映画『湯を沸かすほどの熱い愛』

 

熱かった。

ほんとに。

タイトル通り、

そう思うこと度々。

「好きな色は、情熱の赤」

そんな言葉通り熱い愛。

出演者も、監督も凄いね。

監督は、脚本も書いてる。

最後、怖かった。

 

 

『君の名は。』も、『この世界の片隅に』も、

時間が経つと印象が薄くなって、忘れるけれど、

この映画は、ずっと心に残って忘れない気がする。

 

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映画『恋妻家宮本』

 

 

 

阿部寛さんと天海祐希さん演じる主人公二人が50歳になって、

息子も独立し、夫婦二人に戻ったところから話は始まり、

ある日、書棚の『暗夜行路』に隠された離婚届を夫が発見。

夫は料理が趣味の中学教師、宮本陽平

妻は教師になるのをやめて専業主婦になった美代子。

 

このお話、

阿部寛演じる主人公が、ほんと良い人なので、

どうしたって、ハートフルなハッピーエンドにしかなりようがない。

しかも50歳だもの。何も起こりようがない。

まだ身体的にも崩壊してませんしね。

どんなにボサボサ頭にしても阿部さんは阿部さんだし、

化粧気がなくても天海さんは天海さんだし、

浮気もないだろうし、強烈な諍いもないだろうし、

中学の先生で、破局的な何も付いて来そうにないし、

で、ドラマとしては、夫婦じゃなくて、生徒の一家。

問題在りで、そのあたりに優しさが充溢して、よいお話になっている。

料理が中心になって、幾つものエピソードを調理し、配膳し、味わえるようになっている。

 

でも遊川和彦さんの初監督作品のせいか、

脚本がくどい。

せっかく引き出された台詞を重ねて説明してしまうような。

ラストはインド映画みたいだった。

生まれた子供の名前を決めるシーン、

新生児の首が座っていて、縦抱き出来るわけはないのに縦抱きされて、

ああいうところは、映画的飛躍をしていいことにしているのかな。

原作の重松清さん由来か、君の味噌汁が~みたいなものもあって、

ああいうのが心に響く人もいるのかな、と思った。

 

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「この世界の片隅に」

この監督は、重いことも、あっさりと描くことで、

かえって、胸に届くように描いているのだろうけど、

その日に向かって、カウント・ダウンしながら、

その日を描かない、少なくとも、観客の想定する時間通りには描かない、

時間をずらして、あっさりと少しだけ描く。

 

少なくとも、普通の空襲を、あんなに精密に、

かつまた激しく描いたようには描かず、

どうして?という疑問を観客の胸に残したまま、

ほんの少し、遅咲きの花が開くように少しだけ描く。

 

この比重の方が、戦争が身近に感じられるのだろうか。

それとも、感じさせてはいけないのだろうか。

日常が平穏であればあるほど、普通であればあるほど、

恐怖が高まるという手法はよくあるが、

暗示だけさせて終わるというのもよくあるが、

そういうわけでもない。

 

主人公は、空襲で右手首から先を失くした設定になっているから、

それで、無理が利かない、安静が必要というのもあるだろうが、

それにしても、8月6日の廣嶋が、主人公にも伝わりながら、

父母や妹が住む廣嶋に、何か月も向かうことがなかったのは、

素朴な疑問が残る。

封鎖され、立ち入り禁止になっていたのだろうか。

原作には描いてあったのかな。

 

気にならないはずはなく、父母が死んだり、

妹が白血病になったりを、後から聞く形にしても、

放射能を恐れたという設定でもなさそうなのに、

間が空きすぎるのではないかしら。

カットや編集のせいかしら。

 

淡々と日常を追って行く手法だと、ああなるのかしら。

あえて、劇的な展開を取らないのは、

『君の名は。』の新海誠監督と、対極的な手法なのだろうか。

わざと、肩透かしで、じりじりとゆっくり時計を巻いて、

その日に母を奪われた戦災孤児を連れ帰るシーンまで

持っていくためだろうか。

 

ふわっと描いて、残酷な描写が入り込むのを避けているのだろうか。

ふわっの中の残酷を印象として残すのだろうか。

主人公の、ぼーっとした、ゆるキャラと共通する、

メリハリを利かせた作りなのだろうか。

 

宮崎駿さんの『風立ちぬ』のラストシーンでも思ったけれど、

(あの映画は、この映画とは比較にならないほど駄目な映画だったけれど。)

じゃあ、何時描くの?

なぜ描かないの?

怖いシーンは、私も嫌だけれど、

あっさりすぎない?

 

あんなに空襲でたたみかけて、

日付けだけで、連日の空襲時間だけで、

空襲の恐ろしさを実感させるという戦慄的凄さを見せながら、

その日の展開は、あれは何だったのだろう。

 

あえてドラマを潰し、

観客の胸の想定脚本を遠ざけ、

あえて何でもなさを徹底させたわけは。

シュールやドラマティックの真逆の手法。

新海さんと足して2で割ることはしなかった。

絶対にしたくないのかな。

 

普通の描き方をしないところが、

この映画の良さなんだろうから、

あれでいいのだろうけど、

まろやかに描きながら、

感じさせるのが特徴としても、

原作の絵も見ても読んでもいないから

何ともいえないけど、

やっぱり、どうして?という思いが残る。

 

カウント・ダウンは、何のためだったの?

近所の人の言葉で語らせて、

雲の形で表現して、というつもりなのかな。

雨も降らせなかったし。

 

翳が残るわけでもないし。

その瞬間が、ほんの一瞬、風のようによぎるというなら、

それはそれで一番怖いのだけれど、

そういうわけでもない。

 

絵の得意な主人公の絵で見せるのもいいのだけれど、

それも少し物足りない絵の使い方。

あの時間軸のずれ感は、

意図したものだとしたら、何なのだろう。

 

甦ったり、再現したりもいいけれど、

あえてそんなことをしなくても、

普通でよかったんじゃないかしら。

 

書いているうちに、観客の頭の中の進行表が見えて、

わざと、ずらしてみたくなったんだろうか。

そこに意味があるなら、それが書きたかったことなんだろうか。

描かないことで描くのも、描いたことには変わらないだろうと。

でも、より深く届くというものでもなく。

 

また、敗戦の放送を聞いた後の主人公の叫びも、

少し違和感があった。

そんな風な感じ方?

まぁ、そういう設定だからしょうがないのかも知れないけど。

あの時代の普通の

女の人ということになっているから。

 

この映画の、私が物足りないところは、

多分、「この世界の片隅に」というタイトルに表れている。

最初聞いた時から、何となく微かな違和感が付きまとっていたのだけれど、

最終的に、この違和感らしいものの正体は、

この映画の主人公の「この世界の片隅に」

充足点を見つけるその在り方。

 

もちろん否応なく奪われ尽くし、

不条理を強いられ、他にどうしようもないとはいえ、

それが、そのまま投げ出されず、

すぐさま回収されてしまうそのような描き方。

 

失われた世界は、死者は、

生き残れなかったものは、

どこへ行くのだ。

片隅の生さえ奪われて、

永遠に消えたものは。

その魂は、永遠に彷徨うだけ。

生者の宴から消された命が

まだ癒されることなく、

弔われることなく。

 

この映画は、呉に住む、

すずさんの視点で描かれているために、

廣嶋の描き方に、ある意味、無理が出来なかった。

多元描写も俯瞰的手法もなく、

あくまでも、すずさんの視点で。

 

 

失ったものより、残ったかけがえなさを肯定するのは、

前向きでいいことだけれど、

多分、私は、そういうところに、共感できないのだ。

どんなに運命に痛めつけられても、奪い切れないものを持つことは、

素晴しいことに違いないのだけれど、立ち直り方や、

居場所の見つけ方に、?マークが点いたままだ。

 

すずさんの生き方は、たぶん、だいたいの日本人の生き方、

世界の感受の仕方に似ている。

その立ち直りの早さや楽天性も。

どんな目に遭おうとも、日常こそは続けていかなければならないものだし、

明日も明後日も生きていかなければならない。

いつまでも泣いてもいられないし、後悔ばかりもしていられない。

過ぎたことはしょうがない、明日に向かって生きていくのだ。

すずさんや、すずさんの家族は。

この世界の片隅で。

いつまた殲滅されるとも。

 

 

最初のうちは眠くて、終わり方は物足りなくて、

でも、観ておいていい映画ではあった。

観客動員数100万人を達成したとか、

キネマ旬報1位に選ばれたとか、

興業的にも快進撃中だ。

少々の物足りなさはあっても、

様々な思いを喚起する映画であることは間違いない。

 

日常を奪われる怖さを、映画の中だけの代理体験でも

経験したような気になったから。

私のように、すぐ死にたくなる罰当たりは、

生の愛しさを、再生し再生し、巻き戻して感じた方がいいから。

 

 

 

「ローグ・ワン」(もうひとつの、スター・ウォーズ)

これは、思いの他、面白かった。

まず、ハラハラドキドキはするけれども、

主役だから死なないよね、っと安心して観られるのがいい。

 

帝国軍と反乱同盟軍の対決。

何年も行方不明になっていた天才科学者ゲイレン・アーソと、

孤独な戦士として育った、その娘、ジン・アーソ。

孤独だったジンにも、本編では、頼もしい仲間が出来た。

情報将校にして、冷静で的確な抑え役、キャシアン・アンドー。

人間の心が解る人工知能兵士K-2SO。

 

座頭市のように強く、静寂の中に見えないものが

見える盲目の僧侶、チアルート・イムウェ。

戦場を悠々と歩き、襲いかかる有象無象をバッタバッタと薙ぎ倒す。

 

甲冑を身につけた西洋の落ち武者のように、

常に巨きな銃を構えているベイズ・マルバス。友情に篤い男。

 

ボーディー・ルック。

牢獄につながれていた弱弱しい捕虜。

ひとたび操縦桿を持てば、

どんな山塊の隙間も完璧に潜り抜ける有能なパイロット。

 

いずれも一騎当千の強者。

 

帝国軍の首都にある目も眩む高さの本部塔。

そこに格納されているであろう宇宙をも破壊する

最強兵器デススターの設計図を奪い、
ゲイレン・アーソが、わざと秘密のプログラムを仕組んだ

その設計図を、反乱軍に送信するのが彼らの目的。

 

猿の惑星のように海もビーチもあれば、

中近東風の、エキゾチックで賑やかな市場もある。

 

壮大な宇宙の光景。巨きな星たち。

浮かび行き交う宇宙船。奔る宇宙兵器。光速艇や戦闘機。

3Dの画面から突き付けられている目の前の銃。

 

退屈しないし、脳の内部の縮尺を刺激してくれる。

 

 

 

「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」

隣りあう二つの世界は時間が逆に流れていて、

その異世界から来た女性を、
京都の美大生が叡山鉄道で一目惚れして、
というところから始まって。
 
時間の流れが逆に流れる二人の、
時間が重なる20歳の時の30日間の出会い。
 
5歳の時に、互いに大人の相手に命を救われる
というエピソードも秘めている二人でもある。

 
かぐや姫が月に帰って行くような、
ただ相手は、純粋な一人の青年で。
という切なく美しいラブストーリー。
 
でも、これが全部、映画の中でも虚構で、
実は普通の、という、もう一つの物語があれば、
なんかも思った。
 
この映画の場合、「この世界の片隅で」と違って、
反世界が、存在している。
それは確かに在り、
どこかに在る。
 
でなければ、此の世界がある意味も失われるほどに。
夕鶴のつうも、羽衣の天女も、かぐや姫も、
想像上の物語の主人公たち。
反世界を胸に秘めて、此処に在る人の世を、
束の間生きる。
 
それは、「この世界の片隅に」根を下ろして
慎ましく且つ逞しく生きる生とは、
全く違った何ものか、なのだ。
彼方を廃し、此処を徹底的に至上とする生の普通さは
共感を得やすいが、
この映画の場合、異世界に生来する存在ゆえに、
根源的に、永遠に辿りつけないこの世の安住地。
遠ざかっていく時を知る存在。

 
 
 
「置かれた世界で咲きなさい」的な、
どんなに世界が悲惨でも、そこで立ち上がって、
ささやかで確かな幸福を見つけるという
「この世界の片隅で」の、すずさんのような、
地に生まれた花のような、しなやかな強さには無縁な、
反世界から来て時間を遡る主人公。
 
どんなに根を生やそうにも、絶対に無理な主人公。
ただ時間の端と端はつながっていて永遠に結ばれているとも言うのだが。

 

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やっぱりお芝居っていいなぁ。

そう思わせてくれる作品。

 

ミュージカル俳優ばかり出ているのに、

歌が無い、ということに気付いたのは、

半分くらい過ぎたところ。

引きこまれて観てしまっていた。

ストレートプレイで、

こんなに退屈しなかったのは珍しい。

 

ルエラという登場人物の設定が、また珍しい。

善い人なのだ。

普通、善い人というと、

偽善者ということが多いものだけれど、

ルエラは、正真正銘、冒頭のシーンで、

ルエラの夫リースが言う通り、

ほんとうに善良な魂の人なのだ。

 

優しいだけでなく、自分だけは逃げ出せる状況でも、

他人を見殺しにせず、

勇気をもって果敢に立ち向かう正義感溢れる

ひとでもあるのだ。「逃げない」で。

 

ミス、マープルのような賢さで謎を解いて行きながら、

ほんわかキャラクターでもある実業家夫人ルエラと、

これまた純粋なフィ-ビー(SMの女王であるという

孤児院育ちの気っぷのいい娼婦)が、

二重扉が回転する時空通路のような扉を介して、

物語が展開する。

 

三人の女性が、自分たちが殺される運命を回避し、

別の女性が殺されるという運命も回避しようと、

協力するサスペンスコメディ。

 

と言っただけでは、この作品の面白さは伝わらないが、

ハラハラドキドキ、最後はしみじみ。

 

3人の女性の、そして加えれば最初の妻ジェシカと

2度目の妻ルエラの夫であるハンサムなリースや、

出て来るだけで笑いを誘うホテルのボーイ、ドナルドも。

 

そして、どういうわけか、彼こそ怖い殺人者でありながら、

投げ込まれ運ばれていく洗濯籠から逆さまに出ている

白い脚が綺麗な共同経営者ジュリアンも、加えてやりたい。

ストーリー上は、矛盾しているが。

 

登場人物の人柄の良さが運命を変える可能性を開く。

希望への扉を開くように。

 

リピートして観たくなるお芝居だが、もう東京は終演。

後は名古屋公演があるだけ。

再演を希望したいし、映像版も残してほしい一作だ。

 

 

再婚し伯爵夫人(だったかな)となったリースの最初の妻ジェシカが、

殺害者ジュリアンの母親を擬するため被った

白い仮面と立ち姿の美しさ、

適役だと思わせる。

 

善意が人を幸福にする。

そんな現代劇に在り得ないような物語を成立させたのは、

イギリスの喜劇作家アラン・エイクボーン。

演出は、板垣恭一。

 

コネクティングドア(二重扉)が回転する音響だけで、

時空を回転することを感じさせ、

まさしく扉の向こうに、

もう一つの世界を現出させる展開が気持ち良く、

少しも退屈させない。

 

俳優陣も、流れをとぎらせることなく、

時空が入れ替わる複雑で厖大な台詞をこなし、

スイ-トルームに限定した設定に応えて、

その姿態・挙措の美しさを際立たせている。

 

2人の妻が、

夫の共同経営者の手で殺害されることを

止めることが出来るかどうか、

というようなストーリーと共に、

孤児院育ちで、何一ついいことがなかった半生

を抱えたフィービーに、訪れる別の物語。

 

それは、一つの思いつきというより、

名前についてフィービ‐が、両親は死んだ。孤児院で育った。

というのに続いて、

よくない名前、変な名前と、思っているその名前について、

ルエラが言った言葉、

「良い名前よ、ギリシャ神話の女神の名前~」

(台詞そのものは正確ではないが)のような言葉から

生まれつき究極のマイノリティであったとも言えるフィービーの心に

変化が生まれ、

ある意味、奇蹟が始まっていたとも言え、

真に善良な魂は、他者の心にも身の上にも変化をもたらすとも。

 

 

男優3人(吉原光夫、岸祐二、泉見洋平)、

女優3人(壮一帆、一路真輝、紺野まひる)だけの芝居でありながら、

かつ舞台美術も照明も素っ気ないまでにシンプルなのに、

隅々まで温かく贅沢な空間に思えるのは、

全員ミュージカル俳優という鍛えられた聴きやすい声の質や、

それぞれが、大空間を埋めて来た華やかな主役オーラのなせる業か。

 

歌が無いお芝居の最後、カーテンコールで、

出演者全員からの歌のプレゼントがあった。

とても温かい幕切れ。

 

 

どちらもとてもよかった。

 

『君の名は。』は新海 誠監督の作った世界に。

彗星の落ちた村や、東京の描写がスケールが大きくて、

高層ビルや電車、駅、星空や雪に包まれる街も綺麗だった。

吸い込まれるような映像美が流星のように降り注ぐ映画。

 

 

『四月は君の嘘』は、

広瀬すずさんが演じる宮園かをりの前半の天真爛漫さが

後半の悲しみを増す翳りある展開に。

 

ヴァイオリニスト宮園かをりの自由奔放な演奏、

どうして君はそんなに自由なの?と公生に訊かれた かをりは答える。

音楽が、自由なの。と。

かをりの影響を受けて、母の死のトラウマから、

一度はピアノを弾くことが出来なくなっていた有馬公生が

再びピアノを弾くようになるまでの映画かと思っていたら、

後半、別の物語が始まる。

 

 

この映画、広瀬すずさんの魅力に、

全てがかかっていた。

そして見事に広瀬すずさんは、それに応えていた。

 

アニメもいいけれど、

生身の人間が演じる素晴しさが、やはりある。

心に残る。

何物も恐れない天衣無縫さと、自由奔放な心と、

失意や、謂われなく生の終わりを受け入れなければならない悲しみの両面を、

若くして表現できる女優は稀だ。

 

映画としての完結性のためには、

絶対、主人公は死ななければならないのだけれど、

この主人公だけは、生かしてやってほしいと、

観客が思ってしまうような。

それほど愛してしまうような、そんな。

初演のエリザベートを演じた花總まりが帰って来た。
舞台は違うが。

花總まりは、日本的な顔だちなのに、
他の誰が演じても、それらはいつか脳裏から消えてしまって、
エリザベート皇后として印象に残るのは、花總まり。
一幕終りの神々しいばかりに光り輝くエリザベート皇后を
体現できるのは、この人しかいないと感じさせる。

加えて、弱かった歌が、
ボイストレーニングの先生に付いて勉強したせいか、
格段に上手になったから、強い。

花總まりって、不思議な人。
宝塚で12年もトップ娘役というより、
女帝とまで言われた人なのに、
それからブランクがあったり、
ずいぶん時間が流れての近年の復活なのに、
シシィの少女時代も何の違和感もなく、全く無理なく演じてみせる。
ほんとうにどうなっているんだろう。


『レディ・べス』の頃までは、
さすがにまりちゃんも歳とったかなぁ、
と思ったけど、舞台が洗うのだろうか、
エリザベートでは、シシィの光り輝く美貌にふさわしく、
少しも経年劣化していないどころか、
まさに旬の人。
驚く。
気品、美しさ、圧倒的だ。
東宝の『エリザベート』は、
花總まりを、ずーっと長い間待っていて、
そう、ルドルフが、母であるエリザベート皇后の帰りを、
待ちあぐねていたように。
やっと帰って来てくれた。
という感じだ。
これで、完成版のエリザベートを作るのだろう。



でも、私は、初演時の、歌、歌えるのかなぁ、と心配した
あのシシィが、今までで一番好きだったし、感動した。

バイエルンからウイーンの王宮へ迎え入れられたばかりの、
初々しく気を張り詰めていたシシィと、
抜擢続きの大役に緊張していた主演娘役花總まりが重なって、
素晴しい出来だった。

今回の帝劇のような重厚、奇抜な舞台セットはなく、
シンプルすぎるほどシンプルな、白一色の背景とベッド、衣装、
白いカーテンがするすると開き、窓が開いて、
懐剣を手に「私だけに」を歌った。


あの宝塚の初演の『エリザベート』が、今でも一番好きだ。
トートとの関係も、宝塚版が良い。
今回のは、もちろん井上くんは上手なんだけれど、
怖い。ほんとに幼い娘の命を奪い、帝国を滅亡に導き、
ルドルフを奪った。という気がする。
そう感じる分、迫力で、リアル感があるんだろうけど、
そんな人?を最終的に愛せるだろうか。
宝塚版くらいの関係性で、ちょうどいい。
透明感があって。人間じゃなくって。
ただひたすらに恋し、求めて得られずに、引き下がってばかりいる、
多少、気の毒なトート。
その上、高い高いところまでいざなうように昇って行く声。
今回の舞台はそれが、そもそも無い。
初めから楽譜にもない。
途中までで一応完結するバージョンには馴らされたけど、
初めから無いなんていうのは初めて。
それが不満。

16日の夜の部だったので、ルキーニは尾上松也さん。
一声聴いても歌舞伎。
何度聴いても歌舞伎の声だ。
こうしてみると、歌舞伎の人の発声って、
みんな似ているんだな。
ファンの人には申し訳ないが、
そして、他の人は気にしないのだろうが、
私には、いくらいい声でも、この歌舞伎の声が邪魔をする。
これを聴かないように聴いているのは結構むずかしい。
なんたって公演時間が長いから。
狂言回しだし。
役者さんたちの上手さを堪能した。

ミュージカル版の『ロミオ&ジュリエット』は別として、
シェイクスピアのお芝居は好きではないし、
双子が出て来るお芝居も好きではない上に、
数年前に、蜷川幸雄さんの演出で、歌舞伎版の『十二夜』を観た時の、
退屈だった印象が残っていて、
(冒頭、鏡面を使った絢爛豪華さや、大きな船が引きだされる演出は面白かったが、
歌舞伎特有の上演時間の長さと、「阿呆」が頻出する台詞がつまらなく、
笑いも古臭く。)
先入観有り過ぎだったのけれど、
ジョン・ケア―ド演出の、日生劇場版は、
想像より、ずっとよかった。

ヨハン・エンゲルスさんの最後の作品になったという暗緑色の庭園風の美術が素晴らしい。
柔らかい木漏れ日のような照明や、中世的な衣装も綺麗だ。


ほぼストレートプレイに近い全篇の中で、
道化のフェステを演じる成河さんの歌う歌が、
とてもいい。
この作品に優しさと深さを加え、人生の深淵を覗かせる。
成河さんは、軽業師のように身が軽く、
お芝居が上手な上に、歌も最上級の上手さだから驚きだ。

音月桂は、ラストの方の、双子が同時に舞台上に立つシーンでも、
演出家に託されたその設定に応えて、瞬時に声も表情も演じ分けている。

音月さんが、昨年8月に『ブラックメリーポピンズ』でも共演した小西遼生さん、
橋本さとしさん、石川禅さんは、贅沢すぎるような布陣。
オリヴィア役の中嶋朋子さんは、気品があっていいが、
設定的には、もう少し若い女優さんでもよかったのではと思った。
音楽的な抑揚ある台詞は、顔立ちや体型は全く違うが、
なぜか大竹しのぶさんの声に似ていた。

長澤まさみ(紫式部)と斉藤由貴(清少納言)の
二人芝居。

設定や衣装は現代のまま、
登場しない和泉式部や、
中宮定子も二人の口から語られる。


三谷幸喜自身の書くということへの
作家としての自問自答や思いが溢れた
作品。


三谷幸喜は、
作家は死んでも、
作品が千年後に残るからいいじゃないかと(台詞の中で)言うが、
ほんとうは、そうは思っていないんだろうな。
そう自分自身に言い聞かせることで、
虚しさに耐えている。
それに、千年は愚か、百年後だって、
人々の心に残る作家は少ない。
舞台も映像も書物も、
いずれ自分が、この宇宙から消えてしまうことに抗する力が
あるわけじゃない。

でも、書く。
何故書くか、決して、名声や、後の世に残ることのためではない。
三谷幸喜の考えるその答えは、清少納言を演じた斉藤由貴の台詞の中にあった。
「そもそも、あれを世に出すつもりはなかったの。
私はあれを、たった一人の人のためにだけ書いたの。
つらい境遇で苦しんでいらっしゃった、あるお方のために、
そのお方に笑ってもらいたくて、楽しんでもらいたくて、
そのためだけに私はあれを書いたの」
そして、そのことによって救われる自分自身のためにも。

最後に、向田邦子のTV版『阿修羅のごとく』に使われていた
トルコの軍隊の行進曲が使われていたけれど、
向田邦子へのオマージュのような気持ちもあったのかな。
作家の一人一人、芸術家の一人一人、
さらには、人間の一人一人は死んで行く。
でも一人の思いは、また一人の思いへ受け継がれて行く。
永遠の生の再生音が流れるように余韻が残る。

ホテルの細長い小舟のようなバーカウンターの白さ。
黒をバックに宇宙に浮かぶ舟のようでもある。
二人の女優の肌の白さ、
特に、長澤まさみの白鳥を思わせる背中や二の腕の白さ。
不死の生と今在る生の官能を象徴しているようでもあった。
衝撃的な演出。
スリリングな展開。
ドキドキ(ハラハラ^^)するような魅力的な出演者たち。
江戸の見世物小屋的な、超絶ショックを与えつつ、
重層的な、観る人によって如何様にも見える心理劇に持って行く。

スワンは、あらゆる意味で、こちらの想像の枠を
超えていたから、まず第一にびっくりした。
主人公は退廃的なまでに官能的なのにピユア。
エキセントリックで精神が病んでいて、
24時間、妄想の中に住んでいるのに、
どこへも抜け出せない。

歌、って言えば、
劇場を出てしばらくして、
あれ、歌ってなかった。
この翻訳劇は、ストレートプレイだったんだ。と気づいた。

ポスターだけを見た時は、三人しか出ないし、
朗読劇に近い静かで地味な物語かな、と思っていたけど、
非常にアクティブで、サイコホラーサスペンスでもあり、
ロマンティックファンタジーでもあり、
幻想とリアル、異界と此の世の境界線上を行き来するような、
ダイナミックな物語だった。

ただ、怖いのが苦手な私には、
最初ガラス窓に打ちつけられた白鳥の血を見るだけでも、
ちょっとやめて、だったけど、
いきなり観客の胸の扉を突破するシーンでもあったのかな。

スワンがドラの幻想の具象化された存在である点では、
トートが、シシィの魂が呼び寄せた「死への誘惑」の化身であったのにも似ている。

ドラは倦怠し、壊れながら再生を希求し、
スワンが呼び寄せられたようなものかな。
(化身した存在が、他の人にも見えるのはおかしいようなものだが、
トートも他の人と会話するから、そこは問題なく越えるのだろう。)
でも、そのスワンは、ある意味モンスターのように、
生々しく存在し、独自の生を生き始める。
野性を発揮して兎や鼠を捉えたり、
近所の人にも姿を見られたりする。
このあたりは、「おおかみこどもの雨と雪」のようだ。
エリザベス・エグロフの原作、高橋知伽江(「アナと雪の女王」を翻訳した)
の翻訳だから、関係ないだろうけど。



それにしても、
こんな舞台こそ映像で残してほしいのに、
「映像化の予定はありません」だなんて、なんて勿体ない。
だったら、再演して。
生で再演希望。
(シアタークリエあたりで。)



紀伊國屋ホールって言えば、
ある意味メッカでもあるけれど、
ともかくもの凄く古い小屋。
(今年、築50年だそうだ。)
それも三越劇場のように華麗な彫刻が施されている
というような古さじゃなく、ガタビシ言いそうな古さ。
椅子の奥行きが深すぎて、どう腰かければいいの、という感じだし。
(実際、上演中にかなりゆっくりした揺れを感じて、
すわ大地震クラスの揺れが遠くの町であって、
その余波が来ているのかと思ったが、そういうわけではなかった。
普通の地震に過ぎなかったようだ。

そのボロさ加減(失礼)が、
ヒロインの暮すコンテナハウスのこれ以上ない、
今まで観た舞台で一番貧しげなセットと
実にマッチングしてはいたのだけれど、
やっぱり私は、劇場には、楽に行き、
かつ楽な姿勢で観たいから、
ぜひシアタークリエあたりでやって頂きたい。

或いは、実験的な作品を良心的価格で上演する
歴史あるホールを廃劇場にはせず、
でも新しいものに直していただきたい。
バリアフリーで、エレベーターやエスカレーターも付けて。
なんて言ってたら、紀伊國屋書店本店は全部立て直さなければ、
ならなくなるけど。
南口の新館だけで予算が一杯なのかしら。
適正なリフォームも出来ないほど。
それとも、もう何か決まっているから
放置しているのかな。
まぁ、そういう時は、
新劇場に改装されることはなく、結局、潰されてしまって、
演劇の灯が一つ消えることになるだけなんだろうな。
セゾンや青山、もう幾つも小劇場や中劇場が消えたり、
消えそうだから。演劇が商業としてやっていくには、
なかか難しい時代なんだろうし。
青年館も新国立競技場ビルに吸収だし。



さて、「スワン」の舞台に戻るけれど、
舞台の冷蔵庫や流し台は、錯覚を利用する感じで、
多分いくらか縮小サイズで作られていて、
そのため、元々大きい細貝圭演じる白鳥が、
冷蔵庫に飛び乗ったり、流し台に腰かけたりする時も、
余計に大きく、動物的で生々しく見える。

この荒々しいほどに肉食獣っぽい野性的な感じは、
切られた電話線で友人と話していたり、
看護士の制服を着て幻想の中で完璧に看護士になりきっているドラとは
対比的で、その存在自体がドラの思い込みや虚偽性を暴くようでもあり、
真実のドラの欲望を露わにするようでもあり、
いわば、こここでは、トートというより、
ヴィヴィアン・リーの『欲望という名の電車』に於ける、
マーロン・ブランドが演じ野性そのものを体現していた
スタンリーのようでもある。

その主人公であったブランチとドラの共通点。
共に、破壊された自尊心とナルシズムのかたまりであり、何人もの男が通過し、
傷ついた心を癒すように幻想の中に住んでいる。
無垢で不器用で傷ついた心の分身として現われるスワン。

違うところは、テネシー・ウイリアムズと違って、エリザベス・エグロフは、
スワンに純粋さや優しさ、ドラに対する憧憬すら付与している。
(危うく、おとぎ話に転化する・・・疲れた心を慰藉するおとぎ話そのものを書きたかったのかもしれないが。)

この世に馴れないうちは荒々しいが、やがて言葉を覚え、
たどたどしく会話するようになると共に、
敏感な感性を通わせるようになるのは、
徹底的に感性の通うことのない外部に立ち、
現実そのものの象徴のように徹底的にブランチを痛めつけ、
ありのままの姿を露骨に暴く強烈な光を照射する『欲望~』のスタンリーと違う点だ。

内部から生まれたものだから当然と言えば当然だが、
つまりは、内部から生まれながら、
神のような一者、黄泉の帝王を他者として存在させる『エリザベート』と、
野性の天使のような白鳥を存在させる『スワン』は、
女性の中にある弱さに対して優しさ、甘さを残し、
『欲望という名の電車』は、一欠けらも残さない冷徹な
リアリズムを貫いていた、と言えるだろうか。
『スワン』は、ドラが時間も季節も何か月も錯覚しているように、
時間を超越して観なければわからない。
幾つものストーリーが成立する。

例えば、妄想その一、

多分、ドラは、夫を殺したのだ。
夫が居なくなったのは、失踪したのではなく、殺されたのだ。ドラに。
大きなスーツケースには、『太陽がいっぱい』の死体のように、
ドラが手にかけた死体が入っている。
ドラは錯乱し、飛び降りたのだ。
『スワン』は、墜ちて来たスワン、ドラ。
血を流したスワンは、ドラだったのだろう。
だから、何場かの時、ドラの口から血が出ている(見えなかったが)
というシーンがあったのだ。

だから、このお芝居は、全てが錯綜している設定でいいのだ。
時空のスクランブル交差点のように、
全てが立体的多重構造になっていて、
スワンがドラであり、ドラがビルであり、ケビンも
また、他者ではないかもしれない。

ドラの脱出願望が具象化したのがスワンであり、
ビルと一体化した時、ドラは飛び降りる。
白鳥になって。

ループのようにつながっている。
始まりは終わり、終わりは始まり。
ドラの意識がぐるぐる廻るように、
時空が回っている。
回転ドアのように。

想いが扉を開いてゆく。
言葉を失った鳥のように、
閉じ込められた魂は、
空へ逃げるしかなく、
此処にいることを拒む。

しかし傷ついた鳥は、空へ帰ることも出来ない。
血を流しているドラは、一人では飛べない。
救けを求めても誰も救ってはくれない。
というか、救う力が無いのだ。
言葉が通じず、理解が出来ない。
だから、狂った。
一人で時空を越えてしまった。

ケビンはドラを助けようとするが、
ドラを助けることはできない。
よひょうとつうほども助けることが出来ない。
つうは、よひょうのために、
身体の羽根を抜いて織物を織るが。
ドラはケビンのために何もしようとしないから。
愛・・・が無いのか、愛以前の生命力がないのか。

ドラは何かが出来るほど余裕がない。
心身のエッセンスで羽根を織って与える余裕がない。
傷つきすぎているから。


確かに『スワン』は難しい。
『ロミオとジュリエット』のように解りやすくもなく、
『PUCK』のように、温かい物語でもない。
抽象化されているだけに演じる人も大変だ。

(細貝圭は、多国籍的な肉食的な荒々しさと、
洗練されたスマートさを同時に備えている。
噴き出すようなエネルギーと若さが眩しい。)

ドラは、色白の透けるような肌を白い衣装に包み
爪先立ってキスする。
スワンの台詞にもあるように、
「きれいな爪先、きれいなくるぶし、きれいな脚」を持っていて、
足裏までもきれい。
スワンと踊る時の全身のシルエットと流れる線が美しい。
この作品のヒロインの絶対条件なのだろう。

出演者が、他の舞台では見せたことがないくらい、内なるものを引き出され、
新しい魅力を放っているのが、この舞台の特徴。
スワンはあなただ。と原作者や演出家が全ての人に変身を
要請しているのかもしれない。

音楽、音響、脚本、美術、役者の身体、役者の演技、
何をとっても、魅力で一杯の作品だった。

役者の一人一人が、
上手かったかといえば、実はそうでもない。
でも、それ以上に、存在した。
いないはずの白鳥がそこに存在したように、
確かに存在した誰か。
それは、スワンでもあり、ドラでもあったし、
あなたかもしれないのだ。

花組『エリザベート』

テーマ:
初演の1996年の雪組『エリザべ―ト』の雰囲気を
最も正統的に継承している、青と白で構成されているような
硬質な『エリザベート』が終わった。

明日海りおのトートは小柄だが神秘的で美しく、
十分に歌唱力もあったが、出来れば高音域へ駆け上がる突き抜ける声が欲しかった。
シシィの美貌と、トートの天上の声は、『エリザベート』の必須条件だから。

個人的にはロケット以降が気に入った。
2014年の斬新なフィナーレとなっており、一連の流れが昇華され、
振付、音楽、衣装、照明共に、心地よく魅せられた。