加治屋町の史跡
九州史跡巡り旅行の、つづきです
加治屋町は、幕末明治に活躍した志士が数多く誕生した地です。
鹿児島中央高校の廻りを一周するだけでも、生誕地碑がたくさん見られます。
篠原国幹誕生地。
説明板には、
「若くして藩校・造士館に学び、和漢学を修め、戊辰戦争では薩摩三番小隊長として活躍。
明治5年陸軍少将となったが、明治6年征韓論に敗れた西郷隆盛にしたがい官職を辞し、鹿児島に戻った。
私学校設立と同時にその監督となり、子弟の養育に励んだ。
西南戦争では薩摩軍の一番大隊長として、田原坂の激戦を指揮したが敵弾に倒れ、
40歳の若い生涯を閉じた。」
というようなことが書かれています。
西郷さんの右腕のような人だったようですね。
村田新八誕生地。
「幼年時代から西郷を兄として敬いつかえました。
明治4年岩倉具視一行と外遊しましたが、明治7年帰国してみると、征韓論に敗れた西郷および郷党は帰鹿していました。
大久保に引きとめられましたが、「西郷さんの意見も聞かねば」と振りきり帰鹿し、その後、私学校で子弟の教育にあたりました。
西南ノ役では、薩軍の二番大隊長として奮戦しましたが、城山最後の日、西郷の死を見とどけてから自刃しました。」
(説明板より)
西郷さんの最期に立ち会った人です。
西南戦争、特に田原坂について調べていると、ちょいちょい目につきます民謡・田原坂の、「左手に血刀 右手に手綱 馬上ゆたかな 美少年」の“美少年”のモチーフは、彼の長男、村田岩熊だという説があるそうです。
井上良馨誕生地。
「19才で薩英戦争に参加し、沖小島砲台に配置されました。
明治元年海軍に志願、軍艦「春日」に乗りくみ、明治8年には「雲揚」艦長として江華島事件に遭遇し勝利を得ました。
西南の役では、官軍に属し「清輝」艦長として鹿児島湾に入港しました。
日清戦争、日露戦争では、佐世保横須賀、呉等の鎮守府司令長官を歴任し、戦後、軍事参議官になり、明治44年元帥の称号を賜りました。」
(説明板より)
大山巌誕生地。
説明板によりますと、「ナポレオン以来の戦略家」「ブルドックの如き猛将」などの評価がされています。
幕末よりもそれ以降の活躍のほうがクローズアップされる人物ですね。
幕末の逸話としては、血気にはやって寺田屋事件で謹慎を命じられたり、薩英戦争では“スイカ売り決死隊”に加わり、イギリス旗艦ユーリアス号に乗り込もうとしたりしているそうです。
スイカ売り決死隊って・・・ネーミングにインパクトありすぎですよね
文字通りスイカ売りに扮してイギリス艦に乗り込んで暴れようとしたようですが、結局は失敗しています。
東郷平八郎誕生地。
「維新戦争では軍艦春日丸に乗り組み、次々と戦に参加。
維新後は海軍の留学生としてイギリスに学び、帆船ハンプシャー号で世界一周を体験しました。
7年間の留学の最後に、グリニッジの造船所で日本軍艦の建造に立ち会い、新鋭艦で帰国。
その後は一生を海軍に捧げ、ロシアのバルチック艦隊を全滅させ、「東洋のネルソン」としてその名を世界に轟かせました。」
(説明板より抜粋)
やはり明治以降の活躍が有名ですね
吉井友実誕生地。
「幼少から学を好み、俊才といわれ、西郷・大久保等と提携し国事に関与しました。
安政3年(1856)大阪藩邸の留守居となり諸国の志士と親交を持ちました。
文久2年(1862)寺田屋事件のあと、島津久光のあと押しで幕政改革の勅命を届けに行く大原重徳にしたがい江戸城で談判を見守りました。
慶応2年(1866)薩長連合の推進につくし、倒幕をすすめ、明治維新後、司法・民部・工部・宮内の各省の要職を歴任しました。
明治14年、日本鉄道会社社長、明治17年伯爵を賜り、明治21年には枢密顧問官となりました。」
(説明板より)
軍事よりは政治に携わった人のようですね。
他にも周辺には、伊地知正治、山本権兵衛などの誕生地碑があります。
もちろん西郷隆盛、大久保利通の誕生地も、この加治屋町にあります。
九州新幹線始発地でもある鹿児島中央駅からはほど近い場所ですが、当時の薩摩の中心であった鹿児島城(鶴丸城)からは、少し距離があります。
当時は身分が上であるほど、お城の近くに住んでいたんですよね。
幕末は本当、上層部よりは、下からの“力”が原動力だったんだなぁ、と
いろいろ、考えるきっかけをもらったような気がします。