新作「ユースティティアは秤を捨てた」第一章~第二章草稿 | 作家・篠山半太の雑用紙(著述業・法学・政治学・語学・時事・映画評論・教養)

作家・篠山半太の雑用紙(著述業・法学・政治学・語学・時事・映画評論・教養)

作家・篠山半太が著述業・法学・政治学・語学・時事・映画評論・教養などについて雑感を書き留めるブログ。


第一章 月曜日は憂鬱な日

 神奈川県横須賀市本町二丁目
 平成十年一月十九日(月)



「せっかくのお祝いなのに、ソフトドリンクかぁ……マックじゃないんだからさ」
「当たり前だろ、こっちは学ラン着てるんだ。お酒なんて頼めるわけがない」
「でもまあ、おめでとう。最近ほとんど寝てなかったもんね」
 仕事帰りのハル姉はそう言って、ウイスキーグラスを僕のコップに合わせた。
 解答速報を見る限り、昨日のセンター試験は上々だった。この分だと、志望校の足きりは免れそうだ。
 ハル姉――後藤田(ごとうだ)ハルはそう憎まれ口を叩きつつも、仕事と受験勉強を両立させた僕をねぎらってくれた。ここはハル姉行きつけの、どぶ板通りにあるダイナーだ。
 姉で部下、部下で姉。それが僕――後藤田正義(ごとうだ・まさよし)とハル姉の関係だ。言葉にすると簡単だが、どうもプライベートと仕事の間での使い分けに困る。
 ハル姉はウイスキーグラスを飲み干すと、ギネスをジョッキで頼んだ。どう考えても順番が逆じゃないかと、個人的には思うけど……。
 BGMは、オールディーズのジャズ。名前は分からないけれど、僕にだってそれくらいは分かる。
 金管楽器のリズミカルな音色が、受験を控えた僕を鼓舞しているかのように思えた。
 と。
 店の外で、何やら騒ぎが起こっているのに気づいた。店のマスターが、鋭い視線を声の方に投げる。
 慌ててハル姉と外に出ると、路地裏の手前で女性がへたりこんでいた。
 視線を路地裏に投げると、一人の男がぐったりと倒れこんでいる。
 動いている素振りはない。表通りからは物陰になるので、確たることは言えないけど……。
 思わず、男のそばまで駆け寄る。路地裏に入ると、血液の独特の匂いが鼻腔を刺した。
 暗闇の中に目を凝らすと、首に一発、脳天に一発――。目は見開かれたままで、呼吸はない。
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
 何度か呼びかけ、肩を揺する。だが彼……いや、被害者から反応は返ってこなかった。
 体には、まだ温もりが残っている。ならば僕がするべきことは――ただ一つだ。
「意識無し、呼吸無し! ハル姉、119番に電話して! 僕は心肺蘇生法をやっておくから!」
 コートの中から手袋を取り出し、現場の状況を乱さないように心臓マーサージを開始する。
 およそ一秒に二回のリズム、胸骨の中心部を真上からリズミカルに……。
「くそ! 動けッ!!」
 感情にまかせて言葉を荒げるも、男はその反応に応えない。
 額に汗が浮かんでいるのを感じる。僕はそのまま、救急車が到着するまでその行為を続けた。


 救急車に遅れてパトカーが到着すると、僕は住所と名前、そして身分を県警の機動捜査隊に示した。
 僕の『本業』については、まだ明かすつもりはない。明かしたほうが明らかにいい状況になったら、そうすればいいだけの話だからだ。
「ふうん……定時制高校の生徒ねえ? で、お姉さんと食事を摂っている時に、悲鳴に気づいて救命措置を行った、と」
「間違いありません」
 消防は被害者を病院に搬送しようとしたが、殺人事件と判断した警察がそれを止めた形になった。そのあたりは、職業倫理の差だろう。
 第一発見者と言うのは、目撃者半分、被疑者半分で対応されることが多い。今回は図らずも、そのケースに当たってしまったらしい。
 最初に悲鳴を上げた女性は、やっかいごとを恐れて現場を離れたようだ。
「詳しい死亡推定時刻は割り出してみにゃわからんが……事件の認知は、午後八時二分二十九秒。これはお姉さんが警察に電話を入れた時間だ」
「午後七時半ごろから、僕と姉はあのダイナーにいました。そこからのアリバイは、マスターが証言してくれるはずです。それに僕が触れたとき、死体はまだ暖かかった。殺されてそう時間は経っていないと思います」
「まあ、こちらとしても君が実行犯だと思っている訳じゃない。しかし心臓マッサージの際に手袋をはめたのは? 現場を保存してくれたのはありがたいが……その時点で死んでいたという認識なら、なぜ救命措置を?」
 その言葉に、僕はカチンときた。こっちは善意でやってたのに……その言い方はないだろう。
「日本の法律上、死亡診断を出せるのは医師だけです。そして僕は医師免許を持っていない。たとえ致命的な外傷があったにせよ、それだけで助かる見込みのない人間だと断定することはできません。ならば一縷の望みに賭けて命を救おうとするのは、人として当たり前でしょう!?」
 僕の剣幕に、パトカーの中で供述調書を取っていた刑事の顔色が変わる。
「君は……一体何者だ?」
「今はまだ、それを話す時期ではありません。それよりも、僕が被害者を発見したときの状況を取らなくていいんですか?」
「あ、ああ……。じゃあとりあえず、パトカーの外に出て」
「分かりました。その前に少し、電話をかけさせてください」
 言われるがまま、苛立ちを乗せた手つきでパトカーの扉を閉める。そして、ポケットからPHSを取りだした。
「支部長、まだ残ってるかな……」
 短縮ダイヤルから呼び出した番号の応答を待つ。しばらくして電話が繋がり、僕は事情を『上司』に説明することにした。


「存分におやんなさいよ。本件の担当は、捜査から公判まで君に任せる。こっちが第一発見者なんて、滅多にないケースだよ? どっちみちウチに回ってくる話なんだしさ……ま、よろしくやって頂戴」
 オネエがかったいつもの言葉で、支部長はそれだけ告げて電話を切った。……参ったな。担当まであっちで決められてしまった。
 もし大学に受かれば、三月末で今の仕事はやめることになる。引き継ぎ事案にはしたくないけれど……まあ、無理だろうな。
「お待たせしました」
 PHSをしまい、僕は警察の実況見分に立ち会うことにした。
 飲食店や土産物屋が建ち並ぶどぶ板通りは、『基地の町』横須賀の象徴だ。地番で言うと、横須賀市本町一丁目から三丁目にかけて。もともとは米軍相手の商売が軌道に乗って、日米が混ざった独特の文化を作りあげたらしい。
 被害者が発見された現場は、どぶ板通りのちょうど真ん中……二丁目の路地裏だ。
 僕は手袋をはめ直して、警察が張った警戒線――立入禁止のテープをくぐった。


 失礼極まる言い草ではあるけれど、被害者はあんまり柄のいい風体の男ではなかった。
 上下不揃いのジャケットに、着崩したガラ付きのシャツ。ネクタイなんてもちろん締めていない。
 腕時計は……ロレックスか、金回りは良さそうだ。24Kか18Kかは分からないけど……。
「おいコラ、小僧! 現場を荒らすんじゃねえ!!」
 と、実況見分に当たっていた刑事の一人が怒鳴りつける。
「す、すみません」
 ……危ない危ない、ついいつもの癖が出るところだった。
「被害者の倒れていた位置は、動かしていないね?」
「はい」
「じゃあ写真撮るから、被害者のほうに人指し指を伸ばしてくれ」
 ……アレだ。警察の実況見分でよくやるアレ。テレビとかだと被疑者が腰縄つけてやるイメージが強いけれど、刑事実務上は目撃者に協力してもらうことも多々ある。
 僕は仏頂面で被害者を指さすと、ストロボでくらんだ目をしばたたかせた。


 ……と。事件現場の入口で、スーツ姿の男たちが警官隊ともみ合っているのが目に入った。
「横浜地検、特別刑事部です!!」
 張りのある男の声で、慌てて連中に目を凝らす。
 ……なるほど。確かに胸には検事バッジ、そして検察事務官のバッジをつけている。
 この時間の事件にも関わらずあの人数といい、彼らが本物の特別刑事部であることは疑いようがない。
 特刑(とっけい)は汚職とか脱税とか背任とか、いわゆる経済・政治犯罪のスペシャリストだ。特に政治絡みの事件では、警察に頼ることなく独自に捜査をすることで知られる。
「特別刑事部……? 特捜部なら知ってるけど……」
「そもそもなんなんだよあいつら、事件の初動捜査は警察が原則だろ」
 警官達が、ひそひそといぶかしげな言葉を交わす。知らないのも無理はない。ニュースで出てくることなんて、ほとんどない部署だからな。
 特刑は、東京地検などにある『特別捜査部』のミニチュア版と言えば分かりやすいかもしれない。だいたい、政令指定都市を持つ地検に置かれることが多い。
「道を開けろ! 検察側の指揮権で、お前らに命令出してもいいんだぞ!」
 その物言いに、僕は気色ばんだ。何も、彼らの態度が横暴だったからじゃない。彼らの言い分に、法的合理性がなかったからだ。
 僕は特刑の連中の所まで歩み出ると、慇懃な口調で口を開いた。
「これはこれは本庁のエリートさんがた、ご精が出ますね?」
「……なんだ? このガキ……」
 いぶかしむような目つきに、僕から調書を取っていた刑事が慌てて間に入る。
「いえ、この少年は第一発見者でして……民間人ですから、検事さんがたはお気になさらず」
「ところが、そうも行かなくなりましてね。ちょっとハル姉、こっち来てくれるかな?」
 僕の声に、遠巻きに事態を見守っていたハル姉がこっちまでやってきた。
「試験の帰りゆえ、検事バッジは持っていませんが……これが僕の、昼間の本業です」
 言って、パスケースから身分証明書を取り出す。遅れて、ハル姉もハンドバッグから身分証を取りだした。
「横浜地検横須賀支部、検察官検事。後藤田正義です。本件の担当検事でもあります。もし現場検証に立ち会いたいのなら、本職を通してからに欲しいのですが」
「同じく、横須賀支部後藤田係事務官、後藤田ハルです」
 僕の言葉に、警察も含めて周囲が言葉を失う。
「な……」
「け、検事……? こんなボーヤが……?」
 一人の検察事務官が、そんな言葉を口にした。
 ああ、まずい。僕自身は慣れっこなので気にしないけど、ハル姉はそういう人間じゃない。
 いぶかしげな目を僕に浴びせ続ける事務官に、ハル姉は電光石火のビンタをお見舞いした。
「アンタ、事務官の癖に検事の任用資格も知らないの!? 検察庁法第一条から最後まで、目を通してみなさい。司法修習終わってたら、採用の対象にはなるの! たぶん高校に在籍している検事なんて、日本でも正義だけかもしれないけど……」
 ……やっぱり、こうなったか。
「よしてくれ姉貴、僕は気にしてない。それよりも僕は……刑事手続を無視して、特刑の皆さんが横紙破りをしようとしたことが我慢ならない」
 僕は背筋を伸ばすと、警察への指揮権を口にした検事を指さした。
「この事件は横須賀支部管内で起こった殺人事件、今の時点では経済犯罪にも政治犯罪にも該当する要素は見られません。つまり警察への一般的指示権、一般的指揮権および個別的指揮権は、主任検事である僕が独占していることになる。もしも特刑が扱う犯罪に関係するのなら別ですが……何かお探しものでも?」
「……ここで言えるような話じゃない。本庁で、正式な引き継ぎと要請を行いたいのだが」
「その手には乗りませんよ。検察官は独任官庁、事件の捜査については上司といえども口を出せない、そんなことは百も承知でしょう?」
 そう。たとえ上司に当たる支部長と言えども……検察官の捜査指揮は、担当検事が全てを判断し、責任を負う。
 経済犯罪や政治犯罪が専門の特刑部であればなおのこと、ただの殺人事件に介入する権限も理由もない。
 特刑の検事達は、ぐぬぬと喉を絞った。
「それ以上そこに留まるようならば、初動捜査に対する撹乱行為とみなします。警察に対する検察の指揮権について、復習することをおすすめしますよ?」
「……分かったよ、支部のボーヤ。そこまで言うのなら、今回は引き上げる。だが日を改めて、捜査資料に対する『要請』をうちの部長から出させて貰う」
「お待ちしています」
 僕が頭を下げると、特刑の連中はコートの裾を翻して去っていった。
 と、僕の調書を取っていた機動捜査隊の刑事が、僕のほうにやってきた。
「さっきは助かりました、ありがとうございます。それにしても検事さんだったとは、人が悪い」
「学生証は見せましたからね。この服ですし。僕の昼の仕事を訊かれていたら答えましたが、そうではなかったので」
「ずいぶん若いですけど、大学は……行ってませんよね?」
「大学はまだ行っていません。大検は通っているので、今年受かれば行きますけどね。中学を出て司法修習を終え、検事になりました。今は定時制高校に通っています」
 僕の非常に珍しい経歴を披露すると、彼は目の色を白黒させた。
「……ということは司法修習が二年だから、早くて十七歳。今の時期だと、まあ十八歳。それに司法浪人の年数を足した歳……ということになりますか」
「まあ、そんなところですね」
 検事が事件の現場を訪れるというのは、非常に稀なケースである。
 検事の仕事の九十九パーセントは、デスクワークだ。たまに実況見分をすることもあるけど、それは警察からの資料が不十分だった場合とかに限られる。
 でも今回は、普通の殺人事件じゃなかった。第一発見者が、たまたまその場所を管轄する支部の検事だったのだ。
 繰り返しになるが普通の殺人事件なら、わざわざ検察が出張ることもない。
 だけど、そうするとますます分からない。ただの殺人事件に、なぜ特刑が出張ってきたのか。
 この殺人事件について、検察上層部は何か特別な事情を知っている。その特別な事情ゆえに、特刑が出動することになった。そう考えるのが自然だろう。
 僕は頭の中で状況を整理すると、PHSのアンテナを伸ばして支部長に連絡を取った。
 確かに検察官は、一人一庁の独任官庁だ。――けれども検察官一体の原則が他方で定められている以上、スタンドプレーは許されない。
「うん、後藤田君? え、特刑が? 冗談はやめてよ、普通の殺しじゃないの?」
「普通か普通じゃないかは、これからの捜査を見てみないことにはなんとも。それで特刑が臨場する件に関しては、横須賀支部に連絡はなかったんですね」
「うん、なかったよ。一応僕のほうとしてもさ、本庁に確認はしてみるけど。けんもホロロだろうねえ。とにかく、警察の初動捜査の邪魔だけはしないで。検察に鑑識や聞き込みのノウハウがない以上、そのあたりは警察からの報告待ちでいいから。ただ、どんな不審な点も見逃さないでくれたまえよ」
「了解」
 僕ら検察官は公判維持のプロであって、捜査のプロじゃない。そこが検察と警察の絶妙な棲み分けなのだが――その例外が、経済犯罪に関する特捜や特刑の捜査だ。
 だからこそ、引っかかって仕方がないことがある。特別刑事部が、この事件に首を突っ込もうとした理由だ。
 正式な回答は期待できないだろうから……今のところは様子見しかないな。


 初動捜査を始めた機動捜査隊の話では、事件の概要は次のようなものだった。
 被害者の名前は諸葛賢哲(もろくず・たかあき)。免許証によると朝鮮籍。本名は同じ漢字で、『チェガル・ヒョンチョル』と発音するらしい。
 中国人や韓国人は名字が一文字だと思っていたけど、例外もあるようだ。
 性別は男性、年齢は四十九歳。職業はパチンコ店経営。死因は射殺。口径と銃の種類については、鑑識による鑑定待ち。
 いまも路地裏の犯行現場では、遺体の状況もそのままに、カメラのフラッシュがひっきりなしに焚かれている。
 遺留品も何もない、しごく単純でやっかいな事件。僕にはそう思えた。少なくとも、警察のマンパワーなしでの被疑者確保は絶対に不可能だ。


「遺留品は……携帯電話、鍵、ハンカチ、ティッシュ、財布、手帳、筆記用具、腕時計、名刺入れ。その他カード類。それで全てです」
 機動捜査隊の刑事が、僕に簡単な検証結果を伝えてくる。……公務員というのは、とにかく下に強く、上に弱い生き物だ。
 さて、彼ら特別刑事部の目的は一体何だったのだろうか?
 特別刑事部が、ただの殺人事件に介入する権限も理由もない。逆に言うとこの事件は、特別刑事部が動くに足る理由を持った事件だということだ。
 パチンコ店経営ってことは……やっぱり一番考えられるのは、経済犯罪の関係だろうな。でもそれだと、彼らは一体『何』を探していたんだ……?


 と、機動捜査隊の隊長が僕に耳打ちしてきた。
「モチはモチ屋、得意分野を弁えないああいった検事さんは時折おられますが……失敬」
「お気になさらず。こちらこそ、地検の一員として謝罪いたします。しかし複数人、しかも特別刑事部ということになると……普通の事件じゃないでしょうね」
「そこまでは、現段階では判断がつきかねます。手帳の記述については、コピーを取って送っておきます」
「頼みます。ちなみに今日のスケジュール欄には、何か書いてありましたか?」
「十九時三十分、××……とだけ。××の意味はまだ分かりません。それと鑑識からの情報ですが、殺害に使われた弾丸は9ミリパラベラム弾。凶器がなんであったのかは、これから科学捜査研究所で調べます」
「なるほど。名刺入れに、本人以外の名刺は?」
「何枚かありました。暴力団関係のものも。被害者がマル暴のリストに載っていないか、確認する必要がありますね。対人関係の手がかりになるかもしれないので、そちらもコピーを回しておきます」
「よろしくお願いします。それと一応、被害者のお金の回りも洗ってみてください。僕の係の直通電話は、こちらになります」
 僕はポケットから名刺を取り出すと、いかにも刑事といった風情の隊長にそれを渡した。


         ▼


 捜査予算について支部長と掛け合った僕は、とある決断をした。柔軟性のある上司で、こちらとしても助かる。
 支部長は、切れすぎたがゆえに主流派から外された検察官だ。特別刑事部が何らかの意図をもって今回の現場に来ていたとしても、彼らのサイドに立っているはずのない人物である。
 家に帰ってバイクを駐め、僕はここ一年ほどの『相棒』――クラスメイトの繭川巴(まゆかわ・ともえ)にPHSで連絡を入れた。
 彼女も僕と同じ定時制の生徒で、僕以上に複雑な経歴を持っている人物だ。
 昼間の仕事は、探偵事務所の調査員。いわゆる私立探偵だ。彼女もやっぱり僕と同じように大検を受け、今年の春にはどこかの大学に進学する予定らしい。
 家の前で待っていると、オンボロのパジェロミニが僕の前に止まった。
 パンツスーツにネクタイという、目立たないんだか目立つんだかよく分からないファッション。
 切れ長の瞳に、髪型は古めのワンレンショート。
 彼女は僕より年下で、今年の七月に免許を取ったばかりだ――って、
「おい、繭川。若葉マーク忘れてるぞ」
 コンコンと、ボンネットを指先で小突く。一応こっちは、現職の検事なんだぞ……?
 運転席に座った繭川はハンドルを回し、ドアウインドウを開けた。
「交通法規は守っていますよ、後藤田検事どの?」
「守ってないだろ。初心運転者が初心者マークを貼っていないこと自体、道交法違反だ!」
「……分かりました、貼りますよ。貼ればいいんでしょう? それで、こんな時間に私を呼び出した用件は?」
 繭川は助手席のドアロックを解除し、僕に乗れと促した。
 助手席のドアを開き、ほとんど二人乗りの車体に体を滑り込ませる。繭川は申し訳程度に、初心運転者標章をボンネットの片隅に貼った。
「洗って欲しい対象者がいる。名前は諸葛賢哲、在日朝鮮人。パチンコ店経営だ」
「ほう……?」
「今ごろ、県警の記者クラブで事件が記者発表されていると思う」
「事件……現段階で私に連絡があったということは、被疑者というわけではなさそうですね。被害者が乗ったのは救急車ですか、それとも霊柩車ですか?」
 相変わらず、嫌みったらしいな。ブラックジョークにもなっていないぞ。
「救急車から監察医のところに行って、たぶん司法解剖になる。霊柩車はそのあとだ。いずれにせよ、もうこの世にはいない」
 言って、被害者に関する走り書きのメモを繭川に手渡す。
「これは君の事務所に対する、横浜地検横須賀支部からの正式な依頼だ。詳しくは明日の新聞を見て欲しいが、被害者は今日の夜殺された。そして手帳のスケジュール欄には、十九時三十分の時刻に××の二文字。まだ写しは回ってきていないが、名刺入れには暴力団の名刺。身辺調査の上、君の見解を聞かせてほしい」
 繭川は黒手袋でアゴを支えると、おもむろにこちらに顔を向けてきた。
「死因は?」
「射殺だ。警察は9ミリパラベラム弾……とか言ってたな」
「パラベラムという情報が間違いないのなら、暴力団関係の線は薄いと思いますよ?」
「……どういうことだ?」
 僕は思わず、運転席に身を乗り出す。彼女は前の職業柄、銃器のたぐいには詳しい。
「暴力団がいま主に使っている拳銃は、トカレフとマカロフが主流です。トカレフの口径は7・62ミリ。マカロフは9ミリですが、マカロフ弾という別の弾丸を主に使います。仮に暴力団が関係した動機で殺されたのなら、誰がやったのかを暗に示すため、使い慣れている銃を使う可能性が高い。9ミリパラベラムということになれば……そこらのヤクザが扱う商品ではありません」
「じゃあ……その弾を使っている主な組織はどこだ?」
「西側各国の軍で多く使われています。アメリカのM92F、自衛隊の9ミリ拳銃、韓国のK5……。私も前の仕事では、M92Fを使っていましたよ」
 僕はそこで、ただの殺人事件に特別刑事部が出てきた理由が何となく分かってきた気がした。この事件が、ただの暴力団関係の事件じゃなかったからだ。
 だけどそれだけじゃ、特別刑事部が出てくるにはちょっと弱い。もう少し状況証拠がほしいところだな……。
「後藤田君。これは念のためですが……現場付近で青ナンバーの車が事件発生当時に目撃されていなかったか、調べておいてもらえませんか?」
「青ナンバー? だって車なら、ナンバーは白か緑か黄色か黒だろ? 在日米軍の車だって白ナンバーだ」
「……いえ。例外があります。外交官が使う車両に交付される、外交官ナンバー。あれは青ナンバーです」
「それがもし目撃されていたら、どういうことになる?」
「ややこしいですね。日本の捜査機関がうかつに動けなくなる代わりに、手帳に遺されていた二つの×の意味が分かります。ただ……その仮説がもし正しかったとしたら、今度は暴力団御用達の拳銃を使わなかった意図が分からなくなります」
「……どういうことだ?」
 僕の問いに、繭川は唇を吊り上げ、人指し指と親指をモミモミとこすりつける。
「そこからは有料情報ですね。ウチは報酬分の調査はしますが、逆に言うとそれに見合った調査しかしません。零細の探偵事務所にとって、人件費が経費のほとんどですから」
 ……商売人だな。逆に言うとそこが、公立探偵である僕ら捜査機関と、私立探偵の違いということだ。
「報酬については、上司に掛け合ってみる。割引仕事で片付けられちゃたまらないからな」
「色をつけて頼みますよ」
「分かった。ただし君及び君の事務所に何かがあっても、こちらとしては一切関知しない。ところで今回はかなり早く着いたけど、外に出ていたのか?」
「ええ。三浦市で一年前に起きた交通事故の調査です」
「……それ、警察の仕事じゃないのか?」
 僕は腕を組み、私立探偵が交通事故の調査に乗り出すケースを考えてみる。一年前……交通事故……ん?
「ひょっとして、単独事故で被害者が行方不明とか?」
「さすが、司法試験を通っただけはありますね。お察しの通り、保険金絡みですよ。一年、というところに引っかかりましたね?」
「……ああ。危難失踪の調査だろ? 普通の行方不明なら七年、事故や戦争の場合は一年で失踪宣告が出せる……つまり、法的にその人間は死んだことになる」
「生命保険会社から依頼がありましてね。本当に死亡事故で間違いないのか、これから実況見分に行くところです。ちょうど人手が足りないところでした。よければついてきてもらえますか?」
「構わないが――探偵としちゃ失格だな。守秘義務って言葉は、おたくの業界にはないのか?」
「それはお互い様でしょう? 手伝ってくれたら、それなりの割引はしますよ?」
 ……仕方がない。支部長に無理を言って探偵事務所に依頼を出す手前、少しでも経費は抑えたいところだ。
 僕はシートベルトを締めると、座席を倒して仮眠を取ることにした。


         ▼


 現場のガードレールは、ちょうど車一つ分だけ新しいものに替わっていた。
 事故を起こした車は、かなり古いトヨタ・ハイエース。オートマ車だ。車の重さとしては、かなり重い部類に入る。
 下り勾配の直線から連なる、右カーブ。被害者の車は、そこを曲がり損ねた形になる。かなりの高さがあって、下は海沿いの崖だ。ひとたまりもないだろう。
 警察が取った事故の記録を見る限り、不自然な点は特に見あたらない。
 危難失踪による生命保険金の支払いというのは、僕が知る限りでも珍しいケースだ。だからこそわざわざ、探偵に調査を依頼したんだろうな。
「で、繭川? この事故のどこに不審な点が?」
「居眠りや飲酒運転なら、まだ納得もいきます。ですがこのカーブ……よほどのことがない限り、ガードレールに突入はないでしょう?」
「被害者の足どりは……君のことだから、もう洗ってあるんだろうな」
「はい。事故当日の基地の営門通過時刻に、記録がありました。そのときの言動に眠気は認められず、事故が起こった時刻から逆算して居酒屋に寄っている時間もない。そもそも被害者は、お酒を全く飲めなかったそうです」
「基地……って、まさかこの被害者……」
 繭川の父上は、海自横須賀基地のお偉いさんだ。さてはこいつ、親の威光で海自の内部資料調べたな?
「海上自衛官ですよ。面識はなかったそうですが、私の父の部下に当たります。イージス艦『きりしま』機関担当、二等海曹・榎本淳也(えのもと・じゅんや)という人物です」
 僕は繭川から渡された資料のコピーから、いかめしい面構えの写真を取りだした。
「単独事故、ねえ……運転していたのは彼に間違いないのか?」
「自衛官は入隊時に、指紋を取る規則があるんですよ。ハンドルを最後に握っていたのは、間違いなく榎本二曹本人です。それに割れたガラスからも、榎本二曹の血液が検出されました。フロントウインドウから海に投げ出されたものと、私は見ています」
 まあ、そういうことなら話のつじつまは合うけれど……ん?
 僕は運転席がグシャグシャになった水没車両の写真を見て、とりとめのない違和感に駆られた。
「繭川、灯りあるかな? 懐中電灯でもライターでもいいんだけど」
 無言で渡された懐中電灯で、車体後部のフックを照らす。そこで僕は、違和感の正体にやっと気づいた。
「ここを見てくれ。この車、ずいぶん年季入ってるけど……後ろのフックだけ新しいぞ」
 そう。僕が違和感を覚えたのは、まさにそこだった。車の後ろについているフックだけ、色合いが違ったのだ。
 それに……おかしいのはそれだけじゃない。フックに、何か擦れたような黒い痕跡がある。
「まだ乗るつもりだったから、古くなったフックだけ交換したのでは?」
「それはないだろ。写真を見る限り、ブレーキランプのあたりもかなり曇りが出てる。フックを変えるなら、それより先にランプカバーを変えるはずだ」
「確かに……」
「こんな状態の車でフックを交換する理由があるとしたら、ただ一つだよ。フックに重い荷重をかける予定ができた。だから交換した。それ以外に考えられない」
「だとすると……この黒い痕跡は?」
「これは、あくまで仮定の話として聞いてくれ。ただ、この筋書きなら『奇妙なフック』の説明はつくんだ」
「お伺いしましょう」
 僕はコホンと咳払いを一つすると、自分の推理を話し始めた。
「まずこのハイエースの後ろフックと、直線部――つまり坂の上のガードレールの根本をロープで輪っかに結ぶ。そしてエンジンをかけて、クリーピングと車重で緩やかにロープを展張させ、最後にアクセルペダルをふかした状態で固定する。具体的には……そうだな、タイヤが空転しない程度に踏み込めるものを、アクセルの上に載せればいい。そうすればブラックマーク、つまり路面とタイヤの摩擦痕も残らない。最後にロープを切れば、二トンのハイエースは重力に従い、下り勾配を一気に駆け下りる」
「アクセルに乗せる重り……しかし、そんなものは車内に残っていませんでしたよ?」
「氷だよ。ドライアイスなら、より望ましい。運転席が水没した時点で、証拠は無限希釈の海に流れていく。ガラスが割れている以上、比重の軽い氷は海水に浮かぶだろうしね」
「なるほど……つまりフックに残っているこの痕跡は、ロープを切ったときの摩擦痕だと?」
「そういう話なら、つじつまは合うんだ。ガラスの血痕は、注射器から抜いたものを内側から吹きかけておけば済む。その上でロープを切る前に外からハンマーか何かで割れば、衝撃で割れたように見えるだろ?」
「なら――この事故が偽装自殺である可能性があるということですね?」
「そういうことだ。目的は、まだ現段階ではなんとも言えないけど……もしこの推測が正しければ、たぶんガードレールの根本に……フックと同じような痕跡が残っているはずだ。他の車と繋げるのも考えたけど、それだとどう考えてもブラックマークが残るんだ。だからその線はない。事故の時に路面のブレーキ痕は確認するだろうけど、途中のガードレールの根本なんて見ないだろ?」
「それを探すのが、とりあえずの私の仕事になりましたか……。ちなみにですが、もしも被害者の生存が立証できた場合、失踪宣告は成立しませんよね?」
「もちろんだ。たとえ失踪宣告が出たあとでも、さかのぼって取消になることもある」
 だけど……妙な話だ。日本社会は戸籍社会。税金も社会保険も、それに基づいてシステムが組まれている。完全に社会に痕跡を残さず生きていくのは、そう簡単なことじゃない。もし被害者が今も生きているとなると、被害者は何の目的で自殺を偽装し、今はどこで何をしているんだ……?
 繭川は手帳に何かを書き留めると、僕におもてを返した。
「貴重な参考意見、ありがとうございます。事故死と偽装自殺の両方の線で、この件は調査してみようと思います。お礼と言ってはなんですが――」
 と、手帳のページをちぎりとり、僕に手渡す。そこには達筆な筆記体で、double crosserと書いてあった。
「……これはどういう意味だ?」
「裏切り者、という意味のイディオムです。チャップリンの『独裁者』でも腕章に使われているマークですよ。今夜の殺人事件の被害者は、十九時三十分、彼が『裏切り者』と認識している人物と接触していた。私はその線で、身辺調査をやってみようと考えています」
 思えば。
 僕はこのとき、考えもつかなかった。
 僕が担当するどぶ板通りでの殺人と、繭川が調査する交通事故。
 全く関係ない二つの出来事が、ミッシング・リンクで結ばれていようとは――



第二章 火曜日は始まりの日


 神奈川県横須賀市 第一護衛隊群司令官舎
 平成十年一月二十日(火)


「確かに現場で発見されたハンカチからは、クロロホルムとあなたの体液が検出されました。けれどそれこそが、私の疑いを決定的なものにしたのです」
 センター試験の自己採点を学校に提出してから、私は去年関わった事件の覚え書きをまとめていた。
「なぜならクロロホルムで意識を失わせる場合、最低でも五分間は吸引させる必要があります。そんな時間があったなら、たとえショックで逆行性健忘症を起こしたにしろ、抵抗した痕跡がどこかしらに見られるでしょうし、口や鼻の回りにはクロロホルムそれ自体による爛れが残ります」
 誰に提出するでもない、私だけの備忘録だ。私個人の事件簿、と言ってもいい。
 『彼』はこの手の事案に決まって絡んでくるけど……彼の場合は捜査が『仕事』だから仕方がない。むしろ、筋の見立てでは私より先を行くことも多い。
 私がワトソンになったこともあるし、彼がなったこともある。私達は、そういう持ちつ持たれつの関係だった。
「自殺した犯人とされる彼女は、薬剤師です。クロロホルムを使うより、窒息や脳震盪のほうが気絶させやすいことは知っていた可能性が高い。よしんば知らなくても、薬効と必要量を確認するのは薬剤師の職業病。犯行にクロロホルムを使うなど、ありえない話です。――つまり遺留品そのものが、真犯人の存在と正体を示唆していた。そういうことです」
 私はそこでペンを置き、一年ほど前まで立っていた戦場の記憶を思い起こした。
 私達は正規軍ではなかったため、化学兵器禁止条約に縛られなかった。だから、私も毒物の知識をある程度持っている。前回の事件では、幸か不幸かそれが役に立った形になる。


 ――コントラクター。
 あの会社では私達のことを、そう呼んでいた。


 南アフリカに本社を置く、『エグゼクティヴ・アウトカムズ』。通称EO社。マーセナリーズではなくプライベート・ミリタリー・カンパニーと呼ばれる、低強度紛争の時代に特化した傭兵。それが私の前職だ。
 今の傭兵稼業は、昔みたいな荒くれ者のイメージじゃない。
 正規軍を兵站から訓練までサポートする、立派なビジネスだ。ソ連が地図から消えた今、大規模戦争のリスクは限りなくゼロになった。むしろ現代の戦争は戦闘やテロといった、小規模なレベルにまで細分化されている。
 正規軍は普通、国同士の戦争を想定して編成されるものだ。だけど実際に最も多いケースは、この時代だと内戦。そこの需給ギャップを埋めるのが、民間会社であるPMCだと考えればいい。
 幹部自衛官である父の紹介で、EO社には二年間在籍していた。もちろん、帰国したあとはEO社に関する報告を父に上げた。EO社としても在外邦人救出など、自衛隊が活動できないエリアでの顧客として日本政府を想定していたらしい。
 現職の公務員を国外の紛争に関わらせるのは、この国では厳しい。そこで父が苦肉の策として白羽の矢を立てたのが、高校入学を控えた私だったというわけだ。
 断ってもいい、と父には言われた。けれども私に断る理由なんてなかったし、何よりもこの話を聞いたとき、私には分かった。
 私は、旅をする運命にあるのだと。
 キャリーバッグ一つを手に、私はマンデラ政権の南アフリカへと渡った。そこでPMCのスタッフとして二年。シエラレオネ内戦に関わった。
 どちらに正義があるか、そんなことはどうでもいい。PMCはただクライアントの利益を最優先に、戦闘行動を行う。
 EO社の介入で内戦が終われば、それだけ犠牲者も減る。そんなことを考えていた時期もあった。――けれどそれは、あまりにも甘すぎた。
 確かに私達は、ダイヤモンド鉱山の奪取作戦などで電撃的な勝利を収めた。でもそれは一時的なもので、内戦の対処療法でしかない。
 対立構造というものが紛争国に残っている限り、PMCが介入しようが、内戦は泥沼化するだけだ。そして『政治』を判断するのは、PMCの役目ではない。
 PMCは意思なき剣であり、盾である――。私が理解した真理は、そんな単純なことだった。


 日本に帰った私は、神奈川県立横須賀衣笠高校の定時制に入学した。
 全日制だと大検が受けられなかったし――それに、戦場帰りの私が普通の高校生活を送れるとは、とても思えなかったからだ。
 いまも昼間は探偵事務所の調査員、夜は高校生と二足のわらじを履いている。
 定時制には私だけじゃなく、色々と訳ありのクラスメートが多い。大工から検事まで、職業の見本市のような構成だ。
 ……その『検事』というのが私の言う『彼』なのだけど……彼も高校は出ていない。高校進学より司法試験を優先して、そのまま司法修習をやっていたそうだ。
 仕事が忙しいのか、出席も三分の二ギリギリだった。去年の十月に大検に受かってからは、一度も登校していないはずだ。


 一年だけの高校生活。何も行かなきゃいけないという訳じゃない。大学に行くなら、ただ大検を通れば済む話だ。
 それでも私や彼が学校にこだわったのは……たぶん生き急ぎすぎた自分達への、休息地点としてなのだろう。


 さて。
 食後の紅茶を喉に流し込んだ私は、『彼』――後藤田正義から受け取ったメモに目を走らせた。
 パチンコ店経営の、在日朝鮮人。諸葛孔明の『しょかつ』を日本風に『もろくず』とは、なかなか風流なセンスだ。
 中華街近くのパチンコ店。名刺に書かれている住所はそこだ。
 となると……王(ワン)さんに話を訊いてみたほうが良さそうだ。
 いったい被害者が横浜の裏社会でどのような地位で、どのような利害関係に絡み取られていたのか……。
 そうった事情に一番詳しいのは、少数派の満州マフィアでありながら若くして中華マフィアのトップに立った男……王独秀(ワン・ドゥーシウ)が一番だ。


 それと、今私が抱えているもう一つの案件。
 昨日の夜、私は事故現場から見て上り坂のガードレールを、くまなく調べてみた。
 すると、後藤田君が言ったとおり――フックと同じような摩擦痕が、数十メートルほど離れたガードレールに残っていた。
 タイヤが空転するかしないかの状況でロープが張られていたとしたら、フックやガードレールにロープを結びつけるのはありえない。
 張圧で結び目をほどけない以上切りづらいし、無理に切ったら刃物の傷跡が必ず残るからだ。
 ガードレールに残っていたのは、結び目もなにもないロープの摩擦痕だった。
 そんなものが残っていた以上、この件については偽装自殺の可能性を徹底的に疑うしかない。とりあえずは……顧問先の法律事務所に頼んで、戸籍の職務上請求をして貰うことにしよう。