クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

とある結婚式披露宴で、

内田先生にご挨拶したのだが、

完全に、忘れられていたことを思い出す。

歳を重ねれば、風貌も変わる。

その一例が坂野慧吉牧師だろう。

 

マサキチは、教団直属の神学校に入寮していたときに、

坂野先生が牧師会の講師でおいでくださった。

一講義が終わった瞬間、檀上から降りて来て、

当時神学生だったマサキチの方へ近づき、

マサキチに握手を求められた。

大先生、中先生、小先生の見ている前で、

偉大な牧師が神学生のマサキチに握手を求めにきたのだ。

それ以来、マサキチは、先生とコンタクトとるのを控えた。

反対に、内田先生は、

マサキチが挨拶したのだが、

完全に忘れられていた。

そのとき、

これで良いのだと思った。

マサキチは、誰からも忘れられて良いのだと思い、

今も、そのように徹している。

 

まだ、神学校卒業したあと、

本田弘慈牧師の伝道集会に参加したとき、

やはり、先生は、檀上から降りてこられ、

マサキチの元に来て、

握手を求められた。

そのとき先生とは初めての面会であった。

分厚い手だった。

 

何が言いたいかと言えば、

マサキチは、目立つのだ。

偉そうに見えてしまう、お勉強ができるように見えてしまう、

何か潜在的な能力を持っているかのように勘違いされやすい。

 

めだつからこそ、

人前に出ない、見せない、引っ込もうと思えた。

 

そんな目立つマサキチを、内田先生は、完全に忘れていたのだ。

ある意味、ほっとした。

 

先生も人の子だ、天才なんかじゃないんだと思えた。

先生の説教は、

やはり、坂野先生の説教とは違って、

丁寧である。

反面、

非常に論理を求めている。

会衆を意識して、ある意味、誤解無きよう整えられた説教であもある。

だから眠くなってしまうかもしれない。

 

反対に、

坂野先生の説教は、

決して、原稿を見ないで、

今ある思いを、会衆に放出している、ぶちまけている。

そのため誤解を招こう。

 

二人のタイプは、両極端で個性的でとても面白い。

マサキチは、説教をするとき、

常に気を付けていることは、

一つの絵画を描こうと思っている。

単なる認識の世界ではなくて、

そこに霊的美なるものがあるかどうか、

絵画として、まとまっているだろうか。

常に、説教と芸術を対にしてお話をしている。

 

ある人には、全く何を描いているのか分からない絵画かもしれない。

また、

だれが見てもはっきりと理解できる絵画もある。

でも、大切なのは、

芸術家は必至になって油絵を描いている、

しかも、きれいに美しく、感動を与えようとして、

描こうとしている。

 だから、マサキチは、

どんなに無名の画家であろうが個展や展覧会に行くのは好きだ。


牧師が描くのは、聖書そのものであって、

イエス様である。

しかし、

ヨーロッパ絵画とは、その歴史の変遷の中で、

イエス様が、ナルシスト的な象徴として描かれていくようになった。

その辺は、昔のブログを見てくれれば分かると思います。

 

私たち(牧師)が描くイエス様とは、

聖であらねばならない。

人間イエスではなくて、

常に、神の聖の中で、お弟子たちにとって心の支えであった。

 

ナルシスト的描写ではなく、もっと教師的な描写が求められる。

本来、神とは人間の姿になってはいけなかったのだが、

それをあえて無理をして、人となられ、

そして、御父の御計画を宣べ伝えた。

そして、御自身が、救い主として復活されたのだ。

 

ペテロは、イエス様を神として見直したとき、彼は水の上を歩き始めた。

だが、イエス様を見失ったとき、イエス様を単に人間としてでしか評価しなければ、

ペテロは、強風に支配をうけ、沈んでしまうことになる。

 

だが、パウロは、次のように言われた。
Ⅱコリ
「4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」


パウロも何度も沈みかかったが、

その都度、イエス様によって救い上げられたのだ。

それは、二人だけじゃなくて、

マサキチ自身の人生においてもそれが証明されて来た。

沈みそうで、沈まず、

倒れそうで、倒れない。

途方に暮れても、行き詰らない。

 

それに対して、

この世の人々とは、

生きているようで、実は死んでいるように見える。

死神(がい骨)が、くだらん音楽を聴きながら、踊っているのだ。

 

しかし、

私たち、キリストのいのちを帯びているものは、

この世の自然や科学を凌駕した、いのちに飲み込まれている人生を送っているのだと思う。

だから、前進できるのだ。

 

くだらん、この世のファッションと違い、

芸術とは、どんなに若年でも、必死に創作する意思と思考と感情が求められる。

創作するとは、そこで一歩も二歩も止まって、試行錯誤して、何度も創られた粘土を潰し、

何度も何度も、違う色で描き直す。

 

考えない、アホな若者のくだらん音楽は、

芸術でもなんでもない。

単なる快楽でしかない。

麻薬である。

いのちでもなんでもない、

単なる、いのちが分かん奴らが息を繋いでいる呼吸でしかない。

 

本当のいのちが見えてこない。

 

説教で求められるのは、

それは神がいのちの創造者であって、

その説教の中にいのちが描かれているかどうか、

そこにあるのは、愛と美が表現されているかどうかである。

 

人間が作り出した美ではなく、

神が与えられた美である。

そして、

その神の美(いのち)の前に、

人間は誰もが自分自身の存在を隠すべきである。

イエス様が、無神論者によってナルシストの題材にされたように、

人間は、自分自身の存在を語るべきではないし、

自分自身の美を求めるべきではない。

ただ、神を畏れ、神の愛の中で、

いのちを追い求める生活をすべきである。

私たちのいのちを、守られるお方は、主御自身でしかないはず。

私たちは、その主なるイエス様と一つとされ、

今もいのちが与えられているからだ。

 

強風を見ずして、イエス様を見ること、

自然(科学)に心が支配を受けて、怯えるのではなくて、

いのちに支配を受けて、常に希望と信頼の中で生きて行くこと、

これが、

私たちの人生での誇り・余裕ですらある。

「4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。」

星野富弘さんは、その人生の中で大切なことを教えられた。

私たちが生きている意味は、「イエスのいのち」この一点で十分だと思う。