鎌倉の大仏の大仏殿は津波で流された?(その2)
2004年12月26日のスマトラ島沖地震、そして今回(2011年3月11日)の東日本大震災。
津波の恐ろしさは、頭では十分わかっているつもりだった。
が、これらの地震による大津波の恐ろしい映像を見て実感するまでは、わかっていなかったに等しい。
だから、「鎌倉の大仏さんの大仏殿が現在無いのは、津波で流されたからだ」と聞いても半信半疑だった。
いまでは、おそらく本当だったのだろうと思うようになった。
国立天文台/編の『理科年表』に、鎌倉大仏の大仏殿が流されたという明応7年8月25日(西暦では1498年9月20日)の地震の記録が載っている。
それによると、
震源 34.0°N 138.0°E (掛川市の80kmぐらい南の海上か?)
マグニチュード 8.2~8.4
東海道全般:紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で振動が大きかったが、震害はそれほどでもない。
津波が紀伊から房総の海岸を襲い、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千など南海トラフ沿いの巨大地震とみられる。
とある。
現在の鎌倉大仏は海岸から、直線距離で、850mぐらいのところにある。
ところが、津波が襲って大仏殿を流したといわれる頃の海岸線は、いまよりだいぶ陸側にあったらしい。
PHP研究所/編の『大空から眺める パノラマ鳥瞰地図帳 ~時空を超えて日本の姿がよくわかる~
』という本(2010年8月3日発行)がある。
この本の中に「13世紀ごろの鎌倉の鳥瞰図」がある。
(左)『大空から眺める パノラマ鳥瞰地図帳 ~時空を超えて日本の姿がよくわかる~
』
(右)『ミリオンマップ 神奈川 』
これを見ると、たしかに当時の海岸線は、いまよりだいぶ陸寄りだ。
これなら津波により鎌倉大仏の大仏殿が流失したということも、十分考えられると思われる。