M先生からのタメになるお話し。長文だけど、読んでちょうだい♪ | オーナーママとして銀座で生きた「証」、そして私の「これから」。

オーナーママとして銀座で生きた「証」、そして私の「これから」。

祇園出身のわたし。
銀座で小さな会員制サロンのママとなった私の奮闘記録。
そしてコロナ禍に突入、お店閉店、鬱との闘い、でも夢を諦めずOLとホステスのダブルワークの日々を綴ってます。

ブランチ場所にてニコ


昨日M先生は私と知り合ってからの8年間の中で一番長くお店に居られるのを楽しんでおられました爆笑


つい最近、奥様を亡くされた先生、ご自宅に帰るのがつらい、とおっしゃいます。。


そして私に「恋人を紹介してくれないかね?」といつもの通りびっくり


愛人、から恋人、に変わりました!


恋人の前に「志乃ちゃん、ボクが男でまだまだイケるかどうか、志乃ちゃんで試してみたいけど?」とポーン


そして、いつもの通り、私は、「私はお試し要員じゃありませんムキー!どこぞでお試しして、実況中継していただいてから判断いたしますっ。」と。(笑)。

先生はねぇ、彼女にする条件は容姿端麗、じゃなきゃダメなの。性格もアタマの良さもどうでもいいから、とにかくお顔重視!!

実際に奥さまは松竹の女優さんだったし、ご友人も浅丘ルリ子とか、渚まゆみさんとか。。

この方すごーく、お綺麗!

若い頃。




御年72歳。旦那さまが石原裕次郎の歌を多く作った作曲家だったんですって。



今週もご飯会なんだ~♪と。ちょっとるんるん🎵されてました。



少なくとも、明るい先生、ちょっと安心。そろそろ生存確認しなきゃなぁ、って思っていたからニコニコ



先生はさすが政治家でありつつ、大学教授でもあるので、お話しが上手ニコニコ


いつもながら、聞き入ってしまいます。。


昨日私が高校野球が大好きな話おねがいをしていたら、昭和6年、台湾が日本の植民地であった時代のお話しをしてくださいました。


当時、今でも強豪校の愛媛の松山商業高校の監督をしていた近藤兵太郎、という方が、台湾の高校に簿記の先生として赴任した時のお話です。

彼自身、選手としても監督としてもとても優秀な方だったようでおねがい


赴任された高校の野球チームがあまりにものんびり野球であったのを見て、このチームを鍛えて日本の甲子園へ連れて行こう、と決意、そこから、スパルタ式教育を開始メラメラ


彼の熱血コーチにより、チームは台湾一、となり、そして。。見事甲子園へびっくり


海を渡り、甲子園に行った最初で最後の高校。そして、もちろん初出場になるのですが、なんとなんと、どんどん勝利し、決勝まで昇りつめ、敗れはしましたが準優勝を飾ったのですクラッカークラッカークラッカー


台湾では今でもこのお話は語り継がれ、近藤兵太郎さんに感謝の意を、なんと今でも!先生にお話しされるとのこと。



2014年には「KANO 1931海の向こうの甲子園」というタイトルで上演され、先生も招待されて観に行かれたんですって。(私の大好きな大沢たかおさんがでていまーす♡)




このお話しになる前に、わたしが「どうして台湾は日本が統治していた時代、強制的に「日本」を強いられていたのにもかかわらず、今でも親日家が多いのかしらキョロキョロ?」と質問をしていました。


どこぞの国と違って、過去は過去、と現在の日本を受け入れ、大震災時にも多額の義援金を寄付してくれた台湾目


植民地であの時代、どんな目にあったか。。想像は難くありません。。

無知な私から見たら、不思議で不思議で。


そうしたら。。

先生はこの甲子園準優勝の前年、昭和5年に起こった「霧杜事件」をお話しくださいました。


やっぱり原住民の中には、日本に反感を持っている人も多くいたことは事実。そうですよね。


中でも「首狩り族」の原住民たちは先祖から自分たちが守ってきた規律を崩され、また侮蔑されることに対しての日本人への反感がつのっていったそう。


そんななか、一つの事件がきっかけとかり、感情が高まった村の中で、日本人を襲撃する希望者を募り、最終的には人数は300人ほどに。


そして、霧杜の学校で運動会が開催される日に、一気に襲撃を開始、約140人もの日本人たちの首を切り落としたのです。


その時代は台湾を統治しているのは日本、力を持っていたのは日本です。


反撃に、毒ガスや、爆弾、ありとあらゆるもので、集落を鎮圧しました。



その事件があった後の、次の年の、甲子園、です。


日本に対する反感は??と疑問ばかりの私に、先生は、その事件の影響も話してくださいました。


その事件をきっかけに、もちろん日本政府の統治のあり方が問題視され、原住民に対する教育を変えていき、なんにもない集落にインフラを整備し、そして畑、お米作りを教え、生活を豊かにしていき・・・つまりは生活の基盤作りをしていったのです。



そのことがあって、台湾の人たちが持つ日本への思いが変化していった、というM先生。


前述しましたが、先生は台湾と日本の外交を請け負っている政治家の先生です。


5年ほど前に、台湾政府に招待され、事件が起きた霧杜に行く時がありました。私もその時のことを覚えています。


「僕、首を刈られちゃうかも~・・・ガーン。」といいつつ、台湾に向かって行かれた先生。



実際に現地に行かれた時、まず、「この問題は終結していない。」と言われたそうです。


それは・・・そうですよね。先住民の人たちからしたら、たった80年ほど前の話なんですもの。


先生は速やかに大勢の人々を集め、「慰霊祭」を行ったそう。そして日本政府からの300本の桜の樹木を霧杜に植え、現地の人々の色々な感情の鎮火に努めたとのこと。



先生と、今の日本と台湾の友好的な現在があるのは、平和主義の気質が似ているからなのかな、と話していました。


感情を共有できる国同士なのかも。



どこぞの国のように、ずーっと怨恨を持っていたら、後退するだけでなにも進まない。恨みのエネルギー、パワーは強力なものかもしれないけれど、とても醜いもの。


余談ですが、先月台湾に行かれた先生、先月の7月にウィーンで行われた国際管弦楽コンクールで霧杜近辺集落の先住民の子どもたちが作る管弦楽団が優勝したクラッカー、というニュースを仕入れてきました。


あの!小さな集落が国際コンクールで1位になった!というニュースに、先生は産経新聞の田中さんという旧知の記者さんに連絡をとり、是非記事にしてほしい、とお願いしたところ・・・。


田中さん、早速現地で取材をしてくださり、一昨日、大きく産経新聞にとりあげられました。


ネットにもこの通り!







昨日は静かな店内で、先生から戦中の空襲時のお話し、神田の空が真っ赤になった夜、疎開時のお話し、色々聞かせていただきました。


今の時代、当時のお話しを直接聴くことができるのは、本当に貴重だと思います。



長々と・・・・私の陳腐な表現力で書かせていただきましたが、先生は本当に臨場感たっぷりにお話しくださいます。ほんと、聞き入っちゃうおねがい


先生は、あの!蒋介石と対談されたこともあるの。

そのお話はまた別の機会に~照れ




あまりにも、感銘を受けたので・・・・ながなが書いちゃいましたあせる



ふぅ。これでも端的に書いたつもり、なんですけどっ。



さて、午後の活動とまいりましょ。



みなさまも午後も素敵なお時間を♪おきばりやす♡。