愛犬トムのこと

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 十九歳になる愛犬トムが四年前の正月八日突然姿を消しました。犬年齢の一九歳は、人間の九〇歳くらいに相当すると言われています。老犬とはいっても、トムは案外元気で、階段の上り下りもできるし、毎日の散歩も欠かしません。下の失敗もほとんど無く、本当に賢く可愛い私と妻の最愛の家族の一員でした。

 トムの最期は、私たちが世話をし、見守り、安らかな最期であるようにと念じておりました。トムにも私たちの思いが通じていると信じていました。

  トムと過ごした年月は、いろんな思い出に彩られ、様々なエピソードも数えきれないほど有ります。幼い孫のしつこい愛撫にも嫌な顔一つしなかった事。九〇歳を超える先代住職夫人の散歩のお伴。数を数えて(?)近所の小学生の讃嘆をあびた事。先代住職夫人が、大腸がんの診断で近所の町医者に入院した時、明日は、手術のため大病院への転院が決まっており、当分会えないだろうとの思いで、トムを連れて励ましのお見舞いに行きました。さて、そのあくる日、法務で忙しかった私たちのすきをぬって、トムは自分からお婆ちゃんに会いに行き、私たちがさんざん探し回って見つけ出すまでの数時間を町医者の入り口で、出てくるはずのないお婆ちゃんを待っていたのです。幸い、お婆ちゃんは、手術も成功して、それから一〇年余り長生きしたのですが、そのお婆ちゃんが亡くなるときにも不思議なことが有りました。転んで脳内出血をおこしたお婆ちゃんが、病院に運ばれ、長期入院を覚悟した私たちは、入院準備の為、いったん家に戻りました。その夜、無駄吠えなどしたことの無いトムが、突然、遠吠えをしたのです。そして、その直後、病院から電話でお婆ちゃんが亡くなったことを知ったのです。

 みんなに愛された心優しい愛犬トムは、自らの死を覚って、私たちの思いも知らずに、冬の寒いある日、何の前触れもなく姿を消したのです。残された私たちは、いまだにトムがどこかに生きているのではないかと、未練が捨てきれません。

 人は、周りに迷惑をかけたくないと。ぽっくり死ぬことを願いがちです。また、頭では死を理解しているつもりでも、心がそれを受け入れるには、なかなか難しいものが有ります。動物はその点、本能に導かれるままに、生き死にを受け入れているように思えます。

 私たちは、過去を振り返り、未来に思いをはせて生きています。動物とは違って、死んだ後の事を考えます。幸い、法然上人のお念仏の教えに出会わさせて頂いた私たちは、極楽への往生を信じて、亡き人との再会を願い死を受容することができます。私も年を経るごとに口から自然とお念仏が漏れ、自称若いと思っているらしい妻から、随分と年寄扱いされています。亡くなるときは、家人に未練が残らぬように、ぽっくり死には、なるたけ避けて世話になろうと思っています。

 

福井教区 専安寺 吉水 正善

 

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ちょっといい話

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 聖徳太子の『十七条憲法』(推古12〈604 年〉)の第一条に「和を以て貴しと為す」とあります。その「和」の心は、第二条「篤く三宝を敬う」ことによって実現されると考えられたのでした。

 三宝とは「佛教※1」の三つの宝(重要なキーワード)のことであり。それは「佛」「法」「僧」のことです。

  「佛」=完全な悟りを得た聖者。真理を正覚した者。

  「法」=佛法であり、佛のみ教えのこと。

  「僧」=佛のみ教えを実践している人々。佛教の修行者の集団。

 以上の意味をさらに平易な言葉に置き換えると、悟りや真理とは、先ず明らかなものであり、これを信ずることは明るく生きることにつながります。佛のみ教えは、あくまでも正しく一切の間違いがなく、これを信ずることは正しく生きることとなります。また、佛のみ教えを実践している人々同士には、一切の争いも過ちもない極めて仲の良い理想の集団であり、これを信ずることは、私たちも仲よく、和やかに生きることとなります。即ち「佛」「法」「僧」=「明るく」「正しく」「仲よく」と言い換えることができます。

 さらに、この三つの言葉は別々ではありますが、実は関係し合いつながっているのです。先ず、佛がおられ、その教え(佛法)があるから、それを実践する人たち(僧…和合衆)が存在します。

 同じように「明るく正しいので仲よくなれる」「正しく仲よいので明るくなれる」「仲よく明るいので正しくなれる」この三つの言葉は密接につながり合っているので、これを「三宝同体」とも表現されます。

 そして、この三宝を深く信じて実践することが、佛教の最も基本となる三本柱でもあります。明るく・正しく・仲よくとはとても平易なようですが、とかく人間は悲しいかな、明るくなりきれない悩み事や苦労があり、煩悩※2によって正しくなりきれないこともあります。また、皆が和やかに仲よくと分かっていても、嫌な人や相性の悪い人も存在して仲よくなりきれないのが我々の性でもあります。

 そこで、人間だから仕方がないと片付けてしまうと何の意味もなく、明るく・正しく・仲よくなりきれない私たちであるからこそ、少しでも、明るくなりたい、正しく学びたい、仲よくなるよう精進努力することが肝要であります。そして、そのように行動するための何よりの励みの言葉が「南無阿弥陀佛※3」のお念佛なのです。念佛の「念」は今の心と解すると、念佛とは今の心を佛にむけるとの意で過去や未来ではない、この今を一所懸命に生きることでもあります。そして、この念佛を称えることによって、いずれは必ず阿弥陀佛の本願によって西方極楽浄土※4に往生することができる。このことを深く信じて念佛を称え、生命ある限り「明るく・正しく・仲よく」生活してまいりましょう。

 

※1 佛教…佛=釈迦と理解すると「釈迦の教え」であり、その釈迦の教えに出てくる諸佛(阿弥陀佛・阿閦佛・毘盧遮那佛・薬師佛…等)の教えでもある。さらに、私たちもいずれは必ず「佛になれる」教えとも解する。

 

※2 煩悩…我々の心身を煩わせ、悩まし、苦しめる一切の妄念。「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などと云われるが、その代表的な三つを「貪・瞋・癡」の三毒煩悩と言う。貪=むさぼり・欲望、瞋=怒り・憎しみ、癡=おろかさ・情けなさ。

 

※3 南無阿弥陀佛…インドの古い言葉の「ナマス」「アミターユス・アミターパー」「ブッダ」を漢字の音読にあてたもの。「ナマス」は腰を折って相手を敬うの意で「よろしくお願いします」とか「すべてをおまかせします」と解し、さらに宗教的な意義が加わり「帰依する・帰命する」と訳される。続く「アミターユス・アミターパー」の二語に共通する「アミター」は量ることのできない、即ち「無量」と意訳され、後の「ユース」は「寿命」、「パー」は「光明」の意であり、即ち「阿弥陀佛」とは「無量の寿命と無量の光明を持つ佛」と訳される。即ち、「南無阿弥陀佛」の念佛は、「量り知れない寿命と、量り知れない光明を持つ佛に帰依する/帰命する」という「信」を表明する言葉でもある。

 

※4 西方極楽浄土…釈迦のみ教えに登場する様々な諸佛が構える国土のことを「浄土」と言うが、その数ある浄土の一つに阿弥陀佛の「極楽(または「安楽」「安養」とも漢訳される)」が存在し、原語は「スカーブァティー(楽あるところ)」である。統合して「西の彼方にある極めて楽ある(誰もが楽に佛になれる。苦しみ、悩み、悲しみの一切ない極めて楽な世界…理想の世界)浄らかな場所」を示す言葉である。

 

〈参考文献〉

     平岡聡著『ブッダと法然』(新潮新書)

 

佐々木 昭道

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「正月」とは、「修正の月」

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 今年のお正月には、こんなお話をしました。『修正』とは、「よくないところを直して、正しくする事」。
 私たちの人生もまた同様であります。過去一年間の自分の言動、行動を仏さまの前で、修正する月。すなわち「修正の月」、「正月」なのです。
 現在の人は、言うは易し、行うは難し、の人が多くなりました。この時代、教育に恵まれ、民主主義の名のもと、誰でも何でも言えます。自分で言ったことを、言った自分がやることはしない。これが戦後七十二年目の、一番悪い教育の結果になってしまいました。
 仏さまは見ていらっしゃる。人に言うだけではなく、黙って自ら何でもしなければ…。
 このようになった時代の世相の原因を、先日、元滋賀県知事の国松善次さんが、このように言っておいでになりました。終戦後、政教分離と言って、政治と宗教を分離したが、日本人は間違って、教教分離をしたと。教育から宗教、道徳を分離した結果だと。
 だから現代のような世相になり、毎日ニュースをにぎわせている。宗教界を見ても、寺院離れ、寺院消滅の時代に入っている。
 正にその通りで、それは、神仏抜きの「修正の月」だからです。
 お先祖様や、父母に感謝して、時には、いつでもどこでもお念仏を唱えながら、修正の月の意味をもう一度考える時にしては如何でしょう。
 それがお正月です。
 
 大本山清浄華院布教師 松渓貞照
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