第592号今村城 | 城新聞

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-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.

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1477年、長尾景春の叛乱により山内上杉顕定らが今村城に逃れた説があることからそれ以前に築かれたようです。ネット上には、築城者は、那波宗俊(生没年不詳)によって築かれたという情報がいくつかありましたが、那波宗俊の息子である顕宗が1548年生まれということからどう考えても築城年数か築城者が異なっているかと思われます。

そんな少々心細い情報の今村城ですが、あの上杉謙信も一時滞在したこともあるそうです。1574年、謙信は後北条氏の軍勢に包囲された武蔵羽生城を救援すべく関東へ進出。ところが、利根川の増水に阻まれて渡河できず、そのまま北条氏政と対峙しながら、謙信は、今村城へ入り由良氏の居城である太田金山城攻めの用意を整えたそうです。その後、由良氏は謙信に降伏していますが、由良氏が今村城の城代に入ったようです。10年後の1584年、太田金山城を後北条氏が奪取しますが、その隙に那波顕宗がこの城を奪還したという伝承があり、この時期に近隣の国人領主と同様、那波氏も上杉氏から後北条氏に鞍替えしたかと思われます。1590年、後北条氏が滅亡すると、今度は、上杉景勝に臣従しますが、翌年、顕宗は、九戸政実の乱で討死して那波氏は断絶してしまったそうです。ただし、那波の血は後世に残っており、顕宗の息子の俊広が、上杉氏家臣で大江氏一族の安田能元の養子となり、のちに安田氏を継いでいます。


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現在は民家の脇に石碑と案内板があり、ここが本丸跡だとそうです。当時は、広瀬川の西側にある稲荷山を本丸とし、四方約400mの囲郭式の構造をもつ平城だったそうです。写真の地蔵さんは、本丸の東側で、コンクリ-トの上の部分には土居となっており、下には濠があるようです。



【近隣の高校】
群馬県立伊勢崎商業高等学校

通称「伊商」(いしょう)。本年度学校創立97周年を迎える商業の専門高校です。商業科、会計科、情報処理科の3学科からなる商業高校です。1年生は「くくり募集」による商業科7学級で、同じ教育課程で学習します。2年生に進級する際、自分の適性や進路希望に応じて3学科に分かれます。現在までの卒業生数は2万人を超え、卒業生の中には、大手メガネチェーン店JINS代表の田中仁氏もいます。