<ヤクザ国家の末路> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<ヤクザ国家の末路>

既存の核保有国はヤクザ国家に相違ない。核に依存する韓国もまた弱小ヤクザ国家である。日本もまた米国の核の傘に依存した段階から退廃への道を歩み始めたヤクザ国家の出来損ないだ。ただ、憲法9条ゆえにヤクザにもなりきれず、かといって堅気にもなりきれぬ半端者といえるだろう。同じヤクザの土俵に立っているから、どれほど国際貢献に尽力しても存在感を誇示できず、ゆえに自前の核を希求せずにはおれないのである。米国による核の傘を離れ、それでもなお核を持たぬ信念を貫くなら、日本は世界で最も誇り高く、気高い仕事をなしうることだろう。そのような国はいかなる恫喝にも屈することなく、いかなる精神汚染にも毒されず、いかなる強国からもその支配を受け付けぬに違いない。日米安保を方便として復興につとめてきたはずが、目的となってしまったがゆえに日本精神の見えざる退廃が広がったのである。

巷では失うことを恐れ、迫りくる死におののく人々であふれかえっている。目に見えるものはいずれ全てが失われてしまうというのに。平均寿命は世界一であるにもかかわらず、幸せに生きることが困難になってしまった人々の何と多いことか。政治がわるいから幸せになれないと人はいう。しかしながら真実は違う。我々一人ひとりが見えざる精神汚染を抱えているから、政治家や官僚もそのような次元でしか物事を判断できずにいるだけだ。
確かに、現状で日本はヤクザ国家への道を着々と歩んでいる。しかし、それは本来、日本のあるべき姿では決してない。伝統的な日本精神に目覚め、核と決別する真の勇気を取り戻すなら、日本は世界の歴史上、類をみない理想社会を実現しうるのだ。

理想を掲げぬ現実主義者など、ただの横着者である。真の現実主義者は、現状認識と将来の展望とを混同することはない。そして明確なビジョンを持つからこそ、その実現を信じて努力を惜しまないのである。国家のあるべき姿は2年や3年で形にすることなどできはしない。10年、20年、あるいは50年先のビジョンを描いて努力しなければ実現不能だ。世界規模のビジョンともなれば100年、200年を要するだろう。100年単位のビジョンを実現するには世代を超えた精神のリレーが不可欠なのだ。ゆえに、真の平和を実現するためには核と決別できる精神性の獲得が重要な懸案になるのである。

核兵器を生きる手段とする国に生まれる子供たちは思うだろう。核をもつのは、死なないためには仕方のないことだ。死ぬのは一番わるいことだ。人間、死んだらおしまいだ。自分が死んでしまうくらいなら、どんな卑怯も許されるのだと。死は敗北であり、敗北は死に値すると。それが伝統的日本精神の崩壊でなくて何だというのだろうか。私のいう伝統的日本精神とは、どれほど己が苦境に立たされたとしても、卑劣、卑怯な手段にうったえない精神のことだ。非道に身を落とすよりは死を選ぶ誇り高い精神のことだ。核兵器は、本質的に市民虐殺の道具であり、誇り高い武人の持つべき道具ではない。持たねば死ぬということを理由に持つことそれ自体、重大なる精神の退廃である。

精神の退廃した子供たちは、たった20年で成人し、精神汚染を周囲に撒き散らすことだろう。30年もあれば子供をつくり、さらにその子供たちが成人する50年先の精神汚染は取り返しがつかないレベルに達しているだろう。そのような人々の群れがいかなる国をつくれるというのだろうか。そのように退廃した国は、核攻撃を待たずして跡形を残さず消滅してしまうことだろう。わが国においても、既にその徴候がではじめているのは間違いない。
オリンピックにおいて、核を保有する国々の選手や指導者、審判にみられる信じがたい違反行為、スポーツマンシップに背く卑劣な行為の数々の根がどこにあるか、鋭敏な者ならば悟れるはずだ。わが国の国民が、あのような国の人々と同じようになってしまうことは断じて避けねばならない。

精神性の退廃が核自衛を国是とするのであり、同時に核自衛が精神性の退廃をもたらすのだ。日本がそのようなヤクザ国家にならぬために、核自衛などすべきではない。核をもちたがる精神性、あるいは核に頼ろうとする精神性に、その退廃が潜んでいるのではないだろうか。