<心と痛み> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<心と痛み>

外来をやっていて感じることは、医者ならば誰もがそうなのかも知れないが、人の心と体は実によく相関しているということである。心の状態一つで、病は良くもなれば悪くもなる。特に、痛みについては本人の性格や、抱える心的ストレスが大きく影響しているのは間違いない。痛みは脳が感知する電気的信号であるため、脳のコンディションがその痛みを増幅もすれば軽減もする。それには間脳とよばれる部分が深く関わっており、心的ストレスが増大すれば痛みを感じやすくなることが明らかにされている。その上、長期間痛みが持続すると、障害部位が物理的に治癒していても、ささいなきっかけで痛みが再現されてしまうという。たとえば、障害部位に物があたる映像を見せられただけで痛みを感じるようになるのだそうだ。つまり、脳が痛みを作り出すようになるのである。

交通事故後の頚部痛、いわゆるムチウチの場合、日常の疲労で生じる肩こりまで含めて、何でもかんでも事故に関連づけて考える性癖は、症状を増幅してしまうことが多い。これは、先の脳のメカニズムによって説明可能であり、本人の感じる痛みに嘘はなくても、その痛みの大部分を自らの脳が作り出してしまう場合があるといえるのだ。そのような場合、早期治癒のためにいえることは、まさに「気にしないこと」であるのだが、このニュアンスを誤解なく患者に伝えるのは難しい。なぜなら、痛みについて「気持ちのせい」などと言おうものなら、たちまち患者の怒りを買うことになるからだ。
「だって私の痛みは本物です!」
「いえ、痛みは本物ですが、その痛みを作り出す原因が心にもあるのです」
説明を理解してもらえるか否かは患者側の理解力に左右されるが、「わたしをうそつき扱いした憎い先生」「わたしの痛みをわかってくれない先生」の烙印を押されて終わってしまうことがなきにしもあらずだ。
実際、被害者意識の強い人ほどこうした傾向は強く、また、説明に十分な理解が得られることも少なく、怪我の程度に比べて痛みは長引くことを実感する。
そこで、経験を積んだ医者ともなれば、いちいちまわりくどい説明をする手間を省き、精神安定剤(筋弛緩作用もあり、整形外科でも筋肉の緊張をほぐす薬として使われる)を処方して様子をみることも多い。その方が時間と労力を節約できるし、患者との間で無用なトラブルを抱えることもなくなるからだ。患者が医者をつくり、医者が患者をつくりだす悪循環がそこにあるのだが、この安定剤が奏功すれば、結果としては悪くないといえる。

痛みは、容易に人をうつ状態へと導いてしまう。抱える痛みそのものより、結果として生じた抑うつの方が重症である場合は少なくない。抑うつは痛みをさらに増大させる悪循環を生ぜしめる。従って、整形外科医といえども、心療内科的なアプローチが必要になることもしばしばだ。しかし、心の病の解決には、つきつめていけばいくほど、人は何のために生きるのかという哲学的命題を避けて通ることができない。この哲学的命題には確たる解答があるわけでもなく、何を信じて人生を納得するかという信仰の問題になってしまう。外来の限られた時間で人生観の仔細に立ち入ることができるはずもなく、結局、医者にできることは、患者の話をきいて、今ある自分を受け容れることを提案するにとどまらざるを得ない。そのような対応に感じる、満たされぬ思いのはけ口として、私はこのブログを綴ってきた。外来では決して言うことはできないが、それでも言ってしまいたいこと。それが私のブログである。