エリザベスのブログ

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おとめ座エリザベス!麻生祇園馬出し祭の起源はいつ?

福島県の相馬の野馬追いと似ているのは何故

ヤマタノオロチに見立てた神馬馬馬

スサノオノミコトの神輿の戦い流れ星キラキラキラキラキラキラ圧巻!

 

行方市麻生郷土文化研究会「麻生の文化」

第55号に掲載されました。

令和5年 麻生祇園馬出し祭りは、4年ぶりに茨城県行方市

天王崎公園にある八坂神社で開催されました流れ星キラキラキラキラキラキラ

 

壮絶な馬と神輿の戦いですラブラブ

麻生祇園馬出し祭とは・・・・・

慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、戦後処理にて

改易となり、近江の国の新庄父子の身柄は蒲生秀行の預かりとなった。

慶長九年(一六〇四年)家康に召されて駿府に入り、赦免を受け、江戸

の徳川秀忠に拝謁して、常陸国行方郡・河内郡・新治郡・真壁郡・那珂

郡、下野国芳賀郡・都賀郡・河内郡の八郡において、三万三百石を与え

られ、後に行方郡麻生に立藩した。故郷である近江の国の琵琶湖によく

似ている霞ケ浦の景色にきっと安堵感も覚えたことでしょう。

琵琶湖から霞ケ浦へやってきた新庄様

 

寛文(かんぶん)八年に、麻生藩主 新庄直時が、領内二十四か村の

役人を召集し拝殿において天下泰平・五穀豊穣の祈願をして、手厚く

保護し、現代に伝承されています

八坂神社のご祭神は、スサノウノミコトですが、厄除けの神として

知られる牛頭天王(ごずてんのう)を祀る神社でもあり、天王崎の

名称は、この牛頭天王からきていると考えられます

 

水神様もある八坂神社  大人の神輿と子供の神輿アップ

祭りは、麻生地区の古宿地域と新田地域が合同で開催していますびっくりマーク

 

八坂神社の獅子頭アップ

昭和20年頃まで、船材の厚板で船大工が頑丈にこしらえた神輿に

獅子頭を奉収して、しめ縄を幾重にもまきつけた。

御幣を先頭に、子供たちがかつぎ、家々の庭先で荒々しく叩きつ

け、家庭から疫病を防ぎ、災厄を免れるよう雄叫びをあげて走った。

多年繰り返し、獅子の下顎と両耳は欠落しましたと平成23年3月

行方市教育委員会の掲示板に記載されています。

獅子頭は、室町時代後期の作であるところから、祭りはそれ以前

からあったものと考えられます。

 

両地区の民家を神馬と神輿が1件1件回ります音譜

 

7月下旬開催の神事に子供神輿を担ぐ子供たちも暑さでぐったりアップ

 

おとめ座令和五年度の祭礼は、四年ぶりの開催ラブラブ

麻生祇園馬出し祭りは、古宿、新田の二つの地区が中心と

なり行われます。

この麻生祇園馬出し祭りで注目されるのが、暴れ馬と人が

一体になり八坂神社の境内を走り抜ける姿です。

馬出し祭りでは馬をヤマタノオロチ、神輿をスサノオノミ

コトに見立てているといわれています。

初日の宵祭りでは、神輿を先頭に稚児さんや神職が行列を

なして地区内を練り歩きます。
二日目、本祭りでは八坂神社内で馬と神輿が勇ましい戦い

を繰り広げた後、浜降りといって神輿が霞ケ浦に入ります。

 麻生祇園馬出し祭りは、行方市の無形民俗文化財に指定

されています。

 

 

『野馬追』の始まりは、

平安時代中期、平将門公(相馬小次郎)が下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県松戸・流山付近)の牧で野馬を捕らえて、御神馬として神前に奉納したことが由来とされています。平将門公の子孫である陸奥相馬氏の『相家故事秘要集』によると、「将門、関八州を領してより、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県北西部)に馬を放ち、年々春夏秋二度も三度も、八カ国の兵を集め、甲冑を帯し、大群を学び、野馬を敵となして、軍法備えの次第、駆引の自由、馬上の達者、機変自在の動きを試む」と記されています。

940年に将門公は亡くなり、数代の間は野馬追が行われていなかったとされています。平安時代後期、相馬家初代当主・相馬師常公(千葉常胤次男)が養子となり家督を継いでから、晴れて旧暦五月中の申に野馬追が再開されたと言われています。(諸説あり)。

1323年、第6代当主・相馬重胤公が、陸奥国行方郡太田村(現在の福島県南相馬市原町区中太田)に下向しました。この土地は、奥州合戦(1189年)の褒美として千葉常胤が源頼朝より与えられた土地で、相馬家に相続されていました。現在の相馬太田神社がある場所に居(別所の館)を構えますが、数年で小高城(現在の相馬小高神社)に移り住みました。また、野馬追の故事に倣い、太田村近くの原野に馬を放ち、以降断続的に馬を放ち続けてとされています。このころの野馬追は資料が乏しく詳細は不明ですが、時は下って1600年、当時居城としていた牛越城下(南相馬市原町区)で野馬懸(のまかけ)をしているときに、関ヶ原合戦の報告を受けたとされ、下向後も野馬追を続けてきたと推察されます。

江戸時代になると、居城を中村城(現在の相馬中村神社)に移し、以降明治時代になるまで相馬氏の居城となりました。この頃から、現在行われている相馬野馬追の面影が見えてきます。第19代当主・相馬忠胤公は、下向してきて以来断続的に馬を放ってきた原野に、牧を整備し、そこで野馬追を行うことにしました。現在の雲雀ヶ原(ひばりがはら)祭場地もその一部です。

明治時代になると武家社会が終焉を迎え、野馬追原に放牧されていた馬が捕獲されるなど相馬家の年中行事であった野馬追もできなくなりましたが、相馬家の氏神である妙見を祀る相馬三社(相馬太田・小高・中村神社)の祭礼として、幾多の困難を乗り越えながら今日まで受け継がれています。福島県南相馬市を中心に、相馬市、相馬郡、双葉郡に至るかつて相馬家が治めた旧奥州中村藩を挙げて開催される国の重要無形民俗文化財となっています。毎年七月末の土日月の三日間に渡り、約4百騎の甲冑騎馬武者が集結し、勇壮華麗にして豪華絢爛な時代絵巻が繰り広げます。

おとめ座行方郡太田村はてなマーク小高はてなマーク行方市にもあるビックリマーク

さて、1323年、第6代当主・相馬重胤公が、陸奥国行方郡太田村に下向したとありますが、あまりにも当地の地名に似ているのはなぜか。古の時代に何か繫がりがったのではないか。

 

 麻生の文化第47号に羽生均氏が寄稿されていますが、その中で(二)相馬の野馬追いと馬出し祭りが共通している様に思えると記載されています。相馬の野馬追いでは、一日目が宵祭り、出陣式の後、祭場地に向かい古式馬具をつけて「宵祭り」と呼ばれる競馬を行う。二日目の本祭り、装飾された馬に甲冑姿の騎馬武者が旗指物をなびかせて疾走する「甲冑競馬」、打上げ花火に仕込んだ神旗を奪い合う「神旗争奪戦」、三日目、相馬小高神社に於いて、「野馬懸け」の神事があり、裸馬を騎馬武者が小高神社境内の竹矢来に追い込む・・・・そして御小人とよばれる若者達が素手でこれを捕らえ、神社に奉納する。この馬を捕らえる状況が似ていると期してありました。

また、(四)古代の馬の生産では常陸国風土記行方郡の麻生の部分には、其の野に馬を出す。天武天皇の世に大生里に建部袁許呂が命令して此の野馬を得て朝廷に献じた。とあります。

七世紀以降の律令体制下で朝廷による馬生産の牧が整備されていったが、その生産方法はかなり粗暴で一年中放牧して自然に増殖させる野馬生産であった。こうした牧の管理上の便宜より野馬追いで若いオス馬を捕獲し、これを軍馬に充てるというシステムが採用されていった。相馬の野馬追いは、古代の馬の捕獲法を今に残すものと考えられます。麻生の里でも驚きあばれ疾走する馬に密着し全力でもって止めること。馬に逃げられたら恥となる事等々野生に近い馬を捕獲する様子ではないかと思います。(五)私の想像する古代の馬の捕獲では、馬の追い込み先は、たぶん新田地区の高台に三ケ所ほどある永作(たぶん長い柵)、相馬野馬追いの「竹矢来」の役目をした所と思われます。永作姓は、馬の生産に関わっていた人の末裔かもしれません。追い込まれた馬の中に良きオス馬を見つけると、待ち構えた屈強な若者が取り付き、怒り狂いあばれる馬を取り押さえて捕獲する場面が次から次へとみられ、人々はこの光景が何よりも面白く手に汗をにぎりながら見て歓声をあげて楽しんだと思います。(六)鎮守の祭礼にはたいがい、踊りや音楽、芸能などが神前で催されますが、古宿・新田地区の人々は昔、自分達が何よりも面白いと思ったこの馬の捕獲の様子を祭礼のクライマックスに再現したのではないでしょうか。と記してありました。

馬場出しをする地元の青年、松林の八坂神社で多くのカメラマンが来ていますラブラブアップ

 

おとめ座私の推察は、相馬の野馬追いと似ている部分は、地域の名前、祭りの類似などありますが、馬の捕獲から見ても平安時代からの伝承物ではないかと羽生氏の寄稿を参考に考えを述べさせていただきました。

あくまで、エリザベスの推理でございます・・・・・叫びあせる汗