http://mainichi.jp/select/weathernews/archive/news/2012/03/02/20120302ddm041040144000c.html


「◇周囲が支え、春には進学

 「肩幅を狭め、襟元を平らにしましょう」。2月13日、宮城県石巻市渡波地区の借り上げ住宅の居間で洋裁師に声を掛けられ、市立湊中3年の伊勢知那子さん(15)は口元をほころばせた。母理加さん(44)が「AKBみたいにするんだもんね」と笑いながら話しかける。採寸してもらったのは紺のブレザーに灰色のスカート。重い脳障害で四肢が不自由な知那子さんは4月、その制服を着て県立石巻支援学校高等部の1年生になる。

 「ほんとうに危ないことばかり」。理加さんは振り返る。

 震災時、知那子さんは父直弘さん(52)に抱えられ、市立湊小学校に避難した。北上川の河口から約1キロ北にあった自宅は浸水。昼夜を問わず必要なたん吸引機は理加さんが担いできたが、経管栄養の管など毎日使う医療用具や薬は流された。小教室に高齢者ら約30人が身を寄せながら雪で冷え込む中、両親と次女佳那子さん(16)が交代で、三女の知那子さんの体をさすった。

 最大時1000人規模の避難者がいた湊小には当初、発電機も救援物資もなかった。

 避難3日目、知那子さんはヘリで石巻赤十字病院に搬送された。だが、処置の優先順位が低いと判断され、同行した佳那子さんとともに一晩で戻された。その時、吸引機のバッテリー残量は1時間弱。「せめて充電して。命が守れない」。両親は病院側に訴え、何とか急場をしのいだ。

 避難所から仙台市に出向く人がいると聞くと、知那子さんの元主治医宛ての手紙を託して医療品や薬を送ってもらった。綱渡りの湊小での生活は2カ月に及び、震災発生時に仙台市にいた長女奈那子さん(19)と顔を合わせることも困難だった。

 それでも耐えられたのは、支援団体を通じて事情を知った各地のボランティア団体が「知那子ちゃんのことが心配」と湊小を訪れ、風呂などの世話をしてくれた上、周囲の避難者の心遣いを感じたからだ。

 生まれつきあごの関節が硬く、ものを飲み込むのが難しかった知那子さんは1歳時、のどを詰まらせ心肺停止になり重度の障害が残った。

 小学校入学時、「周囲の子供と一緒に」との両親の訴えが実り、小・中とも普通学校に通った。避難者の多くは「孫の運動会で(知那子さんを)見てたよ」などと好意的で、日当たりのいい場所を譲ってくれたりした。

 災害時の障害者や高齢者をケアするため、国は災害救助法に基づき、既存施設の中から「福祉避難所」を指定するよう自治体に促している。だが、石巻市は当時、指定がなかった。震災6日後、ようやく2カ所に設置。ただし入所者の多くは高齢者で、次女佳那子さんの高校は遠く、急ごしらえで情報も入りにくい。一家はメリットを感じられなかった。

 知那子さんは1月19日、セーラー服姿で車椅子の上で姿勢を正し、支援学校高等部の面接に臨んだ。ほどなく合格が伝えられた。

 理加さんは避難生活について、障害者へのケアの準備不足を感じる一方、周囲の理解に助けられたことを感謝した。

 「地域に溶け込んできて、本当によかった」【野倉恵】

毎日新聞 2012年3月2日 東京朝刊」