホームページのネタにもなっている。

春先には今年はどんなクリスマスカードを作ろうかなんていうイメージが描いてある。まだ夏前なのにふと、そんなことを頭のなかで浮かべたりしている。そして、便箋のレイアウトなども描いたページもある。

それらは、どれもこれも中途半端な形でしか書いてない。たまたまその時思い浮かんだことだけを頭の中から取り出しているだけにすぎない。だから、私の場合アイデア発想の原点は遊びながらで、いつも100%アナログのノートかも・・・
「モノ・マガジン」2006.5.16付けより。

自分だけにあったオリジナル仕様のものはオーダーということになるだろうか。たとえば、家などもほとんどオーダーに近いものだろう。身近なものでは持っているものに名入れをするだけでも自分だけのものになる。

ホームページを作れば自分だけのオリジナルのものとなる。またブログをカスタマイズしてオリジナルのデザインを楽しんでいる人もいる。洋服、靴、アクセサリー自分にぴったりのものはそれなりに気持ちがいいものだ。

私が以前からこだわっているのは、意外にも便箋(とくに一筆箋)だった。な~んだこんなもの、と思う人が多いかもしれない。10年ほど前は文房具店で既製品を買って使っていたのだが、そのうち自分の気に入ったデザインのものが欲しくなってきた。

しかし、探してみても見つからないので、結局自分で作ることにしたのだ。パソコンで遊んでいるうちに、作ること自体が面白いことに気づいたのだ。つまりハマってしまったのだ。絵柄や写真、デザイン、紙質などに凝ってしまった。自然と完全なオレ仕様が出来上がる。

今でも仕事で重宝している。パソコンには数百種類のデザインをファイルしてある。そのうち自分で使うばかりではなく、人にも粗品としてプレゼントするようになってしまった。

自己満足もその枠を飛び出せたら、人に分けてあげることもできそう。それもまた快感・・・かも。
「日経新聞夕刊」2006.5.23付けより。

これはプロムナードというコーナーで作家の熊谷達也氏がいっているフレーズ。この後には「本当にいやな世の中になってしまったものですなあ・・・。」と続いていた。

取材に出かけていない時の小説家の日常は、ほとんど引きこもりと一緒ならしい。だから、当然のように運動不足になってしまう。そこで、その解消のためと健康維持のために散歩をするのだが、それがお気楽で簡単そうにみえて実はそうでもないらしい。

その理由は、散歩に出かける夕方は小学校低学年の子どもたちの下校時刻と重なってしまうという。すると、その時間に散歩しているのは熟年の夫婦とか犬を散歩させている主婦が多いのだ。年配の男性がひとりで歩いていると何故か怪しくみえてしまう。

子どもやその親たちだけでなく、筆者の姿を発見すると巡回中のパトカーまでが速度を落としてしばらくあとをつけてくるという。この調子だと、そのうち職務質問されるだろうと思っているようだ。それも話しのタネとなるかも、と半ばやけくそ気味で歩いているという。

確かに、最近は物騒な事件も各地で発生しているため、男の一人歩きはそれだけで怪しい目で見られやすい。私もたまに気分転換に散歩に出かけるが、ワイフからはくれぐれも怪しい人に思われないようにしてくれと言われている。これも情けないこと・・・だな。
「延長戦に入りました」奥田英朗著より。

もちろん、これは半分以上冗談だろう。この本自体がお笑いでできているからだ。でも、ある意味そうかもしれないとも思えたりもする。

スポーツをやれば、たいていどこかを痛めるものだ。たとえば、オリックスの清原選手は強打者でもあるが同時にデッドボールもよく受けていることでも有名だ。しかも、先月は死球を受けた後で相手投手を威嚇する発言が物議をかもし出した。

しかし、相手投手からすれば、あれだけのズウタイをしているのだからインコースに投げたボールが当たる確率が高いのは当然かもしれない。よけ方がマズいんじゃないかとも思っているのではないだろうか。一流選手はケガにも強いんじゃなかったかな。

数年前のこと、私は筋力をつけたくなって思いつきで鉄アレイを買っってみた。ところが数日後には寝室のベッドの上に置いておいたら、それが転がり落ちて足首のくるぶしあたりを痛めてしまったのだ。それでも、そのときの痛みは大したことはなかった。

しかし、数日後からじわじわと痛みを感じ鉄アレイを手にすることさえ億劫になってしまったのだ。それはケガというほどのこともなくいつしか治ってしまった。

一度中断するともうやる気が起こらない。それ以来寝室の片隅でずっとホコリが積もっている。運動のし過ぎて故障したならまだしも、単なる自分の不注意だった・・・情けない。

関係ないが、先月それまで活躍していたヤンキースの松井選手が試合中骨折して登録抹消されて以来、メジャーリーグへの関心が半減してしまったな。