僕が音楽に興味を持ち始めたのは中学校の時代でした。それまでは音楽は嫌いでした。
小学校の音楽の授業が嫌でたまりませんでした。楽譜を読んで、規則どおりに音を鳴らすことに嫌悪感を抱きました。
「君はなにをやってもだめだから・・・大太鼓でもたたいてなさい!」
そんなことを小学校の音楽の先生から言われていやいや太鼓をただいていた僕がいました。太鼓も上手く叩く意欲がないから・・リズムがずれるんです。すると・・
「あなたは・・何をやってもだめね!・・・もういいわ!そこに座ってらっしゃい。」
僕にとって音楽の時間は苦痛の時間だったのです。
その音楽がコペルニクス的転換思考で好きになったのはやっぱり楽しい経験ちゅうのか、『自分が生きていると感じる喜びの体験』があったからだと思います。
音楽への思い入れは父の影響がすごくありました。
父は小学校低学年担当の教師をしていました。父は音楽の専門教育を正式に受けたこともないのに誰も指導する人がいないということで自分からすすんで音楽をするようになりました。
当時は足踏みオルガンを弾いて子どもたちを教えてましたね。当時はピアノなんて高価な楽器は由緒ある小学校しかなかったんだろうと思います。
また、当時は教師のお泊まり制度みたのがあって僕はよく父といっしょに父の通う学校の宿直室に泊まったものでした。
ある日の朝のことです。まだ、太陽があがったところくらいだったかな・・寝ぼけまなこで・・宿直室から起きだした僕は体育館から太鼓の音がするのを耳にしました。
「あの音はね・・あなたのお父さん、吉田先生が子どもたちに楽器を教えてはるねんで。
観てき!」
用務員のおじさんが笑顔でそういって僕を体育館まで連れていってくれました。
僕はそこで・・初めて颯爽とした父の指導風景を観たのです。
ひとりひとりの子どもたちに太鼓の叩き方を何度も言いきかせるように教える父・・・
「さあ!合奏するぞ!」
父のかけ声で七つの太鼓の響きが体育館に轟きました。
・・おとうさん・・・かっこええな!・・・
そんな父への憧れみたいな感情が生まれた瞬間がその時でした。
父はアコーディオンを自分で買って子守歌代わりに弾きながら、幼い息子の僕を寝かせてくれたりしました。父はいろいろな歌を歌うのが好きでした。そんな優しい父の凛々しい姿、そんな父が・・みんなにあんなに大きな声で太鼓を教えているのが少し凄いなって思えました。
その日の夜のことだったでしょうか?用務員のおじさんが僕たち親子にお風呂を沸かしてくれました。そして、僕はその用務員のおじさんとお風呂に入ってこんな話をこっそり僕にしてくれたのをつい昨日のように覚えています。
「お父さんがね・・この学校に来たときは・・まだね・・オルガンなんか弾けなくて・・
そしたら・・お父さん、どうしたと思う?・・・家にはオルガンなんてないからねえ・・毎朝、六時頃になると音楽室からね・・きこえてくるんだよね・・お父さんの練習しているオルガンの音・・・お父さんは毎日毎日、そう・・あの頃は『故郷』という曲をね・・何度も、何度も、出来るまで弾いてはったなあ!ときどき・・僕がお茶を持っていくんだけれど・・それにも手をつけず・・ずっとずっと練習してはった。お父さんは努力をする方ですよ!」
おじさんは僕の背中を流してくれながら・・そんな話をしてくれたのです。
今になってわかったのですが・・父のオルガン奏法は独学でC調しか演奏出来なかったのです。全て白鍵で演奏することしか知らなかったんですよね。転調するという技術を知ることはなかったし、教えてくれる人もいなかったみたいです。当時、父の学校では音楽を教える先生がいなくて、父はそんななか、自分が一番苦手なことに挑戦していったのだと思います。けっして歌も上手くはなかったけど・・父のあくなき情熱が鼓笛隊を指導するまでになったのだと思います。
父は口癖のようにいつも言ってました。
「まず、ひとまねでもいいから・・やってみること!やってみて出来ないことでも・・諦めず・・練習すること!それを乗り越えたら楽しくなるから・・正信!頑張れ!」
こんな父のまじめな一面と・・もう一つ、僕に大きく影響を与えたこと!それは父は新しい機械が大好きだったのです。ラジオ・テレビ・洗濯機・・・いろいろな電化製品で新しいものが出たら即買ってきました。
一番、僕にとって鮮烈だったのは・・家にステレオレコードプレーヤーが届いた時のことでした。
父は得意げに「これは・・ステレオちゅーて・・音楽のレコード盤を鳴らす機械やぞ!すごいぞ!・・絶対、触ったらいけないぞ!このステレオの針はダイヤモンドで出来ていて・・子どもが触ったら壊れてしまう!わかったな!」
そんなことを言われると余計に触りたくなるのが人の常!
僕は、こっそり・・・みんなが寝静まった夜中に足音を立てずに・・応接間に行きました。
そして、恐る恐る扉をあけて・・ステレオのスイッチを入れました。そして次にレコード盤を置くのですが・・父が一番大切にしていた『ベンチャーズ』のレコードを指紋をつけないように置きます。そして・・次に大事なのは・・スピーカーから鳴らしたら・・大変なことになるから・・父愛用のヘッドホーンを耳に当てて、ジャックを差し込んだのです。
そして、レコード針のついたアームをゆっくり正確に・・レコード盤の第1曲目の前の溝に置く・・これがハラハラ・・ドキドキ、父や母が起きてこないかを十分確認しながら・・僕はレコード盤の回る溝にアームを置きました。
すると・・・素晴らしい!!じゃーん・・・エレキギターのサウンドが頭のまわりでメリーゴーランドのように回って回って・・・大音量の音宇宙は僕をとりこにしました。
僕はギターのかわりにひもをくくったほうきを肩にさげて、音楽にあわせてほうきを弾くのでありました。特にテケテケテケテケ・・・・のところは大袈裟に弾くのです。
僕はこの頃から・・そう小学校2年生くらいかな?・・エレキギターが弾けるようにいつかはなるんだっていう夢を追っていました。
この魔法のような父のステレオのおかげで僕は寝るのも忘れてほうきを毎日弾いていたのです。
ステレオプレーヤーにはレコードを鳴らす装置との他に、ラジオが聴ける機能がついていました。
例のごとく、僕は夜中に足音こっそり応接間に行き、ステレオのスイッチを入れレコードを置いたのですが・・・いつもと違ってプレーヤーのパネルに写っている「AM RADIO」と青緑に光っているスイッチが気になってしかたなくなりました。
「家族のみんなが寝静まった夜中の12時なんてラジオなんか・・やってないよな・・」
そんな思いを持って、僕はAMラジオのスイッチ入れた。するとホワイト・ノイズのような「ザーーーー」という音が聴こえてきました。
「やっぱり・・放送なんか・・やってないよな!」
その時です! 僕の耳元で・・
「こら!こんな夜中になにをしてるんじゃ?!!」
「あ!お父さん!・・・ごめんなさい!」
僕はびっくりしました。僕の父は僕がこっそりステレオを触っていることをうすうす知っていたのでしょうか? でも・・凄い剣幕で怒るのではなく・・・僕にこんなことを話してくれました。
「正信!こんな夜中やから・・ラジオはやってないと思うやろ?それが違うんや・・・
これ・・聴いてみい!」
父は嬉しそうに・・本当に嬉しそうにラジオのチュ-ナーのツマミを回しました。
すると・・びっくり!夜中に音楽が聴こえてくるではありませんか?
それも・・外国の曲が流れてきました。
「あまり・・大きい音だしたらみんな起きるから・・小さくするぞ・・この放送はな・・
深夜放送といってこんな夜中にも音楽の放送をやってるんや・・父さんもな・・時々聴いてることがあるんや、イギリスやアメリカのヒットチャートといって今、流行っている曲を流してくれる番組があるんや!・・・お母さんには・・内緒やぞ!」
お父さんは僕を叱ろうともせず、本当に楽しそうに小さなひそひそ声で・・ヘッドフォンを改めて耳につけて、放送を聴き、僕にもヘッドフォンで聴かせてくれました。
「凄いなあ!お父さん!こんな夜中になんで・・また・・放送してはるんやろ?」
「そやなあ!夜中まで勉強してはる学生さんやトラックの運転手さんなんかにむけて
放送してはるんや!リクエストといって電話を放送局にかけて自分の好きな曲をかけてもらう人もいるくらいやで!時々、お父さんも・・・聴いていたんや!」
本当に楽しそうに話す父の笑顔・・そしてヘッドフォンから聴こえてくる海を越えた音楽は世界がこんなに近くに・・我が家に来たみたいな・・・僕は音楽の世界がパーッっと広がった気がしました。
父は言いました。
「毎日、夜中の放送はだめや!やっぱり明日学校いかんならんやろ?だから土曜日の夜やったら・・聴いてもええよ!」
当時は・・土曜日はまだ半日登校だったので、土曜日の夜が唯一の僕の深夜音楽放送の楽しめる日に父は決めてくれました。
それから・・というもの、私は日本というよりも外国のポップスといわれる音楽のとりこになっていきました。
時代は僕が14歳!1970年代の終わり頃から1971年、ちょうどビートルズが『LET IT BE 』をリリースして解散する頃、フランス出身のダニエル・ビダルという可愛い女の子がフランス語で歌っていた『AIME CEUX QUI T'AIMENT - 天使の落書き』、アンディー・ウイリアムスとオズモンド・ブラザーズが歌っていた『グッドモーニング・スターシャイン』、ショッキング・ブルーという女性ボーカルのグループが歌う『悲しき鉄道員』・・・これらの曲が僕の頭の中をぐるぐる回っていつも鳴っていました。
そして、僕はお小遣いを貯めてEPレコードを買いにレコードショップに行きました。
レコード店のおばさんは僕のような子どもが外国の音楽のレコードコーナーにいって、いろいろな曲を探している姿を不思議にみていましたが・・何度も何度も店に寄っていくので、いつのまにかこんなことを話してくれる親しいおばちゃんになっていました。
「君が待っているクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの曲は明日発売やで!
今日はないよ!待ち遠しいけど・・待っててね!」
「ありがとう!おばちゃん!必ず買いにくるわ!」
たしか、当時はEPレコードは2曲しか入っていないのですが、500円から600円くらいしました。当時、中学生にはこの金額はちょっとした高額なものだったと思います。
僕はこんな青春時代を送ってきました。僕にとって音楽はピアノのレッスンや何かの練習から入ったものではなく・・外国のポップス・・それも深夜放送に首ったけになって、楽好きになっていったのです。だから50歳を越えた今でも「音楽は・・こっそり・・ひそひそ・・ひとりで・・おもいっきり・・楽しむためにあるもの」という概念がこだわりとしてあるのだと思います。
こうして僕は音楽が大好きになり、中学校の部活動でトランペットの虜になり、吹奏楽部に入って楽譜を読んで楽器が吹けるようになりました。そして、高校はなぜか、野球部・・・大学はトランペットを頑張って音楽大学に入学しました。そして、30年も
音楽科の教師をしたのです。
人間って面白いです。あんなに嫌だった音楽の教師を天職にしていった僕のこだわり人生があったのです。そしてそれを支えてくださる方が存在したんですよね!