ヤスパースと広隆寺弥勒菩薩像(その2) | ネコ好き☆SHINACCHI blog

ヤスパースと広隆寺弥勒菩薩像(その2)

(承前)

篠原氏はドイツ留学中の1945年4月28日、ソ連軍包囲寸前のテムプリン市を命からがら脱出する。

が、英米連合軍に捕えられ、市の監獄を経てハノーヴァ付近の集団抑留所に送られる。

抑留中に発病、ブレーメン近くのドイツの衛成病院に移され療養生活を送る。

このあたりまで、広隆寺の弥勒菩薩どころか、ヤスパースが登場する気配は全くない。

ここで同じ病院の患者、医師の卵のローベルトが、激しい悲鳴を上げて昏睡状態になる。

その後、持ち直すが結局、死亡。

篠原氏は、一人の患者の死により、3年前にヤスパース先生宅を訪問し、死の問題について語り合ったことを思い出す。

ようやくヤスパース先生の登場である。


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×月×日 ―― ヤスパース先生の思出(死と實存と)

 ローベルト君が死んだ。何の誇張も、何のたくらみもなく、一人の人間の生命が静かに消えていった……。
 朝から霧のような雨が降りつづいている。
 死という問題への反省は、私をいつも秋のハイデルベクとヤスパース先生とに結びつける。
 南ドイツの、幾百年の歴史に古さびた大學町ハイデルベルク。杳かなるネッカーの流れ、アーチのついた灰色にくすんだ石橋、廢墟のままの古城の崩れるにまかせた壁や石垣――歴史の中につくられ、歴史の中にくずれてゆく古城の町ハイデルベルク……。九月の始になって、オーデンの森が黄色く色づきはじめたと思う間に、それもいつの間にか散つてしまって、ただ地面ばかりが目に痛いほど黄色い。死という、恐らく永遠に解き得ない哲學の問題をいだいて、私は黄色く染まったオーデンの森の中を、あてもなく彷つたことがあつた――。
 その、森も町もすべてが黄色く染ったハイデルベルクの或る秋の日の午後――それは一九四二年のことであったが――私は大學の裏手に在るお宅に、ヤスパース先生をおたずねしたことがあった。靜かな。よく晴れた秋の日であった。停車場近くの私の下宿を出て、森と丘の近くの裏道を通って、大學の後側を先生のお宅のあるプレェック街に向うあたりは、人影もほとんどまばらであった。道一面に散った黄色い落葉が、時々風の下にかすかに鳴るのと、黑く長い私の影法師が、ひつそりとした家並の下をコツコツとわたつていくのだけが、音をたてて動いているもののすべてであるかのようであった。
 先生は、茜い秋の夕日の一ぱいにさし込んだ書齋で、一人で何か考えにでもふけって居られたところであった。書齋の窓から眺めたお宅の裏庭も、もうすつかり黄色く染っていた。哲學を學ぶものにとって、秋ほど内省的なときはない。先生も私も、話はポツリポツリと途切れ勝ちであつた。あまり多くを喋って秋の靜かな調和を亂すことを、二人とも何となくはばかっている氣持であった。
 「……あなたが哲學の學徒として、死の問題について深い關心を持っておられるということは、同じく哲學の途を歩む私にとっても、心から理解と共鳴をし得ることです。我々人間の存在のすべての問題も、究極にはこの死というところに歸着するのです。古代ギリシヤの哲人達も、『哲學とは、死ぬるを學ぶことである』、と云っています。しかし死という問題は、單なる哲學的な概念や、論理的な認識の方法だけを以つてしては、絶對に解き得ないものです。死というものが何であるかを知ろうとするためには、人間としての全存在をあげて、死という問題に直接ぶつかつてみなければ駄目です。ひとりひとりの人間が、絶對の個人として、自分自身の人間としての全存在を賭して、一切の生のすがたの中に同時に死の瞬間のあることを、體驗してゆくことが出來なければなりません。それは、人間の『實存』の最も赤裸々な現實に直面することであつて、單に『哲學的に考える』ということだけでは達することの出來ないものです……。ぴとりひとりの人間が、自らの人間としての全存在を賭して、すべての生の瞬問のうちに死をとらえ、人問『實存』の最後の奥底にぶつかつたとき、そこで始めで我々は、『死ぬるを學び得た』、と云えるのです。そこには、人間の持つ一切の單なる地上的なもの――喜びも、苦しみも、怒りも、憂いも――を超えた、『人間における絶對的なるもの』の世界があります。それは、人間自らのうちにある絶對に不變なるものの世界であり、永遠に生命を持てるものの世界なのです……」


およそ広隆寺の弥勒菩薩が登場する気配はない。

ところが、ここで唐突に話題が広隆寺弥勒菩薩に移るのである。


 それからヤスパース先生は、「これを御覧なさい」と云って、机の引出から一枚の寫眞をとり出して私の前に差出された。それは、何かの日本の書物からの切抜でもあるらしい、佛像の寫眞であった。その下に印刷されてある日本文の説明で、その佛像が廣隆寺の彌勒菩薩像であることがわかった、先生は私に、此の佛像は支那から渡つたものであるか、日本で作られたものであるか、などと聞かれた。
 「私は、今迄哲學者として、人間の存在の最高に完成された姿の表徴としての、色々のすぐれた藝術作品に接して來ました。古代ギリシヤの紳々の彫像も見たし、ローマ時代に作られた、多くのすぐれたキリスト敎的藝術品をも見てきました。然しながら、それらのどのものにも、まだ完全に超克され切つてしまわない、單なる地上的人間的なるものの臭が残されていました。人間の叡智と、美の最高の理念を表現しようとした、古代ギリシヤの神々の彫像にも、地上的な人間の汚と感情が超克され切らすに、まだどこかに殘されていました。キリスト敎的な愛の理想を表徴しようとしたローマ時代の宗敎的藝術作品にも、人間の存在のうちの本當に淨化され切つた愛のよろこびと云うものが、完全に表現されてはいないと思います。それらのどれも、たとえ程度の差はあつても、まだ地上的なものから脱し切つていない人間の姿の表現であって、眞に人間『實存』の奥底にまで達し得た人間の存在の姿の表徴ではなかつたのです。ところが、此の廣隆寺の佛像には、本當に完成され切つた人間『實存』の最高の理念が、あますところなく表現され盡しています。それは、この地上におけるすべての時間的なるものの束縛を超えて達し得た、人間の存在の最も淸淨な、最も圓滿な、最も永遠な姿の表徴であると思います。私は今日まで何十年かの哲學者としての生涯のうちで、これほどまでに人間『實存』の本當に完成されきった姿をうつした藝術品を、未だ嘗て見たことがありませんでした。この佛像は、我我人間の持つ『人問實存に於ける永遠なるもの』の理念を、眞にあますところなく完全無缺に表徴しているものです……」

    *    *    *

 私がハイデルベルクでヤスパース先生にお目にかかったとき、私は死という哲學の問題に惱んでいた。しかし、ヤスパース先生の云われたように、私の存在の刻々の瞬間に於て死に直面し、死にぶつかつていくことの出来るような機會は、私にはまだ與えられていなかった。
 祖國にある肉親も、友も、すべての親しきものも、見知らぬ同胞達も、好むと否とに拘らず、『個人』の生命をいつでも芥のように捨てることを『國家』によって強いられていた時、遠く異郷にある身の私にとつては、其の『國家』の至上命令さえ及び得なかった。私の置かれた立場は、結果から見て逃避的なものになつてしまつた。もちろん、ドイツにおいても何千萬かのドイツ人達が、彼等の存在の過去と、現在と、未來のほとんどすべてを賭しての戰爭へ強いられていた。しかし此處では、私は一外國人にすぎなかつた。ドイツ人達と仝然同格に、全然同一の眞實性をもってドイツの戰爭を體驗し、ドイツの戰爭を批判し、ドイツの戰爭を呪い、ドイツの戰爭に反抗することは、ドイツ人でない私には許され得ないことであった。空襲というような、近代戰に必すつきものの、ごく一般的な體驗であれば、私にとつても、かえつて日本においてより以上にも與えられていた。しかし、私の『實存』にとって必要な、私の人間としての存在のギリギリまでの眞劍さというものが、私の場合には缺けていた。私はここでも、戰爭というドイツ人達の仝存在を賭した、血みどろの體驗の圏外に獨り残されてしまつた。
 地球の西と東の二つの大きな空間に起つた、恐らくは人類始まつて以來最大の悲劇のさ中に、私は結局どちらの場合にも、自己の屬すべき『實存』の外にある者としての、局外者の地位に殘されてしまつた。私自身が好むと否とに拘らず、私『個人』の生命への意志と希望の一切から私を容赦なく引離してしまうような、『必然的』な暴力に抗して自己の生命を愛し、自己の死を貴び、自己の人間としての存在を主張しなければならないような最も人間的な瞬間に、私は直面してはいなかった。――ヤスパース先生があの時私に、『死は單なる哲學だけを以つてしては、絶對に解き得ないものだ』、と云われたのは、或は、このような中途半端な立場に置かれていた私個人に對する警告であつたのかも知れない。


1942年の秋、ヤスパース先生は59歳、篠原氏は30歳である。

これでわかるように、ヤスパース先生は日本に来て、この像を見たわけでもなんでもない。

ただ1枚の日本の書物の切抜写真(自分で切り抜いたのか?)を見ただけなのである。

ヤスパース先生は篠原氏に

「この仏像は支那から渡ったものであるか、日本で作られたものであるか」

などと聞くぐらいだから、この仏像に関する知識はゼロである。

著者の篠原氏も

「(写真の)下に印刷されてある日本文の説明で、その仏像が広隆寺の弥勒菩薩像であることがわかった」

と言っているぐらいだから、仏像の知識はほとんどゼロである。

「支那から渡ったものであるか、日本で作られたものであるか」などと聞かれてもわかるはずもない。

そんな篠原氏に対する、そんなヤスパース先生の「仏像談義」なのである。

西洋の偉い哲学者が言ったことだからと、こんなものを金科玉条にするほうがどうかしているのである。

優れた建築家だったブルーノ・タウトが、桂離宮を高く評価したのとはわけが違う。

ヤスパースは哲学者であって、美術評論家でもなんでもない。

偉い哲学者だからといって、鑑識眼に優れているという保証は何も無い。

『仏像に会いに行こう』の副島弘道先生も、

「写真や本の中の仏像は、にせものだ」

「立体でない絵画でも、本物と写真はずいぶんちがう。まして、相手は立体の仏像だ」

「さあ、本物に会いに行こう」

と、力説しているわけである。

1枚の写真を見ただけで、ここまで言うヤスパースはなかなかのものだ、程度の感想で十分だろう。

(続く)