障害とは○○である
先日、大学で行われた学習会に参加してきました。
正規の授業とは少し違って必須科目ではなかったのですが、テーマが”発達障害”で、大学の先生が発達障害のことをどんな風に講義されるのかとても興味があったので、参加してきました。
内容は予想以上にとても充実していて、考えさせられることが多くありました。
まず、「障害とは○○である」。
いくつかのグループに分かれて、○○に当てはまる言葉を考えるのですが、みなさんなら何と答えますか?
これは多分、正解と言える答えはないと思うのですが、私のグループは”困り感”としました。
”個性”という意見もあったのですが、以前NPO法人それいゆ のセミナーを受けた時、服巻先生が「障害は個性ではない(個性ではすまされない)」とおっしゃっていたことが頭に残っていたので、個性とはしませんでした。
でもその後の発表では、”個性”という意見が多かったように思います。
ここで先生からは、社会的属性と個人的特性についての説明がありました。
社会的属性は、出生時の国籍、血液型、性別など、自分の努力では変えられないものです。
個人的特性、つまり個性は、自分の意志や努力で変えられるものです。
障害は本人の努力で変えられるものではない、つまり障害は個性ではない。
障害は社会的属性であり、本人の健康状態をあらわしているにすぎない。
障害によって生き辛さを感じるということは、社会生活においてさまざまな制限を受け、他者や物との関係で不自由を感じているということ。
それは、社会の側が彼らを追い詰め、障害者にしていると言えるのではないだろうか。
・・・・・・というお話でした。
(先生の意図と、私の受け取り方が違っているところがあるかもしれませんが~(;´▽`A``)
先生のお話は、「そうそう!その通り!」と共感できることが多くありました。
ただ、発達障害はどこまでが個性でどこからが障害なのか分かりにくいのが、難しいところだな~と思いました。
たとえば、目が見えない、耳が聞こえない、手がない、足がない、といった障害の場合、どこに困難を感じているのかが比較的把握しやすく、”変えられるもの”と”変えられないもの”の違いが分かりやすいと言えます。
けれど、発達障害の場合は個性と障害の境目が分かりにくく、障害特性の個人差も大きいので、本人も周囲も、「意志や努力で変えられるのではないか」という錯覚を起こしやすくなってしまうのかもしれません。
もし目が見えなければ、外出時には、白杖を使ったり、ヘルパーさんを利用したり、何らかのサポートを使います。
まさか、「何も使わず、自分の力だけで外出しろ」なんて無茶なことを言う人はいないと思います。
けれど、発達障害の場合、障害なのか個性なのかが一見分かりにくいために、目が見えない人に「自分の力だけで外出しろ(=努力で解決しろ)」と言うような無茶なことも現実に起こってしまうのだと思います。
こういったことを防いで、どこまでが個性でどこからが障害なのかをきちんと把握するためにも、発達障害の場合は、どんな場面でどんな困難を感じているのかという丁寧な観察が、より重要になってくるのだなと思います。
「障害は個性」という言葉は、ソーシャルインクルージョン(社会的弱者の立場にある人々を包み、共に支え合い、助け合う社会)を目指すという意味で使われることは、私は全く問題ないと思っています。
ただ、「障害は個性」という考え方は、一歩間違えれば「個性なんだから自分で何とかしなさい」という障害を本人の自己責任としてしまう危険性も併せ持っているのかもしれません。
講義の中では、「障害が生き辛さを生んでいるのではない、生き辛さは環境と個人の相互作用によって生まれている」という言葉が印象的でした。
発達障害の特性は本人の性格や努力不足とされてしまうことがまだまだ多くありますが、環境か個人かどちらか一方に責任を押し付けるのではなく、双方がお互いにできる努力をして、お互いに歩み寄ろうとする姿勢が、とても大切なんだなと思いました。
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