しょうやん先生の自分流特別支援教育論&学級雑記

しょうやん先生の自分流特別支援教育論&学級雑記

発達障害の教師の私の独創的な特別支援教育の在り方と担任している特別支援学級の日々のエピソードを綴ります。熱いコメント待ってます!

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 僕の授業は・・僕の音楽的な個人的趣向の世界の延長線上にあるといってよいと思います。要するにかなり自分勝手な世界を子ども達に披瀝しているのだと思います。指導要領や教育課程については研修もして準じて授業をしているのですが・・やっぱり僕の世界は僕の世界で誰が何を言ったって変えられないこだわりの世界があります。今までそんな世界を授業として、子ども達は受け入れてくれてきたのだと感謝しています。
3年間付き合った子ども達の僕へのメッセージです。

S男子「先生にはありがとうというしかない!なぜか・・それはぼくら3年の気持ちを解ってくれていて、いつも授業の合間にいろいろなジャンルの歌、JPOPなんかも鳴らしてくれた。ぼくらはほんま癒されました。でも、ほとんど先生の趣味の世界!誰かはそれがあかんと思うかもしれないけど・・僕は先生の好きな音楽の世界がいっぱい解ってよかった。僕も自分の好きな音楽の世界を持つようになったのは先生のおかげです」

S女子「先生の授業を初めて受けたときは・・この人はほんまに先生?ぜんぜん教えてないやん!と思いました。ほとんど自分の好きなことや自分の学生時代の思い出話をしたり、なんや、この人は?と思っていました。でも、不思議です。先生の一週間に一度のこの授業が待ちどおしくなりました。そして、授業の内容より今、覚えているのは・・先生のあほな話!そして熱のこもった歌の指導!」

S男子「僕が一番先生のことを心に刻んだのは・・・合唱コンクールの練習の時、熱くなって、涙を流しながら怒ってくださったことです。僕は生まれて初めて、怒られて心がじーーんと感動しました。あのとき、男子のほとんどがふざけていてひとつも声をださなかった!先生は「こんな授業は絶対面白くない!僕が一番嫌な授業や!なんで大好きな君らとこんな授業をせないかんのや!!」と訴えてくださいました。その日の言葉までちゃんと覚えています。そして僕たちは本気で歌い出すようになりました。先生のあの日の一言が僕を、僕らを変えてくれました。今はすごいよい思い出です。合唱コンクール本番で、観客席の後ろでこっそり指揮をしてくれている先生を・・僕は・・しっかりりとみました!忘れません。」

S女子「先生の授業は私の人生のなかに経験すること、やってみることの大切さを教えてくれました。先生は三味線、尺八、ギター・・いろんな楽器を楽しく弾いてくださった。選択の音楽の授業でもほんまに丁寧にギターの弾き方を教えてくれて私はすこし、いや、ほんまに音楽が好きになりました。私は小学校の頃からどちらかというと何をするのでもまず頭で考えてこれは無理だからやめようとか・・ああいう世界は自分にはないと勝手に決めつけて生きてきました。先生に出会ってその考えが少し、変わったみたいです。今はいろいろなことにチャレンジしようという人になろうとしています。先生はいつも授業の時に教科書じゃなく、自分の経験や体験で学んだこと、失敗したこと、嬉しかったこと、悲しかったことを聞かせてくださいました。だから私は・・人は行動してから考えていけばよいという新しい考えを持ったみたいです。本当に三年間、ありがとうございました。」

S男子「先生の授業!ユニークというしかない!僕は先生みたいに自分の言いたいことをずばっと言える人間になりたい!どっちかというと・・控えめに生きてきたから・・先生は優しいのに・・けっこうずばっと生きてる!そこが印象に残った!ありがとう!」

 かなり、無理をして書いてくれている子ども達もいるかもしれんけど・・僕は自分の授業をしているなんておもいはひとつもなくて、この子ども達と楽しい時間を共にすごしていきたいとだけ、思って教師をしてきました。僕はほんまに人の心が読めない、その場の空気が読めない人間なんやけど・・その分だけ子どもらにどうしたら受け入れてもらえるのか・・自分なりに考える・工夫する・行動することはできました。僕らの障害って障害として後ろ向きに考えないで・・僕らやからできる楽しい発想をいつまでも大事にしたいと考えているんです。

 
 
 僕の授業・・必ずといってよいほど脱線するんですよね!
 
「えーと!今日の2年3組の授業は?・・そうだそうだ・・『心の中にきらめいて』という歌を紹介して、いかに効率良く音取りするのか・・考えないと・・」

 というような計画を立てるんですよね。でも、クラスの状況によって授業は目標どおりいはいかないことがあるんですよね。いや、ほとんどといっていいほど計画どおりに進んでいかないのが・・この僕の授業なんですよね。僕のようなタイプの人間は計画どおりに物事を進めることが、なんか面白くなくて・・1時間のなかでかなり脱線してしまって「やばい!あと5分しかないぞ!」というような・・・とんでもない授業があったりするんでよね。横で誰か観ていてくれたり、いろいろなたくさんの先生方が後ろで見学されている研究授業なんかではきちんとメニューどおりやるのですが・・普段の授業では脱線してしまうことがよくあります。それを「これはいけない!」なんて思わず、面白いなって思うんです。
こんな感じで・・・  
キーンコーンカーンコーン・・・チャイムがなりました。
 男子生徒達がドバーッとやって来て・・音楽室の中で追いかけっこするんですよね。
それもピアノのそばを通って走て、机と椅子は転がってしまいました。そして、ついに
二人の生徒が転んでしまいました!
T「こらーーー!!何してるねん! ここは音楽室やぞ?・・もし、ピアノの角にでも頭が当たったりしたら・・大変なことになるのや!!」
S「こいつが・・悪いねん!」
T「何いってるの?授業のベルが鳴ってるやん!早く座って!1週間に1回しかない授業なんやから・・大切にしてや?」
S「すいません!」 
そう言って二人は席について・・みんなで校歌を歌うとこまでは順調に授業が進んだのですが・・・その後、僕がこんなことを言ってしまいました。
「さっきの二人の追いかけっこ!昔、テレビならこんなBGMが流れてくる!」
そう言って、おもむろにジャック・オッフェンバック作曲のオペラ『天国と地獄』の
CDをかけました。
チャンチャンチャンチャン・チャチャチャチャチャチャチャ-ン

S「せんせ!この音楽僕知ってる!!」
 おもむろにその演奏に指揮の真似事をする私・・ちょっと乗りすぎですが・・
みんなの顔が生き生きしてきます。
T「音楽っておもしろいなあ!・・・そうかと思えば・・もし、君らが今度の中間テスト・・全部の教科で0点やったとする!」
S「そんなんやったら・・・おかんに携帯とめられるわ!せんせ!恐ろしい話せんといて!」と女子生徒の声!!
T「そんな時は・・もう・・しかたがない悲しみに浸るのよ!!」
そう言いながら私は今度・・ベートーヴェン作曲《ピアノ・ソナタ》第14番 嬰ハ短調『月光』を自らの下手くそなピアノ演奏で冒頭のアルペジオの部分を涙を流しているような演技をして弾いていくのでした。
T「みんな!解るか?ベートーヴェンは悲しいんや!何で悲しいか・・解る者手をあげて!」
S「そら・・失恋やで!」
S「ピアノを買う金がなかった?」
S「作曲してもヒットしなかった?」
T「なんで・・君らは発想が貧弱なの?・・そんなん決まってるやん?誰か・・解らんかなあ・・ベートーベンゆうたら??」
S「耳が聞こえなかったから?」
T「よくぞ!言ってくれた!正解! この曲を創った頃にはもう耳が完全に聞こえなかったんや!・・そんな寂しさ・・それがこんな切ない・・悲しい曲になったんや!」
また・・・私はポロリンポロリンと弾きました。
そして・・ここで終わって本題に入ったらよかったのに・・また私は脱線していきました。
T「こんな切ないメロディーを創るベートーベンとは対象的に天真爛漫に音楽をいとも簡単に湧き出てくるように創った天才がいる!誰やしてるか???」
S「しらん!」
 僕はおもむろにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのセレナード第13番『アイネクライネナハトムジーク』を鳴らすのでした。今度は本物の指揮棒を出してスピーカーに指揮をしながら・・・生徒達はあきれかえっています。(ああ!いつもの・・おっさん先生の癖やもんな!つきあおう・・うんざりやけど・・)

~チャン・チャチャン・チャ・チャチャチャチャチャ---ン
チャン・チャチャン・チャ・チャチャチャチャチャ---ン~
すべての音が止まるまで・・僕はひとりで曲に酔いしれていました。
T「なんて・・素晴らしい音楽なんや!そう思わんか?モーツアルトは天才や!」
そこで、生真面目な女子生徒の毅然とした声がしました。
S「先生!いつまで・・こんなことやってはるんですか?今日の予定は合唱曲『心の中にきらめいて』の音取りをしていただけるのではないのですか?」
はっ!!っとして・・・
僕は言いました。「そうでした!ごめんなさい!つい脱線してしまいました。君達が追いかけっこしてるから・・こうなったのよ?」
S「せんせ!そんな言い訳はよしてください!」僕はたじたじ・・・
T「そうですよね!僕が悪い!本当にごめんなさい!」 

 いつもいつもこんな授業はしてないのですが・・吉田流脱線授業!
生真面目な女子生徒の自分の感想プリントにはこうありました。

「せんせは悪乗りすると・・いつも脱線してるんです。でも・・脱線してる時でも、音楽の話をちゃんとしてくれるのは不思議・・そして、結構それを覚えている私がいます。これも不思議!!」
 僕はこんな生徒達に支えられていつも生きているのだと思います。
 アスペルガー症候群の人は言葉のキャッチボールは苦手やし、何人かの話の話題のなかに入るなんてことは脅威の曲芸的な世界として絶対苦手なんですが、こんな感じで教師と生徒という風に『話す・教える=聞く・習う』という関係性がきちんとしていれば、コミュニケーションは成り立ちます。但し、かなり僕の独善的な世界を子どもたちが良い価値として受け入れてくれているから成り立つ世界なんだと常々感謝しています。

 
 僕が音楽に興味を持ち始めたのは中学校の時代でした。それまでは音楽は嫌いでした。
小学校の音楽の授業が嫌でたまりませんでした。楽譜を読んで、規則どおりに音を鳴らすことに嫌悪感を抱きました。

「君はなにをやってもだめだから・・・大太鼓でもたたいてなさい!」

そんなことを小学校の音楽の先生から言われていやいや太鼓をただいていた僕がいました。太鼓も上手く叩く意欲がないから・・リズムがずれるんです。すると・・

「あなたは・・何をやってもだめね!・・・もういいわ!そこに座ってらっしゃい。」

 僕にとって音楽の時間は苦痛の時間だったのです。

 その音楽がコペルニクス的転換思考で好きになったのはやっぱり楽しい経験ちゅうのか、『自分が生きていると感じる喜びの体験』があったからだと思います。

 音楽への思い入れは父の影響がすごくありました。

 父は小学校低学年担当の教師をしていました。父は音楽の専門教育を正式に受けたこともないのに誰も指導する人がいないということで自分からすすんで音楽をするようになりました。
 当時は足踏みオルガンを弾いて子どもたちを教えてましたね。当時はピアノなんて高価な楽器は由緒ある小学校しかなかったんだろうと思います。
また、当時は教師のお泊まり制度みたのがあって僕はよく父といっしょに父の通う学校の宿直室に泊まったものでした。

 ある日の朝のことです。まだ、太陽があがったところくらいだったかな・・寝ぼけまなこで・・宿直室から起きだした僕は体育館から太鼓の音がするのを耳にしました。

「あの音はね・・あなたのお父さん、吉田先生が子どもたちに楽器を教えてはるねんで。
観てき!」

 用務員のおじさんが笑顔でそういって僕を体育館まで連れていってくれました。

 僕はそこで・・初めて颯爽とした父の指導風景を観たのです。
 ひとりひとりの子どもたちに太鼓の叩き方を何度も言いきかせるように教える父・・・

 「さあ!合奏するぞ!」

 父のかけ声で七つの太鼓の響きが体育館に轟きました。
・・おとうさん・・・かっこええな!・・・
 そんな父への憧れみたいな感情が生まれた瞬間がその時でした。
 父はアコーディオンを自分で買って子守歌代わりに弾きながら、幼い息子の僕を寝かせてくれたりしました。父はいろいろな歌を歌うのが好きでした。そんな優しい父の凛々しい姿、そんな父が・・みんなにあんなに大きな声で太鼓を教えているのが少し凄いなって思えました。
 その日の夜のことだったでしょうか?用務員のおじさんが僕たち親子にお風呂を沸かしてくれました。そして、僕はその用務員のおじさんとお風呂に入ってこんな話をこっそり僕にしてくれたのをつい昨日のように覚えています。

「お父さんがね・・この学校に来たときは・・まだね・・オルガンなんか弾けなくて・・
そしたら・・お父さん、どうしたと思う?・・・家にはオルガンなんてないからねえ・・毎朝、六時頃になると音楽室からね・・きこえてくるんだよね・・お父さんの練習しているオルガンの音・・・お父さんは毎日毎日、そう・・あの頃は『故郷』という曲をね・・何度も、何度も、出来るまで弾いてはったなあ!ときどき・・僕がお茶を持っていくんだけれど・・それにも手をつけず・・ずっとずっと練習してはった。お父さんは努力をする方ですよ!」

 おじさんは僕の背中を流してくれながら・・そんな話をしてくれたのです。

今になってわかったのですが・・父のオルガン奏法は独学でC調しか演奏出来なかったのです。全て白鍵で演奏することしか知らなかったんですよね。転調するという技術を知ることはなかったし、教えてくれる人もいなかったみたいです。当時、父の学校では音楽を教える先生がいなくて、父はそんななか、自分が一番苦手なことに挑戦していったのだと思います。けっして歌も上手くはなかったけど・・父のあくなき情熱が鼓笛隊を指導するまでになったのだと思います。

 父は口癖のようにいつも言ってました。

「まず、ひとまねでもいいから・・やってみること!やってみて出来ないことでも・・諦めず・・練習すること!それを乗り越えたら楽しくなるから・・正信!頑張れ!」
 
 こんな父のまじめな一面と・・もう一つ、僕に大きく影響を与えたこと!それは父は新しい機械が大好きだったのです。ラジオ・テレビ・洗濯機・・・いろいろな電化製品で新しいものが出たら即買ってきました。

 一番、僕にとって鮮烈だったのは・・家にステレオレコードプレーヤーが届いた時のことでした。

父は得意げに「これは・・ステレオちゅーて・・音楽のレコード盤を鳴らす機械やぞ!すごいぞ!・・絶対、触ったらいけないぞ!このステレオの針はダイヤモンドで出来ていて・・子どもが触ったら壊れてしまう!わかったな!」

 そんなことを言われると余計に触りたくなるのが人の常!

僕は、こっそり・・・みんなが寝静まった夜中に足音を立てずに・・応接間に行きました。
そして、恐る恐る扉をあけて・・ステレオのスイッチを入れました。そして次にレコード盤を置くのですが・・父が一番大切にしていた『ベンチャーズ』のレコードを指紋をつけないように置きます。そして・・次に大事なのは・・スピーカーから鳴らしたら・・大変なことになるから・・父愛用のヘッドホーンを耳に当てて、ジャックを差し込んだのです。
そして、レコード針のついたアームをゆっくり正確に・・レコード盤の第1曲目の前の溝に置く・・これがハラハラ・・ドキドキ、父や母が起きてこないかを十分確認しながら・・僕はレコード盤の回る溝にアームを置きました。
すると・・・素晴らしい!!じゃーん・・・エレキギターのサウンドが頭のまわりでメリーゴーランドのように回って回って・・・大音量の音宇宙は僕をとりこにしました。
僕はギターのかわりにひもをくくったほうきを肩にさげて、音楽にあわせてほうきを弾くのでありました。特にテケテケテケテケ・・・・のところは大袈裟に弾くのです。
 僕はこの頃から・・そう小学校2年生くらいかな?・・エレキギターが弾けるようにいつかはなるんだっていう夢を追っていました。
 
 この魔法のような父のステレオのおかげで僕は寝るのも忘れてほうきを毎日弾いていたのです。
 ステレオプレーヤーにはレコードを鳴らす装置との他に、ラジオが聴ける機能がついていました。
例のごとく、僕は夜中に足音こっそり応接間に行き、ステレオのスイッチを入れレコードを置いたのですが・・・いつもと違ってプレーヤーのパネルに写っている「AM RADIO」と青緑に光っているスイッチが気になってしかたなくなりました。

「家族のみんなが寝静まった夜中の12時なんてラジオなんか・・やってないよな・・」
 
 そんな思いを持って、僕はAMラジオのスイッチ入れた。するとホワイト・ノイズのような「ザーーーー」という音が聴こえてきました。

「やっぱり・・放送なんか・・やってないよな!」

 その時です! 僕の耳元で・・
「こら!こんな夜中になにをしてるんじゃ?!!」

「あ!お父さん!・・・ごめんなさい!」

僕はびっくりしました。僕の父は僕がこっそりステレオを触っていることをうすうす知っていたのでしょうか? でも・・凄い剣幕で怒るのではなく・・・僕にこんなことを話してくれました。

「正信!こんな夜中やから・・ラジオはやってないと思うやろ?それが違うんや・・・
これ・・聴いてみい!」

父は嬉しそうに・・本当に嬉しそうにラジオのチュ-ナーのツマミを回しました。
すると・・びっくり!夜中に音楽が聴こえてくるではありませんか?
それも・・外国の曲が流れてきました。

「あまり・・大きい音だしたらみんな起きるから・・小さくするぞ・・この放送はな・・
深夜放送といってこんな夜中にも音楽の放送をやってるんや・・父さんもな・・時々聴いてることがあるんや、イギリスやアメリカのヒットチャートといって今、流行っている曲を流してくれる番組があるんや!・・・お母さんには・・内緒やぞ!」

お父さんは僕を叱ろうともせず、本当に楽しそうに小さなひそひそ声で・・ヘッドフォンを改めて耳につけて、放送を聴き、僕にもヘッドフォンで聴かせてくれました。

「凄いなあ!お父さん!こんな夜中になんで・・また・・放送してはるんやろ?」

「そやなあ!夜中まで勉強してはる学生さんやトラックの運転手さんなんかにむけて
放送してはるんや!リクエストといって電話を放送局にかけて自分の好きな曲をかけてもらう人もいるくらいやで!時々、お父さんも・・・聴いていたんや!」

 本当に楽しそうに話す父の笑顔・・そしてヘッドフォンから聴こえてくる海を越えた音楽は世界がこんなに近くに・・我が家に来たみたいな・・・僕は音楽の世界がパーッっと広がった気がしました。

 父は言いました。

「毎日、夜中の放送はだめや!やっぱり明日学校いかんならんやろ?だから土曜日の夜やったら・・聴いてもええよ!」

 当時は・・土曜日はまだ半日登校だったので、土曜日の夜が唯一の僕の深夜音楽放送の楽しめる日に父は決めてくれました。
 
 それから・・というもの、私は日本というよりも外国のポップスといわれる音楽のとりこになっていきました。

 時代は僕が14歳!1970年代の終わり頃から1971年、ちょうどビートルズが『LET IT BE 』をリリースして解散する頃、フランス出身のダニエル・ビダルという可愛い女の子がフランス語で歌っていた『AIME CEUX QUI T'AIMENT - 天使の落書き』、アンディー・ウイリアムスとオズモンド・ブラザーズが歌っていた『グッドモーニング・スターシャイン』、ショッキング・ブルーという女性ボーカルのグループが歌う『悲しき鉄道員』・・・これらの曲が僕の頭の中をぐるぐる回っていつも鳴っていました。

そして、僕はお小遣いを貯めてEPレコードを買いにレコードショップに行きました。
レコード店のおばさんは僕のような子どもが外国の音楽のレコードコーナーにいって、いろいろな曲を探している姿を不思議にみていましたが・・何度も何度も店に寄っていくので、いつのまにかこんなことを話してくれる親しいおばちゃんになっていました。

「君が待っているクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの曲は明日発売やで!
今日はないよ!待ち遠しいけど・・待っててね!」 

「ありがとう!おばちゃん!必ず買いにくるわ!」

たしか、当時はEPレコードは2曲しか入っていないのですが、500円から600円くらいしました。当時、中学生にはこの金額はちょっとした高額なものだったと思います。

 僕はこんな青春時代を送ってきました。僕にとって音楽はピアノのレッスンや何かの練習から入ったものではなく・・外国のポップス・・それも深夜放送に首ったけになって、楽好きになっていったのです。だから50歳を越えた今でも「音楽は・・こっそり・・ひそひそ・・ひとりで・・おもいっきり・・楽しむためにあるもの」という概念がこだわりとしてあるのだと思います。
 こうして僕は音楽が大好きになり、中学校の部活動でトランペットの虜になり、吹奏楽部に入って楽譜を読んで楽器が吹けるようになりました。そして、高校はなぜか、野球部・・・大学はトランペットを頑張って音楽大学に入学しました。そして、30年も
音楽科の教師をしたのです。
 人間って面白いです。あんなに嫌だった音楽の教師を天職にしていった僕のこだわり人生があったのです。そしてそれを支えてくださる方が存在したんですよね!
 

 私は最近、教師をさせてもらって生きているということに大きな意味があり、大きな役目があるのだと改めて深く感じさせてもらえるようになりました。

 それは今、教師という仕事が一番難しくて、生き辛い時代だと痛感するからです。
 
 教師は子どもたちに未来を明るく語り、生きることの素晴らしさを自然に伝える時代がありました。子どもたちもそんな教師の言葉を信じ、未来の夢に向かっていきいきと学校で育っていました。
 そしてこんな言葉が生きていました。

「団結する」「我慢する」「耐える」「頑張る」「根気」「一生懸命」「勇気」・・

 今まではそんな言葉を教師は好んで子どもたちに伝えてきました。そして、こんな言葉が心に響く時代でもありました。

 しかし、もう今ではこんな言葉は通用しません。通用しないどころか、『生きる』とはいったいどういうことなのか、学校のなかで子どもたちに人間としてどうこの世を生き抜くのかという重要な課題を共に考え合うことが本当に難しくなった時代の到来を肌で感じています。それは学校という『光の喪失』であり『教育や教師が尊敬されなくなった時代』の到来を意味します。
 
 しかし、こんな学校になってしまったからこそ逆に、よく見えてくるものがあります。それは学校という枠に今までは当てはまらなかった価値観というのか・・ そういった新しい時代の価値をいかに学校が有効に教育の活動に活かせていくのか、これからこそ教師の力量が問われていく時代が来たといえます。
 それは教師そのものの旧態依然の教育哲学や授業の価値そのものの大きな転換を意味します。
 つまり、教師が自分の持っている常識という観念を自分から取り壊し、もう一度、
「子ども達を教え育てることとは何なんか?」
という原点に戻って前向きにこの現状を捉え直していくことからの再出発の時代がきたのです。
 私は若い頃は血気盛んで勇猛果敢な熱血教師で左のものも右と言えと子ども達に強制するくらいの煽動的な教師だったと反省しています。
 それが、晩年の今では学校が「子どもたちの心が癒される居場所に生まれ変わらなければならない!」と思うようになってきたのです。
 それは・・・
「みんなが違っていて、それでもみんな認めれる学校」
「一生懸命やらなくても、自分のやれる範囲で自分が納得して生きていける学校」
「じっと耐える必要がなく、何でも悩みが聞いてもらえる人がいる学校」
「一見、奇異な行動や発想とみえることでも心から捉え直して受け入れてくれる学校」
「頑張らなくてもよく・・時にはゆっくりできるスペースのある学校」
「物事が続かなくても・・先生に叱られず、なんどでも失敗しながら認めてもらえる学校」・・・等
 
 こんな新しい学校像を描くようになった自分が今、生きています。

 どうして私がこんな学校を求めるようになったのかというと、それは私の教師としての立場が他の普通の教師とは全く違うからだと思っています。
 
 それは自閉スペクトラム障害であるアスペルガー症候群でその生き辛さやこだわりと向き合いながら今日を生き抜く自分として光にしていくことが変わってきました。
 
 私は50歳頃まで自分が発達障害・自閉スペクトラム障害であることがわからなかったのです。それまでは自分の生き辛さが何に起因するのか、解らなかったのです。
 
 ある研修の帰りのひととき、知り合いの療法心理士の先生がこう言いました。

 「あなたは確実にアスペルガー症候群の圏内のひとですよ!」

 たぶんそうなんだろうなって・・今となっては思っていましたが、断定的に専門家の先生に言われてみてはじめて少しショックを受けました。
しかし、それよりも、「やっぱり、そうだったんだ!」と思う気持ちの方が強くありました。それと今日まで僕の人生が上手く生きて来れたことの不思議さを大いに感じました。よく振り返ってみると、実は僕を影ながら支えてくれた周りの人々に恵まれたという事実が浮かび上がってきました。
 僕はあまり人の言うことを聞かず、ゴーイングマイウエイ、本当に強引に自分のやりたいように生きてきたと言える人生だったとおもいます。
でも、その僕の行動やその結果で残された残務処理をきっと誰かが何も言わずにしていてくださったのだということをこの時、改めて痛感しました。


「自分は軽度発達障害のアスペルガー症候群なんだ!」

 そうわかった頃はまだまだ、自閉スペクトラム障害や軽度発達障害、広汎性発達障害
といった概念は医学的な範疇にありましたが・・今のように発達障害の書籍や特別支援教育といった概念が生まれはじめてまもない頃だったのです。

「アスペルガー症候群は言語や知能の発達している軽度発達障害なんです!」
先生はそうおっしゃいました。
 私は自分を知るために、書籍を買いあさり、読んで読んで・・読みまくりました。また、インターネットで検索も始めて療育関係のサイトはすべてといってよいほど検索しました。
                                           
 発達障害と解って一応の障害理解はできたのですが、自閉症であることを自分として受け入れることからのスタートは本当に『0からの出発』でした。
 
 自分の少年時代や思春期の時代・・そう、学校の時期にどのようなことがあったのか、思い出してみました。
  いわゆる、私の競争心というのか、スポーツにおける闘争心はこの子には縁遠いものだったのだと今さらながら思い出しますし、人を押しのけて自分が有利になるということも出来ない子でした。
 いろいろなお遊戯なんかの出し物も周りを気にしながら、自分も参加しているというのでなく、周りの仲間がしてるから、僕もしなければならないという周りのまねをなんとかうまくしている僕がいました。
 そのほか、物事へのこだわりはなかったように思うし、素直に遊ぶのが好きな子でした。特に一人遊びは好きでした。気のあった優しい友人と川の中に島を作って遊ぶのが好きでした。うちの庭が広かったから、その庭いっぱいに川を掘って、そこへ水を流すのも好きだった。水遊びは本当に好きでした。
 後述しますが、自分しか思いつかない独創的な世界を持つくとが何より好きな子どもだったと思います。
 特に図工の版画や粘土細工はいろいろな賞をもらった記憶があります。
 
「物事にこだわって生きることは良いことだ!」

 こう教えてくださった中学校の美術の先生に絶大の尊敬の念を抱くようになりました。不器用なのだけれど、こだわって物事に没頭する。人とのコミュニケーションのまずさを持ちながらも誰かの助けをかりて生きている僕がいました。
   
 僕のような障害の人々にとって学校の集団規範や私的な集団の価値は周知徹底して人権的な感覚を養いながら、環境整備が進み、きちんとした枠組みのなかで僕らにわかるような支援がないと本当にわからなかったのだと思います。
 
 私は今、自分の障害をわかってきて中学校の教師をしている自分のあり方について、本当に人間としてひとりひとりが本当に大切にされる学校が再生されることを願わずにはいられなくなりました。また、私は特別支援教育の到来を「来たるべくして、きた本当に人を、子どもたちを大切に見守り、寄り添いながら生きる教育」なのだと思うようになりましたし、そういう願いを心から持ったのです。
 また特別支援教育とは人権侵害を確固たる信念で許さず、みんなの子どもたちが安心して学校で暮らしていける「心癒される居場所」としての学校づくりを物心両面から進めていくことなのだと確信してやみません。
 発達障害・アスペルガー症候群の子どもたちの生き方は正直で、物事について言われたとおりダイレクトに受け取り、実行していくという特性があります。また、こういった子どもたちは学校での成功感、成就感、達成感を待ち望んでいるのだと思いますし、
 学校はこうした生き辛さを持った子どもたちを本当に幸せにする場所に生まれ変わらなければならないと痛感しました。
 つまり、特別な支援とはこの子たちのような障害という特性を持った子どもたちの生き甲斐づくりの場であり、それは最終的に学校に通うみんなのための幸せづくりに繋がるものだと確信します。

 実は僕が校内研究主任をした2005年は、4月より発達障害者支援法が施行された年で、うちの学校でも2007年4月より完全に実施されることになった特別支援教育という新しい障害児教育が試行的に実施され、本校にも『特別支援コーディネーター』という新しいポストの教師が誕生しました。
 その先生のある日の話はこうでした。

 「いったい・・何から始めたらよいのでしょうね?先生!・・障害児学級を持った私が特別支援コーディネーターをするのが本当によいのかしら?そして特別支援教育って本当にできるの?このままじゃ大変だと思います。」

 この先生の言われるように学校にやってきた新しい障害児教育は今までの『障害児学級と普通学級』という考え方を根本から考え直さなければならないものとして私たちの教育活動の日常化の中に位置づけられていました。

 通常、こんな時、普通の校内研究主任は「解らない課題には手を出さないでおこう。」とされるのが普通だろうと思うのですが、僕の場合は少し違いました。
 これは何年も後にわかったことですが、僕自身が自閉スペクトラム障害のアスペルガー症候群であったためか、特異な分野の教育には非常に興味深く研究熱心になって没頭していくタイプでした。
僕は新しいこの特別支援教育を受け身的に捉えるのでなく、学校が生まれ変わる原動力にならないものかとポジティブに、前向きに教育改革や授業改善として考えるようにして生きていこうとしました。
 いろいろ不安もあるだろうけど、どうせやるのなら、ダイナミックに展開したいというのが僕の持論でした。そうでないと教師のモチベーションというのか、やる気みたいな力が子どもの生活に大いに影響するようになるのを痛感しているからです。教育活動ってやっぱり、教師が受け身的で「しょうがないから・・やらなければならないからする。」なんて考えでいれば子どももそうなります。こちら側が熱を持って、やる気でどんどんチャレンジしていけば、少々失敗があっても願いは叶うし、子どものために良い影響が残るということを疑わなかったのです。
 私はこの時、校内研究主任にならせていただいたのも何かのご縁で、きっと神様か仏様が何かこの役目をすることで私自身に観えてくるものがあると教えてくださっているのだと勝手に良いふうに考えていきました。
 
 もうひとつ、私がこの「特別支援教育」という新しい教育に思い入れを持たせてもらえたのは、自分の人生に真正面から向き合って生きていこうとする僕自身の姿があったからだと思います。 
 私は20年以上にもなる親子のあり方や家族関係を思い返しました。以前は家庭や学校で発達障害という概念ありませんでした。つまり「特別な支援はなかった!」といえますし、障害のある人々が心の居場所としての教育活動を考えるような教育観は皆無でした。
 だから今、私自身が自分のことを分かることで、学習について本気で叫び声として支援・援助を求めておられる親御さんや当事者の子どもたちに対して、やっと学校が立ち上がる時が来たのだと思いました。やっと本当の支援が始まった気がしました。
 それはやっといろいろな障害の子どもたちの真実を親と教師が手を握って解り合い、認め合い、支援する時代が到来したという絶好のチャンスがきたのだと考えます。

 だから、私は校内研究で「特別な支援を必要とする生徒における学習活動の工夫」という提案を先生方にさせていただき、それが決定され初めの第一歩が踏めたことは大きな成果でした。