とある結婚式披露宴で、
内田先生にご挨拶したのだが、
完全に、忘れられていたことを思い出す。
歳を重ねれば、風貌も変わる。
その一例が坂野慧吉牧師だろう。
マサキチは、教団直属の神学校に入寮していたときに、
坂野先生が牧師会の講師でおいでくださった。
一講義が終わった瞬間、檀上から降りて来て、
当時神学生だったマサキチの方へ近づき、
マサキチに握手を求められた。
大先生、中先生、小先生の見ている前で、
偉大な牧師が神学生のマサキチに握手を求めにきたのだ。
それ以来、マサキチは、先生とコンタクトとるのを控えた。
反対に、内田先生は、
マサキチが挨拶したのだが、
完全に忘れられていた。
そのとき、
これで良いのだと思った。
マサキチは、誰からも忘れられて良いのだと思い、
今も、そのように徹している。
まだ、神学校卒業したあと、
本田弘慈牧師の伝道集会に参加したとき、
やはり、先生は、檀上から降りてこられ、
マサキチの元に来て、
握手を求められた。
そのとき先生とは初めての面会であった。
分厚い手だった。
何が言いたいかと言えば、
マサキチは、目立つのだ。
偉そうに見えてしまう、お勉強ができるように見えてしまう、
何か潜在的な能力を持っているかのように勘違いされやすい。
めだつからこそ、
人前に出ない、見せない、引っ込もうと思えた。
そんな目立つマサキチを、内田先生は、完全に忘れていたのだ。
ある意味、ほっとした。
先生も人の子だ、天才なんかじゃないんだと思えた。
先生の説教は、
やはり、坂野先生の説教とは違って、
丁寧である。
反面、
非常に論理を求めている。
会衆を意識して、ある意味、誤解無きよう整えられた説教であもある。
だから眠くなってしまうかもしれない。
反対に、
坂野先生の説教は、
決して、原稿を見ないで、
今ある思いを、会衆に放出している、ぶちまけている。
そのため誤解を招こう。
二人のタイプは、両極端で個性的でとても面白い。
マサキチは、説教をするとき、
常に気を付けていることは、
一つの絵画を描こうと思っている。
単なる認識の世界ではなくて、
そこに霊的美なるものがあるかどうか、
絵画として、まとまっているだろうか。
常に、説教と芸術を対にしてお話をしている。
ある人には、全く何を描いているのか分からない絵画かもしれない。
また、
だれが見てもはっきりと理解できる絵画もある。
でも、大切なのは、
芸術家は必至になって油絵を描いている、
しかも、きれいに美しく、感動を与えようとして、
描こうとしている。
だから、マサキチは、
どんなに無名の画家であろうが個展や展覧会に行くのは好きだ。
牧師が描くのは、聖書そのものであって、
イエス様である。
しかし、
ヨーロッパ絵画とは、その歴史の変遷の中で、
イエス様が、ナルシスト的な象徴として描かれていくようになった。
その辺は、昔のブログを見てくれれば分かると思います。
私たち(牧師)が描くイエス様とは、
聖であらねばならない。
人間イエスではなくて、
常に、神の聖の中で、お弟子たちにとって心の支えであった。
ナルシスト的描写ではなく、もっと教師的な描写が求められる。
本来、神とは人間の姿になってはいけなかったのだが、
それをあえて無理をして、人となられ、
そして、御父の御計画を宣べ伝えた。
そして、御自身が、救い主として復活されたのだ。
ペテロは、イエス様を神として見直したとき、彼は水の上を歩き始めた。
だが、イエス様を見失ったとき、イエス様を単に人間としてでしか評価しなければ、
ペテロは、強風に支配をうけ、沈んでしまうことになる。
だが、パウロは、次のように言われた。
Ⅱコリ
「4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
パウロも何度も沈みかかったが、
その都度、イエス様によって救い上げられたのだ。
それは、二人だけじゃなくて、
マサキチ自身の人生においてもそれが証明されて来た。
沈みそうで、沈まず、
倒れそうで、倒れない。
途方に暮れても、行き詰らない。
それに対して、
この世の人々とは、
生きているようで、実は死んでいるように見える。
死神(がい骨)が、くだらん音楽を聴きながら、踊っているのだ。
しかし、
私たち、キリストのいのちを帯びているものは、
この世の自然や科学を凌駕した、いのちに飲み込まれている人生を送っているのだと思う。
だから、前進できるのだ。
くだらん、この世のファッションと違い、
芸術とは、どんなに若年でも、必死に創作する意思と思考と感情が求められる。
創作するとは、そこで一歩も二歩も止まって、試行錯誤して、何度も創られた粘土を潰し、
何度も何度も、違う色で描き直す。
考えない、アホな若者のくだらん音楽は、
芸術でもなんでもない。
単なる快楽でしかない。
麻薬である。
いのちでもなんでもない、
単なる、いのちが分かん奴らが息を繋いでいる呼吸でしかない。
本当のいのちが見えてこない。
説教で求められるのは、
それは神がいのちの創造者であって、
その説教の中にいのちが描かれているかどうか、
そこにあるのは、愛と美が表現されているかどうかである。
人間が作り出した美ではなく、
神が与えられた美である。
そして、
その神の美(いのち)の前に、
人間は誰もが自分自身の存在を隠すべきである。
イエス様が、無神論者によってナルシストの題材にされたように、
人間は、自分自身の存在を語るべきではないし、
自分自身の美を求めるべきではない。
ただ、神を畏れ、神の愛の中で、
いのちを追い求める生活をすべきである。
私たちのいのちを、守られるお方は、主御自身でしかないはず。
私たちは、その主なるイエス様と一つとされ、
今もいのちが与えられているからだ。
強風を見ずして、イエス様を見ること、
自然(科学)に心が支配を受けて、怯えるのではなくて、
いのちに支配を受けて、常に希望と信頼の中で生きて行くこと、
これが、
私たちの人生での誇り・余裕ですらある。
「4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。」
星野富弘さんは、その人生の中で大切なことを教えられた。
私たちが生きている意味は、「イエスのいのち」この一点で十分だと思う。