人形作家 (講談社現代新書)/講談社
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四谷シモンさんのそごう美術館での作品展「SIMONDOLL」のことを書こうと思ったが、作品のみならずシモンさん自身の凄みを伝えたくて著書「人形作家」をベースに私の個人的な想い出なども絡めて紹介する。

1.嵐山光三郎さんによる序文(抜粋)
 
 それ(状況劇場の役者としてのシモン)を見たときの衝撃はいまなお忘れがたい。「月よりの使者」とばかり思っていたシモンは、三枚の巨大まつ毛をつけ、極彩色の化粧をほどこし、女郎の着物をだらしなく着て、下駄をはいて舞台をガッタンゴツトンと暴れまわり、客を挑発凌辱した。耳たぶごと発情して深紅の蒸気をあげるのだった。「由比正雪」という芝居では、シモンは低い声で「家が貧しかったからアー」と歌いながら、前列にいる何人かの女性客をつきとばすのであった。飯つぶを噛みながら歌い、女性ファンにブハーツとひっかけた。自分に熱狂するファンを見ると発作的にそうしてしまう気質であった。ぎっしり満員の観客席を見渡せば、溢澤龍彦、矢川澄子、寺山修司、土方巽、山下洋輔、檀一雄、横尾忠則、瀧口修造、加藤郁乎、松山俊太郎、吉岡実、種村季弘、金井美恵子、合田佐和子、大島渚、金子國義、高橋陸郎、あとまだ凄いのがゴロゴロいて「シモンちゃーん」の大歓声が渦巻いた。かくして六○年代後半の虚実皮膜の浮世に花ひらく極彩色の女形となった。・・・・・それは愛玩物としての人形の常識を超え、女郎偏愛患者が、ひと知れず犯された玩具を作っているとしか思えなかった。ひとつ間違えばエログロの醜悪なる肉塊となる裸体が、見る者を甘美なる毘へ引きずりこんだ。これは、少年時代から人形を作ってきたシモンの技術がずばぬけていたためであるのだが、そんなことはあとから知ったことだ。シモンにとって、人形を作る行為と、女装芸人をつとめることは、相対的な自己への被虐行為であったはずで、紅テントで狂い咲きのバラードを演じるのは、自己の肉体を犯された玩具に転化させる治療であり、犯された玩具を作ることは、人形のなかに壊れていく自己を見出そうという加虐であったろう。・・・・・・。無料ヒゲをはやし、指先が絵の具で汚れ、肘のあたりにホコリがたまり、朴柄で、おだやかな日をした老練の人形作り師がいる。うつむいて、自己の内面を見る視線に山会ったとき、私はピノッキオを作った大工のジェペットじいさんを思い出した。なんとやさしい瞳なのだろうか。人間の躯から不純なものをすべてとり去った殉教者としてのシモンがそこにいるのだった。シモンは青春の暴風圏をつきぬけて、もうひとつの凶器に変貌しつつめる。無言の静謐の奥の伏し目がちの呼吸は、さらなる基風圏へ突入し、一秒一秒の時間が崩れていく。このー冊は、四谷シモンの、青春の暴風圏の記録であり、昭和という溶けかけていく時代へのエレジーでもあるのだ。人形を作る行為は、自分の内奥へ下りていくはてしない作業であるのだろう。

青年時代、状況劇場時代の狂気のような女形、少女の裸体のスキャンダラスな人形作家、そしてジェペットじいさんのような後年のシモンさん、四谷シモンさんの作品のみならずシモンさんの時代や取り巻く人々を知りたくなるでしょ。

[1章 人生がはじまっちゃった]
小さいときの僕は、いつもひとりだったという記憶があります。・・・・・母の都多世は、父より三歳下。創作ダンスの先駆者である石井漠門下のダンサーで、戦後は浅草百万弗劇場の舞台に出演し、自分でストリップもしていました。立川や横須賀の基地の進駐軍に踊り子のあっせんをして、ギャラの上前をはねるようなこともしていたようです。黒人兵に追いかけられて、道ばたの風呂桶にかくれて命からがら逃げてきたこともたびたびだったそうです。両親は、「女を知っている男」と「男を知っている女」の結婚でした。
そしてお母さんは9歳のときに家をでて愛人のもとに。母が恋しかったシモン兄弟は愛妾となった母の家に行き一緒に暮らすようになるが、その母の浮気が原因で愛人の旦那からシモン少年の人生にとって決定的な仕打ちを受ける。
ある日、僕が野原で遊んでいると笠井さんがやってきて、「おかあちゃんはどこだ」と訊かれました。僕が「知らないよ」と答えると、笠井さんはいきなり頭をひっぱたきました。決まった時間に必ずいると思っていたのに、何度きても留守であることの不満のはけ口に、僕にあたったのです。笠井さんにボカーンと殴られた僕は、野原に跳ね飛ばされました。豚足のような太い腕にふっとばされて、膝小僧にうっすらと血がにじみました。夕暮れのなか、川向こうに深川東映の青いネオンが見えました。涙はでませんでした。必死でこらえたのでした。青い光を睨みつけながら、「今にみてろ」と腹の底からわきあがる怒りを感じていました。このとき僕は、笠井さんという個人を超えて、社会とか世間とかいうもの全体に対して「今にみてろ」と感じたのです。殴られた痛みよりも自尊心を傷つけられた精神的な痛みでした。こいつに一撃くらわせなければ、という復讐心が心に深く刻まれました。と同時に、もうなにがあっても大丈夫だ、これをバネにしてやるという決意もありました。この一件は、母には言いませんでした。言いつけてやろうとも思いませんでした。そのとき僕は笠井さんを超えた世間に対して 「今にみてろ」と誓ったのです。

[2章 問題児の青春]
北区立王子中学に入学すると、僕はますます勉強をしなくなりました。中学に入っても友人ができなかった僕の思い出は、人形一色です。・・・・・人形作家・川崎プッぺさんのアトリエを訪ねたのは中学二年のことでした。プツぺさんのアトリエで見せていただいた人形は、写真で憧れていた大きなフランス人形で、実物を見ることができた興奮で陶然となりました。原宿へ帰ればふたたび貧しいアパート暮らしでしたが、そのころの僕は経済的な困窮はまったく気にもとめず、共同の台所で一生懸命人形作りに没頭していました。・・・・・中学三年になると、進路の問題がでてきました。外苑中学の学区は、名門の日比谷高校や新宿高校に進学する人も多く、進学組はこつこつと勉強していました。
しかしシモンさんは進学も就職もせず、人形制作を続けながらもアルバイトしながらぶらぶらする生活。

[3章 新宿に漕ぎ出す]
夜の仕事を始めたら、昼間なにもすることがなくなってしまいました。それで、店の近くの新宿ACBに出入りするようになりました。当時はロカビリーの全盛時で、アシベでは連日生バンドが演奏していました。山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキー・カーチスなど、当時は東京中に生バンドが出演するところがいっぱいあったのです。新宿アシベのほかには、渋谷のマリンバ、テネシーなどにも通いました。・・・・遊ぶ時間もたっぷりありました。渋谷のバーで知り合ったマサオと連れ立って街に出かけることもよくありました。あるとき、マサオと一緒にいったジャズ喫茶で、ネコこと金子國義、昌ちゃんこと団子坂のてんぷら屋の息子の五十嵐昌、早大を中退して新宿の夜曲というバーに勤めていたタヌ子こと中村裕兆らと友だちになり、毎日のように合っては遊
ぶようになりました。また金子國義を通じてコシノジュンコとも知り合いになりました。今思うと、当時知り合った彼らが僕の精神の核になったのだと思います。・・・・酒場のアルバイトは何軒か転々としましたが、そのなかの一軒では、流行のモダン・ジャズが流れていました。僕は、そのなかでニーナ・シモンの声をいいなあ、自分に合うなあと思って、なんとなく聴いていました。
ニーナ・シモンは、こぶしが泣いちゃっている歌声で、寂しい人間にはズキーンとくるのでした。僕がいつもニーナ・シモンを聴いているので、なんとはなしに仲間からシモンというニックネームで呼ばれるようになっていました。

昭和四十年の春、酒場でのアルバイトを続けながら漠然と人形を作っていた僕に大きな転機が訪れます。ぁる日、明け方にふらっと入った大岡山の書店で「新船人」という雑誌を手に取り、なんとなくパラパラめくっていました。「新婦人」は華道の池坊系の雑誌だったのですが、
そんなことは知るはずもなく、宇野亜喜良さんが表紙を描いているというただそれだけの理由で手に取ったのです。そこには僕の人生を変える一枚の写典が載っていました。ドイツのシユルレアリスト、ハンス・ベルメールの人形の写真です。
全体は人間の下半身が二つ胴体で繋がったようなぐにゃぐにゃとした形で、その股ぐらから少女の顔が突き出しているのです。瞬間、「何、これが人形?」ということが僕の体を火花のように貫きました。その写真を紹介した記事のなかに「女の標識としての肉体の痙攣」という意味の言葉がありましたが、僕は文字どおりその写真に痙攣したのです。ベルメールの人形はとてもエロティックなものでもありますから、僕はその大胆なエロティシズムに驚いたんだろうと思われているところもありますが、そうではありません。そのときのショックはベルメールの人形には関節があって動くということ、だからポーズがいらないということがいちばん大きかったのです。


ハンス・ベルメール「人形の遊び」(1949年)

新宿時代にシモンさんはこの他にも内藤ルネ、江波杏子、金子功といった人脈を広げるとともに、ロカビリー・歌舞伎・ファッションなど様々なものに触れていく。そして....

[4章 女形・四谷シモン誕生]
そんな夏、金子國義が詩人の高橋睦郎さんと会ったことから、僕の周囲はまたまた大きく動き出します。金子は自分の部屋を飾ることが目的で前の年から油絵を描き出していたのですが、それらの習作をみて驚いた高橋さんは、「これは澁澤さんにみてもらわなければ」と、澁澤龍彦さんを金子の部屋に連れてきます。澁澤さんはすぐに金子の作品にほれこみました。
その余波で、十一月、金子は僕を・・・土方巽さんの暗黒舞踏公演「バラ色ダンス」に誘ってくれました。初めて見る暗黒舞踏は麻薬のような強い衝撃で、僕はいっぺんで土方巽という天才の魅力にしびれてしまいました。そのときの、言葉をとおりこした印象をあえて言葉にすると、すべてを削ぎ落とした冬を思わせる極限状態では、肉体と言語、もしくは、肉体と観念とは完全に同化してしまう一緒のものである、というようなことになるでしょうか。
翌四十一年、澁澤さんは北鎌介の新居に飾る絵と、自分が棚訳したO嬢の物語の挿絵を金子に依頼します。このころまでには、いかに本を読まない僕といっても・さすがに澁澤さんの本を読みはじめ、文学者澁澤龍彦のすごさや、当時進んでいたサド城判の意味をひしひしと感じていました。そしてその次の年の正月、金子に誘われて北鎌倉の溢澤邸を訪問し、僕にベルメールの存在を教えてくれた澁澤さんとはじめて会ったのでした。

金子國義 「O嬢の物語」挿絵

そしてまたしても金子國義によって唐十郎との出会いがあり、役者として状況劇場に参加。

当時の状況劇場は、麿赤児、大久保鷹ら男の役者が多く、年に二本の芝居を上演していました。劇団員は昼間稽古をしたあと、夕方からはみんなアルバイトに行くという生活でした。劇団の人たちはみないつかは役者で生活をたでてやるというプロとしての野心を持っていましたが、僕は、芝居の遊戯的な楽しさにひかれて参加するという気分でした。唐十郎は、台本をきちんと完成させてからみっちり稽古をしました。台本は広告紙のうらに、ばっと見ると細い線にしかみえないほど小さな字でびっしりと書かれています。
五月の公演では、金子が四谷桃子、僕が小林紫紋という役者名で出演しました。金子と李麗仙が姉妹、僕はお銀という女形。長細枠に大きなオッパイというのが僕の舞台姿で最後に観客に向かって「バカヤロー」と言って出て行くという役でした。
紅テントに出演するのは初めてのことでした。テントの外はフーテンがうろつき、ヤクザが徘徊する人間くさい新宿の街。しかしその片隅にあるテントの中はぎゅうぎゅう詰めの異次元空間で、客はゴザのうえで汗をダラダラと流しながら、同じ高さの舞台を凝視しているのです。テント内には池が作られていて、役者がドボンドボンと飛び込み、客は水びたしになりました。僕は黒い着物に薄いブルーのスカーフを巻き、サングラスをかけて、だらしなく胸を開けて、女形を演じました。舞台に登場するときに、必ず女性客を突き飛ばしながらあらわれることや、登場するときに歌っていたスーパー・清風チェーンの歌が「徹底した暴力性、無意味性」と評判を呼びました。雨のなかで公演していた時に思いつきで語った「お前たち今夜は帰れないよ」というセリフも、その後伝説のように語られているようです。
このころはよく唐のところに泊まりに行っていました。劇団のみんなと頻繁に付き合うようになり、生活と芝居が一体になっていきました。お金がないので、パリで買ってきたアンティーク・ドールを売って食いつなぐ日々で、さまざまなジャンルのアーティストが集まってホットな情報の交換所のようになっていた新宿のスナック・ナジャでただ酒を飲ませてもらったり、植松さんにごはんをごちそうになったりしていました。状況劇場の人たちは、僕のことを表現する仲間として認めてくれ、それがとても嬉しかったのです。その一方、お金を出し合ってごはんを作ったり、稽古をしたりしながらも、頭のなかで「今に人形のことをちゃんとやらなきやダメだ」といつも思っている僕もいたのでした。
そして昭和44年、状況劇場は大騒動を起こす。
唐をはじめ代表者が都庁に行き、中央公園を文化情動の場として提供してほしいと陳情しましたが、許可してもらえません。唐は無許可のまま上演すると決意しました。
十時、強行作戦開始。稽古場でメイクを済ませ、トラックで公園近くに向かって、近くの道路で指示を待ちます。劇団員は二手にわかれました。一方はリヤカーで公園の正面人口に向かい、そこで待ち構えている都の職員と衝突します。リヤカー隊は囮です。その隙にトラックが公園内に入り、テントを建てて芝居をするという作戦です。僕はトラック組で、女装姿になってすぐに芝居ができるように乗り込みました。午後六時、正面の入口でリヤカー組の大久保鷹が都の職員と揉みあっているうちに、裏口からトラックが公園に入り、前日のテント設営の練習の甲斐があって、十分でテントが完成します。「テント建ちましたー」との合図で、正面で抹めていた囮隊、都の職員とそれをみていた観客が、一斉に紅テントを目指して走り出しました。当日、熱心な状況劇場のファンが百八十人近くも中央公園に集まっていたのです。午後六時四十分、予定通りの開演です。都の職員は驚いて、テントの外では押し問答が続いているようでしたが、かまわず芝居を続けました。午後七時半ごろ、二幕のはじまるあたりから、ザクッザクッと大勢の人間が砂利を踏みしめる音が舞台まで響いてきました。そして拡声器から「われわれは機動隊だ、ただちにこのテントを撤去しなさい」という声が聞こえました。都の職員が要諦した機動隊は三百人にまで膨れあがります。ここからは押し合いへし合いでした。麿赤児は機動隊の拡声券に向かってウルセエコノヤローとストーブを投げつけ、機動隊はテント越しに観客の足を蹴っていました。外は本物の機動隊がずらりと取り囲んでいて、テントのなかの芝居では女性劇団員による機動隊が全裸で登場していました。テントの外では怒号が飛び交い、せりふもろくに聞こえませんでしたが、芝居は最後までやり遂げました。芝居が終わると唐十郎、李麗仙らは都市公園法違反の現行犯で逮捕、連行されていきました。紀伊国屋書店の田辺茂一さんが、これは犯罪ではなく文化的な活動なのだと警察に働きかけてくれて、釈放となったのでした。
二泊三日の留置場暮らしから出てきたその晩から、金井八幡宮の公演が続行されました。開演前に李麗仙が登場して「みなさまご存知でしょうが、今日から出てきましたので芝居を始めます」と挨拶すると、お客がワーツと沸きました。僕たちの乱闘は武勇伝的なとらえ方をされており、お客さんは面白がって集まってくれたのです。西武百代店の堤清二さんもワイシャツ姿で大きな寿司桶をもって来てくれました。企業経営者であると同時に詩人でもある堤さんは、唐十郎の理解者の一人で、状況劇場のポスターにいつも西武百砦店の広告を入れてくれていたのでした。

1971年 吸血鬼 四谷シモン:高石かつえ役 後方は根津甚八


1971年 あれからのジョン・シルバー 
四谷シモン 花形の姉さん春子役(状況劇場最後の役)

1969年 新宿西口騒動 警官と揉める団員たち。奥中央に四谷シモン。
オカマと罵られながら戦闘的な勇姿を示した。

[5章 ただごとじゃつまらない]
このころが、状況劇場が世の中に出はじめた第一段階でした。僕はここで澁澤龍彦さん、瀧口修造さん、檀一雄さんをはじめ、たくさんの人たちと知り合いになりました。
芝居がはねて阿佐ヶ谷で宴会をするときなどは、ほんとうにたくさんの人たちが集まりました。加藤郁乎は常連。ほかに、嵐山光三郎、種村季弘、田村隆一、村松友硯、高橋陸郎らもよく顔を出していました。劇団に出入りする人たちとは、結束の固い身内のような気持ちで付き合いました。
状況劇場のポスターは、昭和四十一年の「アリパパ」から横尾忠則さんがデザインしており、美術や舞台装置は、赤瀬川原平、合田佐和子らが担当していました。赤瀬川さんは、読売アンデパンダン展に出品した大きなゴムの作品を舞台装置として登場させました。アーティストの作品を舞台に取り入れるのは土方輿さんの影響だったと思います。赤瀬川さんもよく阿佐ヶ谷に来てはコクツでちびちび酒を飲んでいました。その後、クマこと篠原勝之が美術を担当することになります。
よく人形制作と芝居の関係をきかれることがありますが、僕は、この二つはまったく別の世界だと思っています。芝居には、お客さんを目の前にして、発作的というか、瞬間にできる表現があります。ですから、これは狂気とか天才の世界に近いと思います。絵画なんかも、ある程度そんな感じでしょうね。でも人形制作のプロセスに、そういう発作的な要素や瞬間表現はありません。つねに醒めていなくてはならないというか、一体の人形を作りはじめたら、その完成まで「芸術」とはほど遠い地味な作業を、コツコツ続けていかなくてはならないのです。ですから、人形制作が芝居に影響したとか、その道とかというのではなくで、僕の場合、その二つが全然別のものだから両立できたのだと思います。そして、人形制作のプロセスでは不可能な発作的なものを、舞台の上で爆発させていたといえるでしょうか。ともかく、自分としては、人形作家・四谷シモンがめざしている表現と役者・四谷シモンがかつてめざしていた表現は全然違うものだと思っています。ちなみに、人形を作るときに僕がめざしているのは、「ひんやりとした表現」です。

当時、すでに大御所の写真家だった細江英公さんから写真の被写体になってほしいといわれたのもこのころです。細江さんは唐十郎とつきあいがあり、状況劇場の芝居の写共や劇団且のブロマイドも撮っていました。状況劇場では、公演のときにブロマイドを売っていました。特別な紙にふわっと写真を焼き付けて、自分のサインをいれたブロマイドを作ってくれ、劇団員はみんなとても喜んでいました。そんな付き合いのあった細江さんが、被写体がこれまで実際に過ごした街を背景に写真を撮る、というコンセプトをもってきて、僕に出てくれということになったのです。最初のロケ場所は石川台の駅で、最後は新宿の連れ込み旅館で猥雑な写兵をとるというふうに場所を指定しました。浅草の芸者さんが来ていた縄の着物をかりて、白塗りで東京の町に繰り出し撮影をしました。


細江英公 シモン私風景 1971年


本件その2に続く