<武人の心> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<武人の心>

核は、いかなる理屈を用いようとも、誇り高き武人の持つべき道具たりえない。核に頼る精神性の退廃を容認して国を残そうとしたところで、それはもはや形骸に過ぎまい。だが、武器を持つことそれ自体に反対するつもりはない。戦うことを否定したりなぞしない。ゆえに、核の否定は国防の否定では断じてない。護ろうとしているものの違いが手段を選ばせるだけである。

銃器は、その精神性において明らかに刀に劣り、砲は同じく銃器に劣る。発達した武器の使用は精神性の退廃と無縁ではいられない。そして、核を用いた我々の精神性は、もはや落ちるべきところに落ちたのである。
核が登場する以前、戦争にはわずかばかりの聖戦が残されていた。しかし、目的のためには手段を選ばずという精神的退廃の権化として核が登場したのだ。核に頼る以上、そこに聖戦の誉れなどあるはずもなく、生きながらえることに執着する下卑た獣のあさましき諍いがあるのみだ。
核に頼ってわずかばかりの平穏を得たとして、それが果たして長続きなどするだろうか。人類には核兵器使用の前科があるのだ。相手による報復不能を意図した核による先制攻撃を一国が成功させれば、核抑止など笑い話にすらならなくなってしまうだろう。今ある精神的退廃の行き着く先にそれがないとどうしていえるだろうか。

誤解を恐れずにいえば、核を持たぬことで国が滅びたとしても、私はそれでよいと思う。なぜなら、日本精神の滅びぬ限り、それは必ず世界に平和の種子を残すからだ。世界のいたるところに日本精神が芽吹くとき、我々は真の平和を手にするだろう。
未来を生きる子供たちのために残すべき世界が、互いに核の矛先を向けて脅しあう世界であってよいはずがないのだ。
核の脅威は、それを感じる相手にしか威力を持ちえない。ゆえに、我々が外交交渉の切り札に核を持っていないから煮え湯を飲まされてきたと考えるのは間違いである。それは全て核を恐れる、否、死を恐れる精神的退廃のゆえなのだ。命ということだけについていえば、核武装を選択したところで国民の命を危険にさらすことに何ら変わりはないのである。

そもそも、核に頼って残されるものとは一体何だろうか。それに頼って一体何が護られるというのだろうか。命だろうか。目に見える命など、放っておいても数十年で失われるというのに、そのために日本人としての誇りを捨てろというのだろうか。日本人としての誇りを捨てて生きる人々の群れが住まう国を指して日本と呼べるのだろうか。

確かに、非武装の延長にある安直な反核は武人の誇りを汚すものだ。武人が戦うのはその誇りのためであり、戦うことから逃げてその誇りを示すことなどできはしない。勝てない戦だからといって誇り高き武人が逃げ出したりはしない。勝てぬとわかっていても戦うのが武人なのだ。

とすれば、核がなければ戦争が不利になるだとか外交が不利になるだとかいうこともまた、臆病者のいいわけに過ぎず、武人の誇りを汚す言説に他なるまい。
勝つためだからといって武人がその誇りを捨てることがあるだろうか。誇りを捨てた武人の戦いにいかなる意味があるだろうか。そもそも、誇りを捨てた武人を武人と呼べるだろうか。
武人の誇りを汚すという点において、安直な核武装論もまた、安直な反核と大差はないのである。
核を持ってさえいなければ核攻撃を受けないと信じる安直な反核論者、核を持ってさえいれば核抑止が働いて核攻撃を受けないと信じる安直な核武装論者、どちらの言い分も浅はかであることこの上もない。