この国の権力の恐ろしさ。

実体はどこにあるかわからない。

影のようなもの。

しかし、確かにある。

 

森友事件が起きたのも、背景に、

右傾化しようとする社会があって、

それを温床に生まれようとした学園設立

をめぐる事件なのであって。

 

「私の親しい人が教育勅語の本を出します。

今はそういう時代なのでしょう」と、

安倍昭恵さんのメールに言う、

そういう時代の危険性。

今はそういう時代と、

許容している場合ではない。

 

そういう時代を望み、また招いている張本人が、

日本では、安倍晋三首相や、

「日本会議」に名を連ねる人々。

それが、国会議員の大半を占め、

内閣閣僚の殆どを占める事実。

 

彼らによって、この国の施策が決まり、

言論統制や人権の束縛が企てられる。

弾圧的法案が、閣議決定され、

国会を通過する危険。


極右政権を生む土壌はどこにでもある。

貧困が利用される。

不満が利用される。

難民問題や失業問題が利用される。

国境問題が利用される。

元凶や原因を他者に転嫁して。

 

 

トランプ大統領を誕生させたアメリカ。

ヨーロッパでも、政権交代の選挙のたびに、

極右の候補者が話題になり、

政治地図が塗り替わることも

危惧されている。

 

 

安倍首相は、「世界の真ん中で輝く」

と言っている。

あなたは、日の丸か。

世界の中心に君臨し、

その真ん中で、世界の王になりたいのか。

 

 

世界に打って出ようとする安倍さんは、

内向きのトランプ大統領よりも一層危険なリーダーだ。

 

システム的にも、司法が機能していれば、

独裁を阻止できる。

トランプ大統領の意のままにはならない。

 

日本は、内閣に権力が集中し、

人事権を握り、

三権分立が機能しない。

選挙制度にも問題がある。

一強体制の首相には、

独裁国家の総統のような権力が集中している。

 

しかもそれを強化しようとしている。

「治安維持法」のような「共謀罪」や、

ナチスの「全権委任法」にも似た

「緊急事態条項法案」を成立させ

教育再生機構による教育改革をなし、

憲法を改訂し、「美しい国」を、

戦前のような国を創ろうとする

その目的を達成しようとしている。

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政治家の家で暮らしていれば、

好むと好まざるとに関わらず、

そうなって行くのも無理からぬこと。

常時、戦国時代のようなものだからね。

身内も裏切ったり殺したり、

そうしないと自分が消去されるのだろうから。

 

 

でも、

人の好い仮面の下には、

もう一つの顔が隠されていて、

相当量の毒も併せ持った

冷酷な人なのかもしれない。

 

血も涙もない処置を、

官邸がしたとして、

それに従うならば。

 

そう、今回のファックスの件で、

谷査恵子さんに責任を押し付けて、

私は関与していない。

私はあずかり知らぬこととするなら、

人間として地に落ちる。

 

 

まして、証拠を残すようなへまをやったとして、

安倍首相の逆鱗に触れ、

所属官庁で、左遷や降格人事をされるようなら、

それは、首相夫人の責任。

身を尽くして仕えてくれた秘書一人守れないで、

日本全国飛び回り人と人をつなぐのが私の役割だなんて

講演して歩くのに、何の意味があるかということに。

 

普通に、谷さんに謝り、

(社交上手の昭恵さんのことだから、

表面上はとっくにしているだろうけど)

まだあるなら自分の良心に従って、

国民にも、会見で直接語るべきだよね。

 

 
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初めて聞いたような頃から、

事の重大さも、

経過についても、

悪質さについても、よくお解りだったようで。

 

「かご、いけ、さんですか」などと仰っていたけれど、

当初から、一番真相をご存じだったのは、

安倍総理だったようで。

 

 

財務省の管轄であり、

なぜ総理がご存じだったかは分からないが。

この国の「最高責任者」を自認している安倍さんだから、

何でもご存じなのだろうか。

或いは、内閣情報局が、あっという間に、

情報を収集したのだろうか。

 

 

でなければ、

このような大事件に、

もし関わっていたら、と、

首相の進退に関わるほどの

悪質な大事件かと、誰も訊いていないのに。

まるで自ら告白するように、

関わっていたら、総理も国会議員もやめると。

 

 

二つのことしか考えられない。

財務省は、

深刻な土壌汚染の土地を、

既定の土壌汚染対策費と撤去費を有益費1億3200百万円

の補償だけを付けて、9億6000万円で売り付けようとして、

瑕疵担保責任を恐れなければならない新しいゴミが出て、

ミスと認識し、過剰に慌てたのだろうか。

 

にも関わらず、森友学園が、8億円もの撤去費用を

出しうる財政状況にないことを知りながら、

(賃貸費用さえ50年にしてほしいとか希望し、

まともにに出せなかったのだから。)

 

ゴミが撤去できなくても知らないと、

後は野となれ山となれと売り払ったのだろうか。

契約に、瑕疵担保責任免除とし、

ゴミ撤去については、

事後確認の義務を明記しなければ、責任無しと。

国家が、悪質な不動産業者のように。

 

 

或いは、

関空から、

錯誤によりと、所有を、

登記変更してまで国交省近畿航空局に戻し、

汚染は有益費で除去、

東北の隅の一部だけが池沼の跡で、

生活ごみが埋設されているものの、

それ以外は、既に宅地として使用され、

公園として使用するからと前住民を立ち退かせて、

売却することにしただけの、

ゴミ撤去の必然性もない土地と知りながら、

森友学園に格安に払下げるため、便宜を図ったのか。

 

そのどちらかは、分からないが、

財務省や、近畿財務局、航空局、などは知っている。

 

「売買契約締結を以て事案終了により速やかに破棄」しており、

「記録は残ってございません。」と理財局長。

記録を残さないとは、証拠を残さないということ。

これほど、紆余曲折のある事案を。

しかも、分割の期限が10年後だというのに。

 

もちろん、ありえない対応だと思う。

 

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真実なんてどうだっていいという結論から始まっていて、

首相が挑発的に、

 

「私や妻が関係していたということになれば、

これはもう、まさに、私は総理大臣も国会議員も辞める

ということははっきりと申し上げておきたい。」

 

「私と家内、或いはまぁ事務所、安倍晋三事務所もですね、

一切関わっていないと、いう風に申し上げました。

それにもし関わっているということであればですね。

私は政治家として責任を取ると。

これはもう、そう明言したわけでありますから、

えーこれはその通り、でございます。」

 

と断言しちゃったものだから、

大変なことになっちゃって。

 

強く言えば引くと思って言ったのが間違いで、

防御に追われることになっただけなのだから、

最長政権に自信満々な安倍首相、

辞める気など、さらさらなかったのだから、

何が何でも、関与はありえないことにするしかなく。

 

だけど、火の粉は燃え盛り、

首相も首相周辺も、手を焼いている。

箝口令を強いるにも人数が多すぎ、

マスコミも視聴率稼ぎに

放送法も電波法も何のことかと、

最強のバラエティ化した獲物を放さず、

籠池某を悪い奴と貶めれば貶めるほど、

窮地に追い込めば追い込むほど、

嘗ての信奉者が、自分に逆らって来る。

 

あの一言が災いしたのかと、

言葉の怖さを思い知り、

「しつこい」の一言が広げた波紋の大きさを

今更ながら噛みしめる。

 

制御不能の我が妻の一挙手一投足も自由にできず、

縄をかけておくわけにもいかず、

異例の5人も見張りをつけコントロールしようにも、

監督の目も行き届かないうちに、

何をするか爆弾を抱えているようなもの。

 

そして遂に、導火線に火がついてしまった。

世間では、アッキ―ド事件と言われているが、

本人は、どうして私が注目されているのかわからないと言っている。

 

菅くん 「問題ない」にするためには、

どうすればいいのかね。

 

なんてところかな。

安倍さん あなたのそもそもの考え方、

その身から出た錆ですよ。

ミュージカル映画と、ちょっとシリアスな映画。

 

『ラ・ラ・ランド』は、

『セッション』以来2年を経過、

デイミアン・チャゼル監督の作ったミュージカル映画。

ということで、アカデミー賞も何部門も受賞し、

どんな映画だろうと思って出かけたが、

面白いところと、退屈で眠くなるところ半々。

 

ミュージカルだから、もちろん歌もダンスもあるのだけれど、

お芝居の延長的で、ミュージカル的高揚感はないし、

歌もダンスも突き抜けるほどではない。

まぁ、楽しく歌っているし踊っているという。

わざとそうしている感もある。

歌唱力やダンスの魅力そのものより何か別のものを伝えたいようだ。

 

ファンタジックな魅力もそこそこに取り入れながら、

不器用にぶつかりながら生き、この世にさざ波を立て、

夢見ることと、大人になることの狭間で揺れながら、

厄介な反抗者であり敗れても悔いず、

挑戦し続ける者たちへの呼びかけを、歌の中では歌うのだが、

実際は、どこで妥協したのか、大人になることの痛みを引き受けると共に、

単なる成功者になっているような。

それでも、どこかに、残っているのかな。夢見続ける心。抵抗する心。

それはとりもなおさずチャゼル監督の心。

 

最後は『シェルブールの雨傘』をなぞったような終わり方なんだけど、

もう一つの在り得たかもしれない人生を、

映像でもしっかり見せて、でもそれだけだから、

同じって言えば同じの上に、

シェルブール的余韻もないのは、

あれはあれでいいのかな。

 

 

ジャック・ドウミ監督の『シェルブールの雨傘』だけじゃなく、

『カサブランカ』が好きな女優志望のミアの部屋には、

大きな、イングリット・バーグマンのポスターが、

ミアの憧れを象徴する大きさで存在したり、

『理由なき反抗』の、グリフィス天文台でデートしたり、

チャゼル監督の、映画黄金期へのオマージュが

無限大と言いたい程に感じられて、

『ニューヨーク・ニューヨーク』や『巴里のアメリカ人』や、

『雨に唄えば』が2重写しになるような。

 

セブ(セバスチャン)にはジャズを熱く語らせ、ピアノも、

主役のライアン・ゴズリングに、自分で弾かせる。

ミアは、セーヌ河に飛び込んだ女優だった叔母の話をするが、

ミアが女優を志した理由は、歌詞にもあるように

「叔母と雪とセーヌ川」なのだが、

それは必然的に、ジャンヌ・モローの『突然炎のごとく』を想起させる。

オマージュはオマージュで、

今は今で、その今もまた、刻々と過去へと過ぎ去る。

 

叶えたい夢を実現したミア。

かつて撮影所のコーヒ-ショップで働きながら、

オーディションを受け続け、女優を目指していた頃、

そして、セバスチャンのいた頃と、

大女優になり、可愛い子供も出来、

どこかの誰かのお金持ちの妻になっている今と、

ミアはどちらが幸福なんだろう。

(映画設定上しょうがないのに、なんであんな

つまらない男と結婚するんだ。と突っ込んでいたり^^)

 

『シェルブールの雨傘』の、雪降るガソリンスタンドでの

束の間の再会だけですれ違っていく人生と、『ラ・ラ・ランド』の、

やはり成功したオーナーとなっているセブとミアの束の間の再会、

劇的なことは何もなく、ただ心の中だけで合体し別れる。

7分間の、もう一つの、ありえたかもしれないセブとミアの人生

『ハルチカ』

橋本環奈、佐藤勝利主演
 
廃部になりそうな吹奏楽部、たった一人部員集めに奔走するチカ。
再会した幼馴染のハルタを巻き込んで、一人ずつ部員を増やして、
ぶつかる問題を克服しながら、
コンクールに出場するまでに成長し、出場し、
そして、そこからの~~~
そこからが、というべきか。
その展開が面白い。
 
『四月は君の嘘』の広瀬すずにしろ、
この映画の橋本環奈にしろ、
役の設定を超えるほど、
スクリーンの中で輝いている。
もうすぐ公開される広瀬すずさんの『チア☆ダン』も
予告編で流れていた。
 


2月20日に観て来た。
 
TVドラマで以前、杉浦直樹さんが父親役で、
一路真輝さんが娘役で視たことがある。(「娘よ」)
その時、とてもよかったから、
舞台もどんなだろうと思って観た。
 
あからさまではないけれど、
日常から見た反戦映画や舞台というのがあるけれど、
この舞台もそんな感じだった。

映画『湯を沸かすほどの熱い愛』

 

熱かった。

ほんとに。

タイトル通り、

そう思うこと度々。

「好きな色は、情熱の赤」

そんな言葉通り熱い愛。

出演者も、監督も凄いね。

監督は、脚本も書いてる。

最後、怖かった。

 

 

『君の名は。』も、『この世界の片隅に』も、

時間が経つと印象が薄くなって、忘れるけれど、

この映画は、ずっと心に残って忘れない気がする。

 

映画『恋妻家宮本』

 

 

 

阿部寛さんと天海祐希さん演じる主人公二人が50歳になって、

息子も独立し、夫婦二人に戻ったところから話は始まり、

ある日、書棚の『暗夜行路』に隠された離婚届を夫が発見。

夫は料理が趣味の中学教師、宮本陽平

妻は教師になるのをやめて専業主婦になった美代子。

 

このお話、

阿部寛演じる主人公が、ほんと良い人なので、

どうしたって、ハートフルなハッピーエンドにしかなりようがない。

しかも50歳だもの。何も起こりようがない。

まだ身体的にも崩壊してませんしね。

どんなにボサボサ頭にしても阿部さんは阿部さんだし、

化粧気がなくても天海さんは天海さんだし、

浮気もないだろうし、強烈な諍いもないだろうし、

中学の先生で、破局的な何も付いて来そうにないし、

で、ドラマとしては、夫婦じゃなくて、生徒の一家。

問題在りで、そのあたりに優しさが充溢して、よいお話になっている。

料理が中心になって、幾つものエピソードを調理し、配膳し、味わえるようになっている。

 

でも遊川和彦さんの初監督作品のせいか、

脚本がくどい。

せっかく引き出された台詞を重ねて説明してしまうような。

ラストはインド映画みたいだった。

生まれた子供の名前を決めるシーン、

新生児の首が座っていて、縦抱き出来るわけはないのに縦抱きされて、

ああいうところは、映画的飛躍をしていいことにしているのかな。

原作の重松清さん由来か、君の味噌汁が~みたいなものもあって、

ああいうのが心に響く人もいるのかな、と思った。

 

 

「この世界の片隅に」

この監督は、重いことも、あっさりと描くことで、

かえって、胸に届くように描いているのだろうけど、

その日に向かって、カウント・ダウンしながら、

その日を描かない、少なくとも、観客の想定する時間通りには描かない、

時間をずらして、あっさりと少しだけ描く。

 

少なくとも、普通の空襲を、あんなに精密に、

かつまた激しく描いたようには描かず、

どうして?という疑問を観客の胸に残したまま、

ほんの少し、遅咲きの花が開くように少しだけ描く。

 

この比重の方が、戦争が身近に感じられるのだろうか。

それとも、感じさせてはいけないのだろうか。

日常が平穏であればあるほど、普通であればあるほど、

恐怖が高まるという手法はよくあるが、

暗示だけさせて終わるというのもよくあるが、

そういうわけでもない。

 

主人公は、空襲で右手首から先を失くした設定になっているから、

それで、無理が利かない、安静が必要というのもあるだろうが、

それにしても、8月6日の廣嶋が、主人公にも伝わりながら、

父母や妹が住む廣嶋に、何か月も向かうことがなかったのは、

素朴な疑問が残る。

封鎖され、立ち入り禁止になっていたのだろうか。

原作には描いてあったのかな。

 

気にならないはずはなく、父母が死んだり、

妹が白血病になったりを、後から聞く形にしても、

放射能を恐れたという設定でもなさそうなのに、

間が空きすぎるのではないかしら。

カットや編集のせいかしら。

 

淡々と日常を追って行く手法だと、ああなるのかしら。

あえて、劇的な展開を取らないのは、

『君の名は。』の新海誠監督と、対極的な手法なのだろうか。

わざと、肩透かしで、じりじりとゆっくり時計を巻いて、

その日に母を奪われた戦災孤児を連れ帰るシーンまで

持っていくためだろうか。

 

ふわっと描いて、残酷な描写が入り込むのを避けているのだろうか。

ふわっの中の残酷を印象として残すのだろうか。

主人公の、ぼーっとした、ゆるキャラと共通する、

メリハリを利かせた作りなのだろうか。

 

宮崎駿さんの『風立ちぬ』のラストシーンでも思ったけれど、

(あの映画は、この映画とは比較にならないほど駄目な映画だったけれど。)

じゃあ、何時描くの? 

なぜ描かないの?

怖いシーンは、私も嫌だけれど、

あっさりすぎない?

 

あんなに空襲でたたみかけて、

日付けだけで、連日の空襲時間だけで、

空襲の恐ろしさを実感させるという戦慄的凄さを見せながら、

その日の展開は、あれは何だったのだろう。

 

あえてドラマを潰し、

観客の胸の想定脚本を遠ざけ、

あえて何でもなさを徹底させたわけは。

シュールやドラマティックの真逆の手法。

新海さんと足して2で割ることはしなかった。

絶対にしたくないのかな。

 

普通の描き方をしないところが、

この映画の良さなんだろうから、

あれでいいのだろうけど、

まろやかに描きながら、

感じさせるのが特徴としても、

原作の絵も見ても読んでもいないから

何ともいえないけど、

やっぱり、どうして?という思いが残る。

 

カウント・ダウンは、何のためだったの?

近所の人の言葉で語らせて、

雲の形で表現して、というつもりなのかな。

雨も降らせなかったし。

 

翳が残るわけでもないし。

その瞬間が、ほんの一瞬、風のようによぎるというなら、

それはそれで一番怖いのだけれど、

そういうわけでもない。

 

絵の得意な主人公の絵で見せるのもいいのだけれど、

それも少し物足りない絵の使い方。

あの時間軸のずれ感は、

意図したものだとしたら、何なのだろう。

 

甦ったり、再現したりもいいけれど、

あえてそんなことをしなくても、

普通でよかったんじゃないかしら。

 

書いているうちに、観客の頭の中の進行表が見えて、

わざと、ずらしてみたくなったんだろうか。

そこに意味があるなら、それが書きたかったことなんだろうか。

描かないことで描くのも、描いたことには変わらないだろうと。

でも、より深く届くというものでもなく。

 

また、敗戦の放送を聞いた後の主人公の叫びも、

少し違和感があった。

そんな風な感じ方? 

まぁ、そういう設定だからしょうがないのかも知れないけど。

あの時代の普通の

女の人ということになっているから。

 

この映画の、私が物足りないところは、

多分、「この世界の片隅に」というタイトルに表れている。

最初聞いた時から、何となく微かな違和感が付きまとっていたのだけれど、

最終的に、この違和感らしいものの正体は、

この映画の主人公の「この世界の片隅に」

充足点を見つけるその在り方。

 

もちろん否応なく奪われ尽くし、

不条理を強いられ、他にどうしようもないとはいえ、

それが、そのまま投げ出されず、

すぐさま回収されてしまうそのような描き方。

 

失われた世界は、死者は、

生き残れなかったものは、

どこへ行くのだ。

片隅の生さえ奪われて、

永遠に消えたものは。

その魂は、永遠に彷徨うだけ。

生者の宴から消された命が

まだ癒されることなく、

弔われることなく。

 

この映画は、呉に住む、

すずさんの視点で描かれているために、

廣嶋の描き方に、ある意味、無理が出来なかった。

多元描写も俯瞰的手法もなく、

あくまでも、すずさんの視点で。

 

 

失ったものより、残ったかけがえなさを肯定するのは、

前向きでいいことだけれど、

多分、私は、そういうところに、共感できないのだ。

どんなに運命に痛めつけられても、奪い切れないものを持つことは、

素晴しいことに違いないのだけれど、立ち直り方や、

居場所の見つけ方に、?マークが点いたままだ。

 

すずさんの生き方は、たぶん、だいたいの日本人の生き方、

世界の感受の仕方に似ている。

その立ち直りの早さや楽天性も。

どんな目に遭おうとも、日常こそは続けていかなければならないものだし、

明日も明後日も生きていかなければならない。

いつまでも泣いてもいられないし、後悔ばかりもしていられない。

過ぎたことはしょうがない、明日に向かって生きていくのだ。

すずさんや、すずさんの家族は。

この世界の片隅で。

いつまた殲滅されるとも。

 

 

最初のうちは眠くて、終わり方は物足りなくて、

でも、観ておいていい映画ではあった。

観客動員数100万人を達成したとか、

キネマ旬報1位に選ばれたとか、

興業的にも快進撃中だ。

少々の物足りなさはあっても、

様々な思いを喚起する映画であることは間違いない。

 

日常を奪われる怖さを、映画の中だけの代理体験でも

経験したような気になったから。

私のように、すぐ死にたくなる罰当たりは、

生の愛しさを、再生し再生し、巻き戻して感じた方がいいから。

 

 

 

「ローグ・ワン」(もうひとつの、スター・ウォーズ)

これは、思いの他、面白かった。

まず、ハラハラドキドキはするけれども、

主役だから死なないよね、っと安心して観られるのがいい。

 

帝国軍と反乱同盟軍の対決。

何年も行方不明になっていた天才科学者ゲイレン・アーソと、

孤独な戦士として育った、その娘、ジン・アーソ。

孤独だったジンにも、本編では、頼もしい仲間が出来た。

情報将校にして、冷静で的確な抑え役、キャシアン・アンドー。

人間の心が解る人工知能兵士K-2SO。

 

座頭市のように強く、静寂の中に見えないものが

見える盲目の僧侶、チアルート・イムウェ。

戦場を悠々と歩き、襲いかかる有象無象をバッタバッタと薙ぎ倒す。

 

甲冑を身につけた西洋の落ち武者のように、

常に巨きな銃を構えているベイズ・マルバス。友情に篤い男。

 

ボーディー・ルック。

牢獄につながれていた弱弱しい捕虜。

ひとたび操縦桿を持てば、

どんな山塊の隙間も完璧に潜り抜ける有能なパイロット。

 

いずれも一騎当千の強者。

 

帝国軍の首都にある目も眩む高さの本部塔。

そこに格納されているであろう宇宙をも破壊する

最強兵器デススターの設計図を奪い、
ゲイレン・アーソが、わざと秘密のプログラムを仕組んだ

その設計図を、反乱軍に送信するのが彼らの目的。

 

猿の惑星のように海もビーチもあれば、

中近東風の、エキゾチックで賑やかな市場もある。

 

壮大な宇宙の光景。巨きな星たち。

浮かび行き交う宇宙船。奔る宇宙兵器。光速艇や戦闘機。

3Dの画面から突き付けられている目の前の銃。

 

退屈しないし、脳の内部の縮尺を刺激してくれる。

 

 

 

「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」

隣りあう二つの世界は時間が逆に流れていて、

その異世界から来た女性を、
京都の美大生が叡山鉄道で一目惚れして、
というところから始まって。
 
時間の流れが逆に流れる二人の、
時間が重なる20歳の時の30日間の出会い。
 
5歳の時に、互いに大人の相手に命を救われる
というエピソードも秘めている二人でもある。

 
かぐや姫が月に帰って行くような、
ただ相手は、純粋な一人の青年で。
という切なく美しいラブストーリー。
 
でも、これが全部、映画の中でも虚構で、
実は普通の、という、もう一つの物語があれば、
なんかも思った。
 
この映画の場合、「この世界の片隅で」と違って、
反世界が、存在している。
それは確かに在り、
どこかに在る。
 
でなければ、此の世界がある意味も失われるほどに。
夕鶴のつうも、羽衣の天女も、かぐや姫も、
想像上の物語の主人公たち。
反世界を胸に秘めて、此処に在る人の世を、
束の間生きる。
 
それは、「この世界の片隅に」根を下ろして
慎ましく且つ逞しく生きる生とは、
全く違った何ものか、なのだ。
彼方を廃し、此処を徹底的に至上とする生の普通さは
共感を得やすいが、
この映画の場合、異世界に生来する存在ゆえに、
根源的に、永遠に辿りつけないこの世の安住地。
遠ざかっていく時を知る存在。

 
 
 
「置かれた世界で咲きなさい」的な、
どんなに世界が悲惨でも、そこで立ち上がって、
ささやかで確かな幸福を見つけるという
「この世界の片隅で」の、すずさんのような、
地に生まれた花のような、しなやかな強さには無縁な、
反世界から来て時間を遡る主人公。
 
どんなに根を生やそうにも、絶対に無理な主人公。
ただ時間の端と端はつながっていて永遠に結ばれているとも言うのだが。