『人間失格』の真意と人生の幸不幸を決めるもの | 螢源氏の言霊

『人間失格』の真意と人生の幸不幸を決めるもの





今年(皇紀2677年)の抱負は…


人間失格」である。



抱負にしては遅すぎる?



言うまでもないが、私の本心は西暦の正月などではなく、より自然と月のリズムと調和した、旧暦の旧正月こそ真の正月だと思っている。


今年は1月28日が旧正月だったので、遅すぎることはなく、ちょい遅れの抱負なのである。





あんなに発展した中国でさえ、未だに旧正月をちゃんと祝っているので、日本は(そこだけ)中国から見習ったほうがいい。


旧暦は必ず、月の初めが新月、十五日が満月、という極めてわかりやすい暦であり、必然的に旧暦1月1日は新月となる。





さて、抱負の「人間失格」という意味深そうなこの四文字の漢字だが、もちろん原案は、あの太宰治だざいおさむの小説『人間失格』である。





私が中二だった2010年2月、映画化にちなんで生田斗真が表紙となって売り出されていた頃、そのアンニュイな雰囲気に惹かれて購入した。


この日本一売れている名作小説を読まなければ文字通り、人間失格だという強迫観念も後押ししていたのかもしれない。





しかし、当時の私は意志薄弱で、読みはじめて早々にリタイアしてしまい、文学好きな友人に譲り渡したという思い出がある。


この太宰治の人間失格は、読んで字のごとく、太宰自身がモデルとなったダメ人間が主人公の話だが、私の抱負は意味がだいぶ違う。





どちらかといえば、意識進化の果ての果てに、人間を超越して卒業してしまおうではないか、という意味だ。


「人間超越」とすれば某カルト教団臭いし、「人間卒業」はまるでヤク中の形容詞だ。





となれば、少しひねりを効かせて「人間失格」という、あたかも誤解を招きそうな表現にしたほうが面白いと思ったからだ。


そして天下乃与太郎 閣下のブログをご参照して頂いたほうが、その真意が明瞭だと思う。



人生は迷路である(人間失格の宇宙海賊の正月)









今年も半分、冗談のような抱負だが、実利的な言葉を設定してもなにも面白くはない。


そして、人間合格を目指しても陳腐すぎるし、底が知れているだろう。



閣下の指摘される通り、人間失格の真意とは、人間型ゲシュタルト(自我)を解体し、人間を卒業して変換人(霊止)に進化することだ。


あくまでスピリアル的な文脈なので、現実的な人間失格を目指すという意味ではない(もしやすでに現実的にも失格かもしれないが… 笑)




ところで、本題(?)の太宰治の話に戻るが、これを機に元ネタの『人間失格』を読み直してみることにした。




太宰治 人間失格 - 青空文庫




今の時代、著作権切れした過去の名作たちが、ネットでタダで読めるので良いものだ。


さすがに今の私は読破することができた。





こういう暗くて陰鬱な話は好きだ。


明るくて中身のない作品よりはよっぽど深く、心に引っかかってなかなか離れない。


陰鬱さを昇華できるのは、陰鬱な話だけだ。



といっても、太宰はあの『走れメロス』の作者でもあるので、人間失格のような作風は極めて特異だという話を耳にしたことがある。





これを読んだ多くの人は、あたかも自分自身のことが書かれているような錯覚を覚えるほど、太宰に深く共感するらしい。


残念ながら、そのような共感を味わえるのは、中学生までの私に限られるだろう。





しかし、今でもなるほどな〜と思えるような、妙に感心させられた一節が、本文中にいくつかあるので紹介したい。


少し長いが、読んでみるとその味わいの深さがよく染み入ってくると思う。



めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。

その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。

人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。


自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。

(中略)

それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。

ほとんど、まるで見当が、つかないのです。

五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受けるむちとちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒ちゆし難い傷でした。

(中略)

女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。


「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。

人間の複数でしょうか。

どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

なんじは、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣あくらつ古狸ふるだぬき性、妖婆ようば性を知れ!

などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

冷汗ひやあせ、冷汗」

と言って笑っただけでした。

けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。


世間。

どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。

個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称えていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。


不幸。

この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。

しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだとあきれかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでもおのずからどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。



飯を食わねばならぬという押し付けへの反感、女性への警戒心、世間という化け物の捉え方、不幸を自業自得だといわれそうな恐怖感…。


とくに私の〝世間〟への考察は、太宰の思想と殊の外ちかく、それとなしに影響を受けていたのかもしれない。






太宰が『人間失格』を書くことで、一体なにを伝えたかったのか?


これを私の勝手な解釈で述べるとするならば、「人の幸不幸は、境遇ではなく心境で決まる」ということだろうか。





主人公の大庭葉蔵(つまり太宰治の投影)は、かなり恵まれた家庭で育ったが、一片たりとも幸福を感じたことがなかった。


すなわち、環境には恵まれていても、その心が恵まれることはなかったのである。





やがて、その陰鬱な心が、陰鬱な環境を招き、最後にはリアル人間失格になってしまった…、というオチだ。


逆に言えば、どんなに恵まれた環境に置かれた人間であっても悩むことはあるし、誰にだって悩む資格があるのだ。





世の人は「俺らの時代は大変だったんだから、恵まれているお前が悩んでどうするんだ」と、勝手に自分の境遇と比較しては、裁きたがる。


しかし、人の幸福と不幸を左右しているのは、境遇そのものではなく、むしろその人の心境、つまり感じ方の問題ではなかろうか。





例えば、幼いころの悩みは今思えば微小だが、当時の自分にとっては一大事で、恐怖の度合いからすれば今よりずっと甚大なものだった。


子供の悩みなんて、たかが知れている」と、すまし顔をして言うのも良いが、悩みの深さを客観的に測るモノサシなどない。





恵まれているからといって、悩んではいけないということはないのだ。

恵まれていても悩んでいいのだ。



そんなことを言いたかったのかもしれない…、という間違った解釈をしてみた。


正しい解釈などはできないし、もしかしたら、太宰さえ真意は藪の中かもしれない。





心の感度が敏感であればあるほど、その弱さも際立つが、鈍感さが強さであるというのなら、私は一生、弱いままでもいいだろう。





要は環境の良し悪しではなく、その人の気持ち次第ということである。


これはある種、太宰からのとてもポジティヴなメッセージであるともとれるだろう。





話の最後の最後、主人公は廃人になることで、「いまは自分には、幸福も不幸もありません」という真理にたどり着いた。


すなわち〝人間失格〟となることではじめて、ある意味、ニュートラルな境地に達することができた、と解釈(誤解)できるのである。