春雨リミット episode1 | ショート・ショート・ストーリィ

春雨リミット episode1

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 すっかり空になったロッカーを確認して、扉を閉める。この所作に感慨などない。そもそも浸るほど大切にしたい思い出もないから。

「秋月さーん、終わったあ?」

 呼びかけに応じながら隣を見遣れば、本田さんが鏡を覗き込んで睫毛の角度作りにこだわっていた。これから行われる飲み会に男子が参加することもないので、いつもに比べてメイク直しも簡素である。

「うん。いつでも行ける」
「そ。じゃあ行きますか。秋月さんは飲み放だからねー」
「あざーす」

 私の返事をきっかけに、瀬戸さんと黒井さんがバッグを手にした。このメンツで呑むことも、もしかしたら最後になるかもしれない。



「おつでーす!」

 よっつのグラスがカツンとぶつかり合う。重量感のある泡がグラスの端からつうと一筋零れたので、私は慌てて口づけた。
 そこかしこから聞こえてくる女子の声。いずれのグループも若年層で、男子のみで構成されたテーブルなど見当たらない。
 それもそのはず。この店は料理が美味しいだけではなく、皿や盛り付けも一風変わっていて女子の心をがっちりと掴んでいるのだ。
 そんな女子の城にて、私は送別会を開いてもらっている。

「秋月さん、勤めてどのくらいだっけ」
「……7ヵ月? いや8ヵ月? 大体そのくらいかな」

 本田さんの問いかけに料理をよそいながら答えると、しばらくの間ができた。横目で彼女を窺えば、こちらを見つめている気配がする。
 なに?と問う前に、口は開かれた。

「……うちの会社、入れ替わり激しいもんねー」
「そうだね」

 時間をかけて紡いだわりには、大した内容ではない。加えて、淡白な科白とは裏腹に非常に粘度の高い視線。まるで、とろとろに溶けた甘ったるいキャラメルのようである。そして私はこの眼差しをよく知っている。本田さんが色恋沙汰に意識を奪われている時の眼だ。
 俯瞰から獲物を狙う猛禽然とした本田さんに悪寒を覚えつつ、私はグラスビールを呷る。
 その時、彼女の視線の凄味が一層増した。

「秋月さん、寿退社でしょ」
「ぶはっ!」

 あまりにもトンデモな発言に含んでいたビールを噴いてしまった。げほげほとむせながら、粘つく視線の理由はこれか!とひとり納得する。

「こと、ぶき……?」
「そーよ。男なんて興味ないですう~みたいな雰囲気だしときながら、イケメンをさらっとモノにしているあたり、あざといよね!」
「なにそれ、私のモノマネ?」

 おしぼりで口のまわりを拭いつつそう言うけれど、笑いのひとつも起こらない。不安に駆られて、それとなく辺りを見渡した。瀬戸さんと黒井さんが箸を止め、こちらをじっと注視している。なんとなく、気まずい空気。私は再びビールを手に取り、呷った。この店の料理に不満はないけれど、ビールがジョッキではなく、お洒落なグラスなのが残念だ。お陰でもう空になってしまったじゃないか。

「どーせ今回仕事をやめたのも男絡みでしょ! 花嫁修行とか言ったら、マジで承知しない」
「え、今時そんな殊勝なことするひといるの?」
「じゃあテレアポ辞めてなにすんのよ! 結婚でしょ! 言わせないでよっ!」
「だから違うっつうに。前に言ったじゃないの。アロマテラピーの資格を取るためにスクールに通うって。ねえ、もう一杯、頼んでいい?」
「好きにすれば。それより、はあ、何? 彼氏との間に結婚の話は上がらなかったわけ? だっていくらスクールだかお稽古だかに通うったって、秋月さんは仕事辞めるのよ? 女が結婚適齢期で仕事を辞める。普通の男ならその意味を勘ぐって、引いたり覚悟を決めたりするもんでしょ!」
「……仕事辞めるけど、他のところで働くよ?」

 次のアルコールも当然ビール。そう心に決めていたので、メニューを開くことなくフロアスタッフを呼び止めた。目の端で本田さんたちが口を開きかけた姿が映ったけれど、訪れたスタッフが若い男子だったため、まるで蓋をするかのように般若フェイスがしまわれる。道明寺も真っ青な、見事な変身ぶりであった。

「正直スクール代も馬鹿にならなくって。生活費稼ぐために夜、働くことにしたの」

 スタッフが傍を去ってすぐに、そう答えた。そんな私の科白をきっかけに、黙して男の背を追っていた3人の視線がこちらに帰ってくる。ミーアキャットさながらだった。

「え? マジ?」
「秋月さん、キャバするの?」

 黒井さんと瀬戸さんの声が重なる。誤解が雪だるま式に膨れ上がってしまう前に、私はパタパタと手を振って彼女たちを否定した。

「違う。でも飲み屋。知り合いのツテでキッチンに入ることになって。つまみとか作るの」
「……それって彼氏的にはオッケーなの?」
「お互いの知人のツテだから」

 新たに追加されたビールに口づけて、甘美な琥珀色を味わう。瞬間、テーブルを包んでいた緊張感は一気に消えた。代わりに、同情に似た安堵の溜息がそこここから洩れる。

「秋月さんの彼、小金持ちかと思ったけど――」
「そうそう。秋月さんはフリーターを返上して、華麗なセレブに昇格と思いきや。なんだなんだ、依然私たちと同等か」
「イケメンだけど甲斐性のない彼氏とラブラブ。いーんじゃない? 大いに結構。許す許す」

 3人揃って言いたいことを言いたいだけ口にすると、各々料理と向き合い、舌鼓を打った。どうやら彼女たちは、私の生活水準が上がると邪推していたらしい。それらしい科白など一度たりとて口にしたことはないと言うのに。もしも彼氏が広田と知られたら、恋愛脳な彼女たちは再び激昂し、大いに私をこき下ろすだろう。
 げに恐ろしきは女のコミュニティ。
 私は黙って取り皿によそった料理を食む。

「はーい、じゃあ秋月さんの新しい門出の祝いはこれまで! 以降、今後の合コンの打ち合わせをしたいと思いまーす」
「えっ。もう送別会終了!? 早っ」
「うるさい。あんたはそこそこの稼ぎの男と幸せしてるんだからいいじゃないのっ。私はいまひとり身なのっ。幸せが枯渇してんのよっ!」

 そう力説されるものの、私の送別会はまだ開始して30分も経っていない。始終別れを惜しめなどとは思わないけれど、大人として、せめてもう少しこの宴相応の芝居を続けて欲しかった。
 そんな私の白い目も何のその。いまや本田さんはアルコールのメニューを開き、2杯目の検討に入っている。いつもよりもずいぶんとピッチが速い。
 そういえば彼女は最近彼氏と別れたばかりだ。
 そのことを思い出すと、送別会の名目を引き下げられたことにも納得できた。《失恋につける良薬は新しい男を見つけること》などと豪語する彼女にとって、次の合コンは遊びの《あ》の字もない、真剣勝負そのものなのだろう。

「秋月さーん、冴木さんってフリーなんでしょ?」
「冴木?」

 メニューを閉じながら投げかけられた言葉に、思わずオウム返しをしてしまう。本田さんは近くを通りかかった女性スタッフにスクリュードライバーを頼むと、片肘ついて私を覗き込んできた。同時に、瀬戸さんと黒井さんが箸を止めて前のめりになる。
 そういえば、いつかの合コンで全員が全員冴木悠に心を打ち抜かれていた。確かに彼は恰好いいけれど、残念ながら頭はところてん構造である。新しい情報が入れば古い記憶は押し出され、どこかに消えてしまうのだ。そんな事実を知らない彼女たちは、いまだ恋の炎を燃やし続けているらしい。
 ははん。冴木も罪な男よ。

「ほら、以前言ってたじゃない。冴木さんは秋月さんの友達狙いだって。その後どうなったの」
「あー、あれねー……」

 瀬戸さんと黒井さんが私と本田さんの顔を交互に見つめている。合コンでは冴木に興味を示していなかった本田さんが、なぜに密な情報を仕入れているのかと訝しんでいるのだろう。

「冴木くんはねえ、友達に恋人ができて、あえなく玉砕」
「マジ? 完全フリーじゃん」
「ちょ、ちょっと本田さん! 何々? どういうこと?」
「本田さんはあれから冴木さんと繋がりがあるの?」

 瀬戸さんと黒井さんが慌てて話に割って入ってくる。本田さんは素知らぬ顔で「別にぃ」などと言うので、我がテーブルはますます穏やかさを欠いていく。
 せっかく送別会ということでタダ酒にありついているのだ。揉め事は排して、愉しく美味しく酒を飲みたい。そんな打算が働いて、私は慌てて口を挟んだ。

「先に言っておくけどね? 冴木狙いでも無理よ? 彼はいま仕事が忙しいみたいで――」
「それなら私が癒してあげる。オトナの男が悦ぶコトはひとつだけど、私にかかればその手法は豊富だもの」

 そう言いながら、瀬戸さんが鎖骨から胸のあたりを意味ありげに撫でた。彼女の武器はその大きな胸だ。視覚に訴える強烈なセ ックスアピールに、これまで一体何人の男が理性を剥奪されたことだろう。

「だめだめ。冴木さんって一見ワイルドだけど結構博学よ? 即物的なものより、イマジネーションで絡み合う方が絶対好みだと思うわ」

 今度は黒井さんが真夜中の遊戯を濃密に語り始める。確かに彼女は言葉における飴と鞭の使い分けが絶妙だ。そしてそれは床の中でも発揮されるらしく、男子の脳も快楽で侵すほどのテクニックをお持ちらしい。

「……いや、だからね? 冴木は今、女の子を構う余裕もなくって。当分は仕事に集中したいとのことです」

 この科白は嘘ではない。桃への恋が破れ、今は気持ちが激しく上下するような付き合い方を避けている。案外真面目な奴なので、一晩限りの恋人も欲していないようだ。
 それに何より、冴木の隣に本田さんたちが納まっている絵を想像できなかった。

「秋月さん感じ悪い」
「そーよ。イケメンの友人を女に取られるのが嫌なんでしょ?」
「秋月さんには彼氏がいるんだし? おとなしく男友達を差し出す義務があるわけよ」
「ぎ、義務って……」

 思わず口籠ってしまったのは、少なからず彼女たちの弁に心当たりがあったからだ。
 友人として居心地のいい冴木。私の快不快で彼の交友関係に制限を設けるのは傲慢な気がした。

 だがしかし。それとこれとは話が別!
 冷静に考えれば、獰猛な3体の肉食動物に友人を差し出すことを躊躇って当然だろう!

「とにかく、本人にその気がないのに、無理やり女の子紹介できないって」
「会えば気持ちも変わるわよ。男の理性なんて卵の皮並に薄いんだから!」

 酒を挟んでの攻防中だったが、黒井さんの吐いた秀逸な比喩に一瞬口もとが緩んでしまった。すると3人はここぞとばかりに畳みかけてくる。

「秋月さんはもしかして今の彼氏は繋ぎで、本当は冴木さんを狙ってんじゃないの?」
「馬鹿なこと言わないでよっ。いくら何でも言っていいことと悪いことがあるっ!」
「そうかなあ。冴木さんほどのイケメンはなかなかいないもの。秋月さんが狙っていても不思議じゃないけど?」
「てか、そもそも彼氏とやらは本当に恰好いいのかね。あくまで弟がイケメンだったって話でしょ?」
「あー、あのヤルだけヤッちゃった年下イケメンかあ」
「違うっ!」
「あー、やっぱ彼氏はそんなに恰好よくないんだあ……」
「そっちの《違う》じゃなく、弟とは何の関係もなくって!」

 慌てて否定すればするほど、3人の女狐は不敵な笑みを浮かべながら邪推に邪推を重ねていく。

「彼氏の顔も見せない。職場も明かさない。挙句の果てには隣に住んでいながら、同棲もしないときた。もー、これってさあ、秋月さんが縁を切る準備をしているって思われても仕方ないんじゃない?」
「それは経済格差があるから、同棲なんかしたら済し崩し的に頼り切ってしまうって……!」

 それに四六時中顔を合わせるようになれば、私のズボラな私生活が詳らかになって、きっと広田を幻滅させてしまう。ただでさえ給与の面で強い劣等感を抱いているというのに、これ以上彼の関心を欠くようなことはしたくない。
 ばくばくと心臓が自己主張を始めている。動悸が激しいのはアルコールのせいだけではないだろう。むっつの瞳に晒されて、私はうっすらと汗をかいた。理性のタガが緩み、焦りのあまり、素直な言葉が漏れてしまう。

「……あいつ、私に対して、子どもの頃に抱いた憧れを引きずってるだけかもしれないから、下手に同棲なんてして興味を失くすような真似、したくないの。それでなくても歴然とした容姿の差に劣等感を抱いてるのに……。そのうえ妙にマメで、気なんか遣われたら、私はもう……。あいつはそれとなく愛情めいたものを注いでくれるけど、それに見合うものを返してあげられない。私がしてあげられることなんて、精々ご飯を作ってあげることくらいだもん。それも文句言いながらも、いつも綺麗に平らげてさ――」

 そこまで言った時、辺りが妙に静かなことに気付き、顔を上げた。瞬間、全員が全員私から視線を逸らして皿に箸をつける。あまりにも露骨なシャットアウトに言葉ひとつ紡げないでいると、本田さんが極めて面倒くさそうに言った。

「お悩み相談にかこつけてノロケ話しないでくれる? 酒のつまみにもなりゃしない」
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