本日,ようやく,「永井さんブログ・下中連投騒動」に始まる一連の騒動が終わりをつげたようです。
あの永井さんブログでの騒動は,その後,私が,謝罪とともに表現について考える記事を書いてきたことから,私のブログのコメント欄で続いておりました。
他のブログにも飛び火していたようです。
私は,私の不明により,永井さんのブログにおいて,フラッシュバックを起こされた方々や私の連投コメントに始まる一連の騒動によって弁護士不信を強めた方に対する私の責任について考え続けてきました。
私が表現というテーマに拘り続けた私自身の理由の一つは,この責任の感覚にありました。
2.
私は,あまりにも不明でした。
いろいろなことが分かっておりませんでした。
今でも,まだ,分かっていないことばかりでしょう。
その中で,私は,この一連の騒動の中で,考え続けました。
いただいたコメントは,支持的なものも,批判的なものも,また,論理的なものも,論理的でないものも,心を伝えようとするものも,心が伝わらないものも,すべてに「意味」がありました。
「意味」は,後からついてくるものです。
3.
分かっている人はもうすでに分かっています。
でも,ここでは,「彼」と一般的な三人称で呼びます。
それは,私たちは,私たち自身の中にある「彼の用いた表現方法」に目を向けるべきだからです。
そういう意味を込めて,抽象的な「彼」と表示します。
私は,彼を信じました。
そこに深い交流の可能性を感じました。
そして,私は,いきなり,彼の「別目的のためにする議論」の攻撃にさらされました。
その攻撃の最中にも,私は,彼に対して,信じる態度でありました。
彼がなぜこうなっているのか,彼自身が,「心」を「精神の目」で気づいてほしいと願いました。
そういう私自身に,彼の姿を「正しく見る」ための「精神の目」が十分に働いておりませんでした。
私は,信頼と不信の間を,彼のよこしまな表現方法によって,揺れ動くこととなりました。
彼の表現された内容が問題ではないのです。
私と彼の意見や立場の違いが問題ではないのです。
私がこうありたい表現方法と彼の多用する表現方法が正反対であるのに,私は,彼の多用する表現方法によって,その姿を捕らえる目を曇らされておりました。
4.
しかし,ある時点で,私は,私の「精神の目」が開いたように思いました。
私は,それを私ひとりで成し遂げてはいません。
私は,今,私のブログのコメント欄にコメントをしてくれた方々,私にメッセージを送ってくださった方々,それが支持的なものであれ,批判的なものであれ,それら全ての意味を思います。
そして,そのコメントのやりとりを見ますと,論理とか知性とか言ったことは,学歴でもなければ,職業でも,地位でもなく,その方の「精神」のありうから出てくることが分かります。
彼のよこしまな表現方法を正確に認識し,そして,そのおかしさについての正確なコメントを入れて下さった方々,さまざまな方々でした。
そのような方々が勇気をもって荒れたコメント欄にて,正しい方法で語って下さったことが積み重なり,それへの彼の抵抗のおかしさが現れてくるにつれて,ふと,彼の歪んだ表現方法に対抗するある技法を思いつきました。
5.
私と彼とのやりとりがなんだったのかを振り返ると,私は,今日,次の疑念まで持つこととなりました。
あのつかの間の信頼関係とメッセージのやりとり・・・・
あれすらも,彼が私を「DV被害者のための記事を数多く書く弁護士」として攻撃対象に選定し,その意図の元に,彼から私への計画されてできた虚構ではなかったか。
最初のはたらきかけも彼でした。
他方,私は,彼にとってやさしい別の可能性も私は考えます。
私は,人を信じたいという願いを自身に強くもっています。
その私は,今,彼を,悪魔のような人物であったかもしれないと思う不信を刻まれてしまいました。
私は,このようにして,私自身が,ネット表現で,モラルハラスメント的表現の影響を知ることとなりました。
私は,今後,言葉を正確に使うために,「モラハラ」とか「モラヲ」と言った表現を使わないようにします。
私自身は,私と彼との関係をモラルハラスメントという言葉で表現することには,抵抗感があります。言葉が一人歩きしているように思います。
ただ,こうは言えます。
彼は,「歪んだ表現方法」を用いた。
その「歪んだ表現方法」は,モラルハラスメント的と言ってよい。
6.
彼の歪んだ表現に対抗するために私が発見した技法。
それは,徹底して論理に拘って,まず,「正しく見る」,「正しく考える」を意識的自覚的に行い,それを,彼の表現を,論理によって,「正しく語る」という方法です。
私は,よこしまな表現方法を,彼が表現したものを,「正しく語る」手法で組み替えて表現しなおしていきました。
そうすることで,彼の表現から曖昧さとか迷彩とか印象操作とかが取り払われていき,その問題おおい表現方法でなされた表現を,そのありのままの姿で彼の前に提示できました。
彼は,私への敗北を彼自身の内心で認めました。
しかし,いまだに,見苦しい印象操作を続けております。
責任を引き受けるということの意味を分かっていると言うことで,分かっていないことを「沈黙する読者」に表現しています。
7
私は,騒動の発端となった永井さんのブログでの「コメント騒動」についても,ある時期からあそこで何が起こっていたのかを冷静に分析できていました。
私は,私の連投コメントという落ち度,弁護士であること,調停事件による弁護士委任の要否について議論をしたこと,この3つで,まさに彼にはカモネギだったのです。彼は印象操作その他で私の印象を固めまくり,私に対し共感的コメントは叩く,私に対し「心の傷つき」を指摘した女性の方々には,直ちに支持的コメントを入れる,私の議論の的をずらしていくといったことをあそこで行っていました。時に,「議論と口論」の違いを指摘して,公平さに対する印象を与えるということもしておりました。
もう今さらな話です。
それを敢えてするのは,ここでお伝えしたいことがあるからです。
私は,表現の場を考えず,あのブログを傷ついた読者が読んでいるということに思いをはせずに連投コメントを行ったことの責任を考え続けていました。
ここで正直にお話しておきたいことがあります。
私に私の落ち度がありましたように,永井さんには永井さんご自身の落ち度やあのブログの問題点があると私は思っています。
あそこでコメントをされた方々,それぞれに,「正しく見る」,「正しく考える」,「正しく語る」という点で,それぞれの問題がありました。
8
私は,そのような状況であったことに気づいた時,私自身の最大の失敗に気づきました。
私は弁護士不信に傷つかれている方を思います。
私は,弁護士が法律相談で被害者の方々を傷つけることが多い現状に批判的です。
そのような現状の中で,弁護士委任を必要としている人たちが,その人にとって素敵な弁護士に出会えるようにと願っておりました。
法テラスの情報発信や,三人の弁護人から選ぶとか,依頼者と弁護士についていろいろな記事を書いてきました。
私の願い。
それがその方にとって必要なときに,その方が素敵だと思える弁護士に出会ってほしいであってほしいという願い
9
私のブログでのコメント欄の騒動が続いているころ,私は,あるお方のコメントから,私の最大の失敗に気づきました。
弁護士不信を持ち,しかし,それでもなお弁護士委任を必要としている方々こそ,私の願いが向かわねばならいのに。
そのような方に対してこそ,私は弁護士不信を軽くするように最大限の配慮をしなければならなかったのに。
私の最大の失敗は,弁護士不信をもたれている方,そうでない方を含め,私の連投コメントにより,多くの方々を弁護士不信を喧伝するグループの方へと「もっていかれてしまった」ことでした。
私は,私のうかつすぎる失敗により,私の願いを自ら傷つけてしまったのでした。
10
医療に喩えましょう。
医療にもいろいろな問題があるのでしょう。批判されるべきでしょう。批判により問題点を少なくしていくべきでしょう。批判される必要があるのです。
しかし,批判が医療不信を増大させていき,健康のために医療が必要な方が受診をためらうようになったとしたら,医療不信の害は大きいのです。
医療にいろいろな問題が仮にあるなら,私たちは,まず,それを冷静に受けとめて,患者としてふるまうときは,自分の身体のことなので,必要な情報を集め,自分にあった医師を探し,時にセカンドオピニオンを求めるといった合理性を発揮しないといけないのです。
11
合理的に振る舞うこと,それは,私の考えでは,「精神」を強くもつことです。
私は,フラッシュバックが自分自身ではコントロール困難なメカニズムによって発生することを知識として知っております。
私が接してきた被害者のお話もお聞きしました。
コントロール困難な「心」に働きかける療法として,認知行動療法の有効性が言われています。
認知の枠組を変えていく作業とは,心の中で起こっていることを「精神の目」で見つめて,介入していくことなのではないのか?
私は認知行動療法の文献などは読んだことがありません。
心理素人です。
ですから,以上のことは,なんとなく,そう思うという程度の話です。
12
他方,私は,犯罪被害者支援の活動に関わるようになる約1年前に,フランクルと出会いました。
それ以来,フランクルの自由と責任の考え方に大きな影響を受けており,いまもなお,受け続けています。
フランクルのロゴセラピーが,基礎理論の相違を超えて行動療法に大きな影響を与えたということの私にとっての「意味」。
「世界は意味に満ちており,かつ,意味を超えている」
私は,偶然に,「大いなる意味」を感じることがあります。
私は,私自身の失敗に対する私なりの責任の取り方を,ある日,気づきました。
不思議です。
彼との関係は良好に見えたころ,「心」,「精神」についての彼と私の共同作業のようなコメントもあったころ。
そのころから,私は,論理の価値を広めていくことこそが,「心が傷ついた」と私に指摘した方々や,その他の沈黙する傷ついた方々への責任の取り方と意識し出しました。
歪んだ表現方法,モラルハラスメント的表現方法に対抗する具体的方法をもたないまま,彼とのいつ果てるともしれない議論の中で,「価値ある議論」,「別目的のためにする議論」,「表現の誠実さに関する諸原則・価値ある議論のための諸原則」といったものを言葉にして発見していきました。
そして,論理を徹底することが,歪んだ表現に対抗するかなり有効な方法であることを,本日,発見しました。
私のPCの中には,彼が残した歪んだ表現方法,モラルハラスメント的表現のサンプルがあります。
私は,彼をいまさら叩くとかいった小さな目的ではなくて,表現における論理の重要性と印象操作にやられない技法を順番に記事にしていこうと思っています。
ゆっくりと時間をかけて。
13
かつて国民の戦争責任に関し,正確な表現は忘れましたが,「軍部に騙された,騙されたと言って簡単に済ませてしまったら,そんなに簡単に騙されたわれわれは,再び,だまされるだろう」と指摘し,その「騙されたわれわれ国民の側の責任」を徹底的に見つめる必要があると語った方がいました。
今の時代状況はどうでしょうか。
「正しく見る」,「正しく考える」,「正しく語る」・・・・・
仏陀に連なるとされるこの国の言論状況は,どこでもかしこでも,このたびの騒動とは比べものにならない規模で,「正しく語られない言葉」に満ちあふれて,社会全体が歪んだうねりをくねらせて,どこかへ行こうとしているように思います。
ネットの中の小さな社会の問題は,この大きな社会の縮図のようでもあり,そのような小さな社会がネットにもリアルにも,あちこちにあることが大きな社会の歪みをつくているようでもあり・・・・・
そんなことにも思いを馳せます。
14
表現に拘り続けるということは,人と人との関係性に拘り続けるということです。
そして,表現は,人と人とが集まるこの社会において,私たちが規範を形づくっていくことにもかかわります。
「人は人,私は私」,「受けとめ方は人それぞれにお任せして」という言葉は,なるほど,やさしく聞こえます。
なるほど,大人の態度に思えます。
しかし,そのような相対主義的姿勢が無批判に受容されていったら,果てしない価値相対主義まで行き着くのでないでしょうか。
そうなったとき,社会を形成する規範を,私たちはどうやって作っていくのでしょう。
「正しさ」はどこから生まれて,どのようにして確認され共有されていくのでしょう。
私たち誰もが,抽象的には共通の願いとする「良き社会」を,どのようにして共同体共有のイメージまで練り上げていけるのでしょうか。
「心」というやさしい言葉が多用されます。
優しく聞こえます。
しかし,フランクル流に言うならば,「心」に対抗していく「精神」の存在が厳しいものと避けられていき,批判的精神が消えていったなら,物事の「正しい」,「正しくない」を論理で判断する素地も失われていくのではないでしょうか。
私は,もともと,好悪の感情で物事を「判断」したり,敵味方感覚で,どちらが正しいかを「判断」したりというように,間違った「精神」の使い方をしないようにしてきました。
私が今後も,表現に拘り続けることについて「粘着」と言う方々には,こうお伝えします。
私自身の判断で表現に「粘着」し続けます。私はそういう「粘着」を「志向」しましょう。
私を「粘着」と言って言葉を軽んじるあなたにこそ,こんな私のメッセージが「偏向」して届いてほしいと願うのでした。
ようやく寝不足の毎日から解放されます(笑)。
追記 7/21 9:30
読者の方の指摘より,ケアレスミスを修正しました。ご指摘ありがとうございました。
ランキング参加してます。よろしければ,ポチっと協力をお願いします。
にほんブログ村
にほんブログ村
恋愛・結婚(離婚) ブログランキングへ