・定色というのは制服のデザインでその所属を明らかにするために各々定められた色のことを言います。例えば日本陸軍では襟元に、今の陸上自衛隊ではそのスカーフに兵科ごとに定色が決められています。歩兵ならば赤、砲兵ならばオレンジ、工兵なら鳶色、憲兵は黒。と言う風にです。
・そして19世紀初頭以前、大砲の威力がいまだにそんな圧倒的でもなく(圧倒的になりつつはあったのですが)、軍服というのが兵士の姿を見えづらくさせるための物では無く、そのカラフルさで敵を威圧するための物であった時代。定色という概念は最高峰に達しました。画像は陸上自衛隊の定色の一例です。奥の兵隊達の首に巻かれているスカーフの色が統一されてますよね。これが兵科ごとの定色です。
自衛隊の定色

・それ以前に於いて中世ヨーロッパのいわゆる騎士達の時代が過ぎ去り、百年戦争や薔薇戦争における重装兵による戦争、いわゆる全身を甲冑に包んだ兵士による戦争が行なわれた時代。この時代にも軍服のカラフルさで敵を威圧する。そして味方に対してはカラフルさで自身の存在をアピールする。と言う概念は存在しましたし、その役割を果たしたのは兜の上に飾られた前立、身に着けた盾、そして鎧の上から羽織る陣羽織。こう言った部分に描かれた各々の家紋でした。そう言った点では日本の戦国時代とよく似ています。画像はテンプル騎士団の陣羽織です。黒地に白の十字架というのがテンプル騎士団のマークなんですね。これを鎧の上から羽織るわけです。
サーコート

・その後、銃器が発展すると鎧の重装化は限界に達し、かえって身を軽くして、素早く動き回れるようにする方向へと軍装は変更していきます。そうなると戦場にはより通常の服装に似たスタイルで出て行くこととなり、その身軽さで動作を簡単にすることの方が戦場に於いて重視されるようになっていきます。となるとより個人個人を目立たせるための奇抜なデザインが可能と成りました。この時代の典型的な軍装には今と通じる物があります。それはわざと服をずたずたにして下に着た服の色を見えるようにする。と言う物で。これには俺はこんなにも勇敢に戦ってきたんだぜとアピールすると同時に、ほれほれ俺はこんなに傷付いているんだぜと見せることで敵を油断させるという意味合いがありました。又、帽子を大きくハデにしていくのもこの時代の傾向でした。画像は三〇年戦争初期まで戦場の主役だったドイツ傭兵達です。服をわざと切ったり、膨らませたり、帽子をハデにしたりしているわけです。
ランツクネヒト

・こうして個人個人の存在を大きくアピールする必要性が頂点に達したのは傭兵自身が国家の君主となる程までに全盛を極めたイタリア・ルネッサンス時代を経て、ヴァレンシュタインやティリー伯のような前代未聞の大傭兵隊長が活躍した三〇年戦争の時代でした。と同時にこの頃、近代における定色の概念へと道を開く。即ち個人の武功を目立たせるためではなく、部隊の見分けを付けるための定色。と言う概念へと進むための重大な転機が訪れます。
・それはそれまでの個人の武勇に頼って来た戦争から、ローマ末期の時代、ヨーロッパ中世の幕が開いて組織的な戦闘というのが廃れて久しかったヨーロッパにスイス戦闘団方式を端緒としてある種の隊形を構成して部隊としての戦功を上げる。と言う概念の重大さが再認識されるようになっていったことでした。この事を象徴する物に三〇年戦争で多くの傭兵隊長が愛用したテルシオと呼ばれる陣形が存在します。画像はテルシオを描いた当時の細密画です。中央に槍を持った人達が集まり、その周囲を銃を取った歩兵が固めています。兵士達の服のカラフルさも判ると思います。
テルシオ

・更に三〇年戦争初期と時を同じくして発生したオランダ独立戦争に置いて、近代軍隊にとって不可欠の存在となる概念が誕生しました。それは国土をいくつかの管区に分けて、各々の管区で徴兵(と言っても当時は志願兵を金で吊るという物で、いわゆる徴兵制度のイメージとは多少異なります)を行なって「俺たち、同じ土地の出身だよねー」という連帯感を持って部隊としての統一性を高める。と言う国民軍の誕生と、それを支える連隊と言う制度の誕生でした。そんな近代軍隊の端緒を開いた軍制や隊形について、俗にマウリッツスタイルと呼びますが、これはオランダ独立戦争の指導者だったマウリッツの名にちなんだ物です。
・このマウリッツスタイルを更に押し進めた制度に基づく軍隊を率いて活躍したのが三〇年戦争に参加し、短期間の間に北方の小国をバルト海沿岸を抑える一大大国に育て上げた英雄グスタフ・アドルフでした。より正確にはグスタフ・アドルフは父が創案した貧しい小国だからこそ可能だった国民軍の創設。と言う遺産をより大規模に組織化したに過ぎなかったのですが。この時、連隊ごとに制服の色を統一するという定色の概念が初めて誕生したと言っても良いでしょう。故にこの時、存在した連隊ごとに軍服の色を統一した部隊。彼等のことをその軍服の色に従って黄色連隊、赤色連隊、青色連隊、黒色連隊と呼びます。画像は赤色連隊の兵士達です。制服が赤に統一されていて、後は装備が違うだけな訳ですね。
赤色連隊
・時は更に進んで三〇年戦争末期、三銃士の悪役でおなじみのリシュリュー枢機卿の指導下、大陸軍国としての地位を益々揺るがない物としていたフランスでは遂に軍服の基本的な色をナショナルカラー、即ち国旗の色に統一して、その上で各部隊の見分けを付けるため、連隊ごとの印を付与するというますます近代的な意味での定色が登場することになります。ちなみにこの当時のフランスのナショナルカラーは白で、これはブルボン朝フランス王軍を通じて使われ続けました。画像は三〇年戦争時代以後、ナポレオン戦争時代まで世界最強を誇ったフランス騎兵達です。部隊ごとに何となく制服が同じなのが判りますかね。
フランス軍の騎兵
・さてここまでが実は前振りです。私は今度、と言うか以前から18世紀中盤。プロイセンと神聖ローマ帝国、今のオーストリアとが軸となってドイツ文化圏の支配権を巡って争っていた時代を出発点にして、歴史を改編して七百万年後を舞台にした作品を書こうと思っていたのですが、当然、当時は定色というシステムがある種の最高潮に達していた時代でした。まず国軍全体で共通の定色があり、兵科(歩兵や砲兵とか)ごとに定色があり、更に部隊単位で定色が決まっているという具合でした。画像は18世紀中期の神聖ローマ帝国軍教皇騎兵達です。三人ともジャケットは白、左の人物は袖とズボン、裾の折り返しが黒、シャツが白、肩のストラップは白。真ん中の人と左の人は袖、裾の折り返しは赤、シャツとズボンがわら色というのは共通だけど真ん中の人物は肩のストラップが赤で、シャツの縁に赤のライン。右の人物は肩のストラップが白。と言う風に部隊によって少しずつ違うわけです。これがいわゆる定色というやつなんです。
神聖ローマ帝国騎兵
・そんな色取り取り、文字通りに戦場がカラフルだった時代背景を前提としている以上、イメージを広げるために部隊ごとの定色を見てイメージできるような資料を作りたいな。とは思っていたのです。所が私は殺人的にて塗りで色を塗るのがへたくそなので、なんとか一から十までペイントを使って資料を作れないのか。と思っていたんですねー。
・そうして思いついたのが今回、作った資料な訳です。これは以前、某書の挿図で見た例の18世紀中盤の神聖ローマ帝国軍の軍服に用いられていた定色を判りやすく図示した物で、これは使える。と思ってそのスタイルを借りて自分なりにちまちまと作ってみた物です。
定色図
・ええと、具体的に触れていきます。左上の物は人民自由評議会のナショナル・カラーの濃い青のジャケット、前襟と袖の赤い縁取りは甲板兵(いわゆる水兵)、砲兵、輜重兵(補給を担当する兵隊)に共通、ボタンは金、襟と前襟、裾の折り返しは赤、ズボンは白、黒の布ゲートル。その右隣は襟と前襟は黄色、裾の折り返しは濃い青、わら色のシャツ、ボタンは金。と言った調子です。
・これだけでも十分マニアックで濃い世界ですが、更にこれに加えてマニアックな作品世界を構築するため、あと二つほど作業を並行して進めています。
・函館で撮ってきた函館市電の写真です。東京都内でも路電が走っていた道は電車道と言いますし、函館では普通に電車道、バス道と言った言い方をしていましたし。
・最初の写真は丸一〇〇才の長寿電車です。最初は成田市電で使われていましたが函館へと移って、一時は除雪車としても使われていたそうですが、丸一世紀の間、現役でいるそうです。おじいさんと言った所でしょうか。機械も生きているのだと言うことを感じさせます。直人日記-函館市電一〇〇年前の車両
・二枚目の写真は路電と言えばこのスタイル、と言っても過言では無い一つ目電車です。たぶん電車内でスメル(臭い、オイル臭のことです)がしたのはたぶんこの車両でしょう。あの機械臭、苦手な人もいるそうですが私は結構好きです、後、動物のにおいとかも好きですけど。
直人日記-函館市電一つ目電車
・続いての写真は新しい形をした電車です。因みに函館市電の電車は一台一台スポンサーの広告を付けていて、スポンサー名を例えば「マルサン号」とか言った風に名前が付いています。これは曾て帝国陸海軍に献金された予算で作られた兵器には例えば「金沢号」とか「三菱号」とかと言った風に名前が付けられたのと同じことでしょうか。

直人日記-函館市電新型
・こちらはあの一〇〇年間行き続けている電車の車内です。こちらは昔の車掌さんのスタイルをした車掌が乗ってくれています。こんな風にして人が乗ってくる度に車掌さんが切符を切ってくれます。因みに火曜日、水曜日は整備の為、運休ですが他の日は総て一日に数往復、運転しています。$直人日記-函館市電一〇〇年前の車両内部
・最後はビューゲルの写真。イヤー、やはり路電と言えばビューゲルでしょう、外せませんよね。英語では弓形集電機と言います。こちらの方が判りやすいですが。
$直人日記-ビューゲル
・この他にも色々写真あります、又乗せていきたいと思います。

・日本は世界最古の土器文化を誇るってことは意外に知られていません。日本史ではちゃんと縄文文化は一万二千年前にさかのぼる。と習うのに世界史では色んな文化習うけど全部が全部、縄文文化よりも新しい。てことは習わないんですよね。不思議なことに。たぶん、世界史教育の基礎を作るときに欧米から始点で作ったからなんでしょう。ちなみにこの年代は全部、炭素放射能測定法を始め斉一説に起因していて、自分は斉一説には否定的なんですけどね。けど文化が環太平洋地方から広がったってことは本当だと思っています。

・日本に先史文明があって世界の中央と言っても良いほどであった。という文献や遺跡は掃いて捨てるほど、たくさんあるんです。例えば重力異常の確認されていて、らくだのこぶ状に陥没した謎の山・皆上山。或いは階段ピラミッド状の構造で全山が形成されている事が確認されている黒又山など。更には青森、秋田、岩手三県の県境近くにある濃霧立ち込める入らずの森とその地下にある洞窟。ヒイロカネと呼ばれる謎の合金など。いろいろありますがひとまずここでは広島県下にある二つの巨石文明の遺跡群を紹介します。

・まず第一に紹介するのは葦嶽山です。ここはエジプトのピラミッドなどを訪問して研究を重ねた結果、日本にもピラミッドと同じものがある。と発表した酒井勝軍。彼が最初に本格的な調査を行った山です。広島県の庄原市にある山ですばらしく美しい三角形の山容を見せています。下に上げたのが葦嶽山の写真です。


直人日記-葦嶽山

・葦嶽山自身の頂上には戦前、四角錐の巨石がピラミッドの様に置かれていました。ただし超古代文明の存在は神武天皇以前の天皇の存在を認めていた為、戦前の軍部によって否定され、四角錐の石自身も谷底へ捨てられ、砕かれてしまったので現存していません。残念。もっと柔軟に考えて天皇制が世界最古の王政の血統を引いていると主張すればよかったのに。又、葦嶽山にはテラス状に組まれた石造りの構造物が存在します。


直人日記-葦嶽山の遺構
・これは葦嶽山の側にあって葦嶽山に付属する神殿施設と推察される鬼叫山(ききょうさん)にあるオベリスク状の巨石遺構です。かつてはこれが数本、立ち並び壁面には古代文字が刻まれていたそうです。ただし今ではかすれて判読できませんが。又、二個の石の上にテーブルのように平たい石を載せた巨大な供物台が存在します。又、その他にも百トンを超える巨大な一枚岩・鏡岩。更には葦嶽山における冬至と夏至の日の出と日の入りの方角を示す交差した割れ目で四分された方位石などの遺跡が存在します。

・もう一つ広島県の廿日市市の「のうが高原」には日本でも最大級の石組みが立ち並ぶ遺跡群があります。つぶれたホテル跡などがあり、今では廃墟マニアの間で有名なのですが、ここには元々巨石遺跡がたくさんあり、ホテルの露天風呂自体が巨石を積み上げた遺構を利用したものだったのです。巨石を縦に積み上げたえぼし岩なども存在します。その他、たくさんの石積みが存在しその規模においては日本最大規模といわれています。下に上げたのはのうが高原にある石組みで山林の中に高々と聳え立っているのがわかると思います。


直人日記-のうが高原の石組み

・さてなぜピラミッドが作られたか。という話ですが酒井勝軍はピラミッドは山岳信仰の表れで、その為の宗教施設だと唱えています。ちなみにエジプト、ラテンアメリカ、ポリネシアなどのピラミッドは巨大な山が無いので山岳信仰の本尊としてピラミッドを築いたのだと主張していました。ただ自分的にはピラミッドは地球から噴出する或いは宇宙からも降り注ぐエネルギー。これを集約して管理するための施設。先史文明でのインフラ設備ではないかと推察しています。今後、このピラミッドが実はインフラ施設だった説。に関する話も紹介していきたいと思います。

 これから上げる写真は如何にも生々しい。従来、恐竜と言えば六億五千万年前に滅び、ゆっくり時間を掛けて化石化した。と思われがちです。又、逆に数億年の時間を経ているのですから、もし恐竜が数億年前にしか生存していなかった。のだと言うのであれば恐竜が生の状態でいたり、恐竜の生体組織がそのまま保存されているなどと言う事はまずあり得ない。と考えるのが自然ではないでしょうか。実際、化石化と言うのがそんなに長い時間が係る物なのかどうか。と言うのは実に不自然な物。一瞬の間が固まったもの。としか思えない様な化石。それが色々と発見されている物です。例えば雨の跡や、さざ波の跡、そして足跡など。そんな物が長い期間をかけて石化するなんて、実にナンセンスではないでしょうか。

 まあその辺の事は。恐竜の生存年代がいつなのか。なのだと言う事はまあ、一々、別に論じる事もありましょうからここではあえて深く触れません。そこでこの場には生体組織がそのままに残っている。そんな変わり種写真をまとめて紹介します。

 下に示す写真は1982年、北西アフリカのニジェールの砂漠地帯で発見された恐竜の骨格です。ウーラノサウルス・ニゲリエンシスと命名されたこの骨格は明らかに石化していない生の骨だったのです。絶対視されている放射能測定法では70000年から10000年前の物とされていますが、同じ地域で発見された人類その他の骨の石化具合から20000年前の物、以降である事は確実とされています。ちなみに頭の固い古生物学者は一様に新種の哺乳類だ。と言っていますがこの骨を見る限りは明らかに恐竜の物でしょう。
直人日記-恐竜の骨格
 アメリカで発見されたカモノハシ恐竜ブラキロフォサウルスです。一般にミイラ化石と言うのですが、見た目、明らかに化石でなくてミイラ以上の代物。まるで冷凍された鶏肉のような質感ですね。
直人日記-恐竜のミイラ
 上のミイラの細胞です。こんな風に核まで見え、はっきりとした細胞の形を保っているのです。どう考えても普通に生きている組織です。
直人日記-恐竜の細胞組織
 上のミイラの骨髄組織の血管です。血管の中の赤い物質もはっきりと残っています。
直人日記-恐竜の血管
 これは上の血管組織とともに残っている赤血球です。うっすら見える赤いしみが赤血球の痕跡です。
直人日記-恐竜の赤血球
 これもまた、同じく上のミイラから検出されたコラーゲンの繊維です。実は化石化したのであればこのようなコラーゲン線維が残っているはずはないのです。
直人日記-恐竜のコラーゲン
 ティラノザウルスの足の化石。これを落とした途端、折れてしまった部分です。化石の断面、やや左上寄りにオレンジ色の点が骨髄の部分です。この赤い点を見て、調べた所これが明らかに生きた骨髄組織であることが判明したのです。
直人日記-恐竜の骨断面
 骨髄組織の拡大写真です。白い部分は生きている組織の断片です。
直人日記-恐竜の組織断面
 明らかに生な色。血そのままの真っ赤な組織の色彩がよくわかると思います。要は鳥の骨髄と変わりありませんね。
直人日記-恐竜の骨髄繊維断面
 真っ赤な断片を一部引きちぎったところ、柔軟性のある繊維が明らかに見えているでしょう。これから見てティラノザウルスの骨格が石化していないことはあきらかでしょう。
直人日記-恐竜の骨髄組織の剥離部分
  これは石化した部分のみが溶ける薬品に漬けた所、溶け残った部分です。枝分かれした血管の構造が明らかです。
直人日記-恐竜の組織片の赤血球
 これは同じく溶け残った部分の内、明らかに見える赤い粒粒。赤血球です。
直人日記-恐竜の組織片の血管構造

 日本の戦艦の写真はたくさんありますが、大体が戦闘航行以外のもの。停泊中だったり、試験中だったり。しかしやはり軍艦たちが戦闘航行に望んでいる時。そんな姿を捉えた写真たちの中で日本の戦艦たちは激しい輝きを放っています。実際の写真を見ると、彼女たちの姿は黒い陰でしかありませんが、そこには鋼鉄の塊が乗員と一体になった瞬間の。まさしくただの鋼鉄の塊が生命体となった瞬間が映し出されている。だからこそこれだけの迫力を秘めているのだと思います。

 さて今日は日本戦艦部隊が先の大戦中。唯一、敵水上艦隊と交戦する機会を得た一戦。サマール島沖海戦に於ける日本戦艦群の写真を紹介します。この一瞬。海戦以来、三年間。こんなシチュエーションを待ちわびていた日本の戦艦たち。彼女たちが獲物を目の前にして一瞬。本当に一瞬だけでしたが綱を解き放たれて、主砲を打ちはなった。そんな一瞬を捉えた写真。血沸き肉躍る一瞬を捉えた写真、紹介します。

 海上に浮かんだ戦艦の内、文字通り最大最強の戦艦。日本が誇る切り札。軍艦大和が前部主砲を振りかざし、突進している写真です。へさきに砕ける波頭がすごい迫力です。七万トンの巨体が波を踏み砕く一瞬が捉えられています。
直人日記-戦艦大和1
 こちらも又、全速力で主砲を振り上げた軍艦大和。この時の大和の姿を同じく日本海軍の軍艦鈴谷乗り組みの下士官。彼の回想録に大和の勇姿を感動を持って描いた一文があるので、ここで紹介します。「46センチ砲の発砲による黒煙が、大和をおおい隠した。艦首のかき分ける波がしぶきとなって艦体を包んでいるが、その勇壮な姿はさながら一枚の絵を見るようであった」
直人日記-戦艦大和2
 こちらは実に完成から三十年近くが過ぎた老婦人。でありながら日本戦艦中最速の戦艦として活躍し続けた金剛型戦艦の一隻。榛名の姿です。右へ舵を切りながら突進する姿がいかにもスピード感あります。ところがこの段階では春名は四本のプロペラの内、一本が故障してしまっていて速力は大和たち。一般の戦艦と同じ程度に低下してしまっていました。それでも数万トンの鋼鉄が海を割って進むシーンは感動です。ちなみに金剛型は完成当時、世界最速、かつ最強の戦艦として完成しました。
直人日記-戦艦長門
 こちらは完成から二十年間。双子の妹・陸奥とともに代わり番こで海軍の総旗艦を勤めていた長門です。しかも前部主砲を発砲した直後。なので砲煙が上がっているシーンです。
直人日記-戦艦榛名

・ブルーリッジ。この艦は横須賀米軍ベースの顔と言っても良い船。だと思います。本艦はその膨大な情報処理能力を生かして第七艦隊の旗艦を勤めています。第七艦隊が演習や戦闘行動に出ていない限り、いつも横須賀軍港に碇を下ろしています。

・元々本艦は大戦中に使われていた商戦改造の揚陸指揮艦の後継として二隻が建造された一番艦です。艦自体は第一世代のヘリコプター搭載型揚陸艦イオージマ級をベースにしています。戦闘艦では無い為、推進能力は限定的。ただ電波障害をぎりぎりまで絞り切る為、障害物の無い空母型の艦形を持つ。

・本艦は早半世紀近く就役しています。艦番号を見る限り、ブルーリッジは19番目の揚陸指揮艦と言う事になります。今年度予算でブルーリッジの後継になる統合指揮管制艦が計画中です。

・横須賀出港中のブルーリッジ。空母の様な甲板がよくわかると思います。アメリカ第7艦隊はアメリカの諸艦隊中、最大の管轄区域を持つ艦隊であり、日付変更線以西の太平洋とインド洋東半、シベリア沖の北極海までに達しています。その為にこのようなもはや老婦人と言ってもいいような艦がその情報処理能力ゆえに使われ続けているわけです。

直人日記-ブルーリッジ1
・静岡県清水沖を航行中のブルーリッジ。背景に大きく富士山が写っています。甲板上に林立するレーダードーム群がよくわかると思います。甲板上にはヘリがいますが格納庫はありません。もともとは大砲や自衛用の防空ミサイルを装備していましたが、今では自動制御の機関砲と何でも屋の機銃のみを装備しています。艦のお尻の所にあるのがレーダードームを持つ自動制御の機関砲です。
直人日記-ブルーリッジ2
・第六艦隊旗艦にしてブルーリッジの妹であるマウント・ホイットニー。艦のへさきに上掲の自動制御の機関砲。艦前方のちょっと大きめのドームと、その後方の四角い建物。その直後、向こう側に小さく見えている白い物が人が扱う機銃です。艦の後端にはヘリポートが書かれてるのが見えますよね。ちなみに第六艦隊の管轄地域も第7艦隊同様、広大です。第6艦隊の母港はイタリア半島にあり、その管轄区域は大西洋の西半分、グリーンランド西岸からヨーロッパ付近、シベリアを除くロシア沿岸の北極海、ペルシャ湾近くの一部を除くインド洋西半部にまで達します。ちなみに湾岸戦争以後、中近東でアメリカ軍が軍事行動とるようになってからペルシャ湾付近のインド洋最奥部を担当する第五艦隊が新設されるまでインド洋西半部はすべて第6艦隊の管轄区域でした。
直人日記-マウント・ホイットニー

・第5艦隊は実は常設ではない艦隊で、先の大戦中はタラワ環礁が第5艦隊、クエゼリンが第3艦隊、マリアナが第5艦隊、フィリピンが第3艦隊、硫黄島が第5艦隊。と第3艦隊だった部隊が変わり番こに第5艦隊も名乗っていたのです。第5艦隊の司令長官はレイモンド・スプールアンス、第3艦隊の司令長官はウィリアム・ハルゼーでした。ちなみに沖縄戦は順番道理なら第3艦隊&ハルゼーのはずですが第5艦隊&スプールアンスのままでしたこれは確か沖縄戦は陸軍主導なので陸軍嫌いのハルゼーが嫌がったという話も。

 ヴァレンシュタイン。この人物の名は彼がどんな人かは知らなくても、どこかで聞いたことのある様な名前ではないでしょうか。彼は十五万人の傭兵を束ねる偉大な傭兵隊長であり、作曲家シラーの残したオペラ「ヴァレンシュタイン」にも名を残した文字通り波乱万丈の生涯を生きた一代の英雄です。

 ヴァレンシュタインはボヘミア(現在のチェコ共和国のほぼ全域)の伯爵家に生まれました。だが当時の多くの貴族同様、形骸化した封建制度よりも、更に実質的な富の望める傭兵家業に身をやつすことにこそ魅力を感じる。構成、「やまし」と同義語になるボヘミアンの名にふさわしいハングリーな人物でした。

 ヴァレンシュタインが活躍したのは最初、辺境の地でのプロテスタント活動を弾圧しようとした宗教戦争に端を発し、結局は政治的問題からカソリック同士の争いへと様相を変えていく。そんな三十年戦争の時代でした。三十年戦争は古臭いカソリックのやり方に反発して、自分たちの手でよりやわらかい教義を作り出そう。と言うプロテスタントとの地方諸侯。これとカソリックの権威を背景に権力を振るおうと言う神聖ローマ帝国との抗争でした。

 プロテスタント派のボヘミア貴族たちは神聖ローマ帝国に反逆するべく自分たちでボヘミア王を立ててしまい、神聖ローマ帝国との戦争に突入します。この時、プロテスタント派で主力を率いたマンスフェルト。彼は生粋のカソリックでした。信仰などは傭兵として雇ってくれるオーナーの立場とは何にも関係が無かったのです。彼は典型的な流れ者の傭兵隊長でたくさんの略奪行為で悪名を残した人物です。

 やがてマンスフェルトとプロテスタント派との契約が切れ、カソリック派が優勢となっていきます。ボヘミアの反乱軍は敗退し、次に神聖ローマの敵となったのはプロテスタントの国・デンマークでした。デンマークではマンスフェルトを雇い、カソリック派と戦います。がこの時カソリック派の名将として名をはせたのが後世、ヴァレンシュタインの競争相手となるティリー伯です。

 ティリー伯はデンマーク軍を叩きのめし、マンスフェルトを敗死させます。ティリー伯は更にプロテスタント派を叩きのめそうとオーナーたちに進言しますが、「金がない」と言う理由で断られてしまいます。傭兵隊長としてこう言われるとどうしようもありません。そんな時に現れたのが十五万の傭兵をかき集めたヴァレンシュタインでした。

 ヴァレンシュタインが特に優れた私兵部隊を抱える事ができたのはボヘミアの金融組合やオランダの銀行から投資を受けていたからでした。彼はカソリック派の親玉。神聖ローマ帝国から徴税権。すなわち、好きなように税を徴収できる権限を得ていたので、いわば無尽蔵な金庫を抱えているような物でした。各地の銀行家もそんな彼に投資すれば、分け前に預かれるのでは。渡航考えていたわけです。いわば巨大な株式会社みたいなものです。

 巨大で且つ、安定した給金を受け取れる為に規律正しかったヴァレンシュタイン軍。同軍はデンマーク軍に対して連戦連勝。大活躍します。所が帝国が与えた徴税権。これは帝国に属する君主達の間では余りに評判が悪すぎました。何しろヴァレンシュタインは各君主の財布にずけずけと手を突っ込んで収入を横取り出来るような物だったからです。余りに各君主の批判が強まりすぎたので、皇帝はとうとうヴァレンシュタインを罷免してしまいます。

 しかしこんなこともカソリック派が優勢だったからこそできた話でした。デンマーク軍の後に現れた同じくプロテスタント派のスウェーデン軍。同軍はカソリック国であるはずのフランス。隣国神聖ローマの発展を快く思わなかったフランスによって資金援助を受けたスウェーデン軍がドイツに上陸すると、戦況は一気にカソリック不利に転じました。何しろスウェーデン王は「北方の獅子王」と謳われる戦争の天才グスタフ・アドルフだったのです。

 ヴァレンシュタインに変わって神聖ローマ帝国軍最高司令官となったティリー伯。彼は三十年戦争最大の戦闘ブライセンフェルトにて惨敗。レッヒにおいてはついに勝利を逃すのみならず、自身の命をも落としてしまいます。かくしてティリー伯は退場し、神聖ローマはあの偉大なる傭兵隊長。ヴァレンシュタインに再び総指揮権を預けざるを得なくなってしまったのです。

 ヴァレンシュタインはリュッツェンでグスタフ・アドルフをついに戦死させました。この最強の敵の死の後、もともとハングリー精神にあふれていたヴァレンシュタインは次の目標。一国の国王として遇される事を望むようになります。今回の総指揮権貸与に当たって、ヴァレンシュタインは和平に関する全権をも与えられていました。だからこそヴァレンシュタインはスウェーデンの後方で糸を引くフランス。同国との和平交渉の中、ボヘミア王としての自分を認めてくれるようにと申し出ていたのです。

 所がフランスがこの条件をけったために和平はおじゃんに。そしてヴァレンシュタインは神聖ローマに対する裏切り者として暗殺されてしまいます。一代の英傑。傭兵王としての地位に後一歩にまで近づいていた一代の天才はかくして聖を終えることとなってしまったのでした。

 さてここにあげた写真はこの五月、オーストリアの首都ウィーンに行った際、ウィーン軍事史博物館内、ホールに当たるフェルトマルシャルの間に置かれていたヴァレンシュタインとティリー伯の像です。ちなみにフェルトマルシャルとは中将に相当しますが、実際には実働部隊の最高指揮官と言っても過言ではないでしょう。前者がヴァレンシュタイン。後者がティリー伯です。ティリー伯の写真、ぶれてしまっていますが他意はありません。ちなみに神聖ローマ帝国の解体された後、事実上、神聖ローマ帝国の後継国家がオーストリアです。
直人日記-ヴァレンシュタイン

直人日記-ティリー伯
 実はこの二人の像、柱の右と左にひじつき合わせて立っているんです。おそらくは敵視しあっていたであろう(なにしろ総指揮権を持っていれば収入もすごかったはずなので)二人のツーショットが取れるとは。結構、感動でした。正面がティリー伯、柱の向こうに見える横顔がヴァレンシュタインです。
直人日記-ヴァレンシュタイン&ティリー伯

 聖書に正典として採用されている福音書は四つ。ただしこれは書かれた順に並んではいません。書かれた順に並べるとマルコ、マタイ、ルカ、そしてヨハネとなります。これらはすべてイエスの伝記としての意味を持っている訳ですが、お互いに編者が「イエスの一生はこう有るべき」と思う様に書かれているので、著しく互いに矛盾を来たしています。一概に言ってマルコが一番、人間的なイエスを描き、ヨハネに至ると神々し過ぎてもはや、人間らしさはかなり希薄になってしまっています。

 実はマルコにおいて最後の晩餐の折、イエスが「三日後に復活した後、私はガリラヤに帰る。そこであなた達と再会しよう」こう言った時、そこにはイスカリオテのユダもいたのである。すなわち、イスカリオテのユダもイエスの救いの対象に含まれていたのである。そんな事実を示す様に何枚かの古い聖画にはイエスの復活以後の場面に十二人目の使徒が。しかもルカによる福音書の続編、使徒行伝でイスカリオテのユダの代わりの使途が選出される記述がある。それ以前の場面にすでに十二人目の使途が書かれているのです。しかもその使徒は聖画でイスカリオテのユダが描かれる約束事に准じており、あるいはイスカリオテのユダの名前が明記されているのです。

 さてでは具体的に聖画を見ていきましょう。一枚目はまずマグダラのマリアによる伝言の場面です。これはイエス刑死の明後日の朝。安息日が明けた朝、イエスの墓に行ったマグダラのマリアがイエス、あるいは天使からイエスの復活と、イエスが先にガリラヤに行っている。と言う事を使徒達に伝えるように言われ、使徒達の元でその事を話している場面です。左端にマグダラのマリヤが立ち、その右に十二人の弟子達が描かれている。この十二人の使徒達の内、最左端の人物はシモン・ペテロです。彼の足元を良く見ると左足の下に台が置かれています。これはイエスが最後の晩餐の直前。使徒達の足を洗った時、ペテロが恐れ入って断ろうとした時。イエスが「私があなた達の僕である様に足を洗うのは、あなた方一人一人も他の者、みなの僕である様に慎み深くあって、この様にしなさいと言う為である」と言った「洗足」の逸話に因んだ物でペテロを見つける時の目印となる物です。さてこの聖画、1200年頃のコンデ美術館所蔵のインゲボルグ詩篇の挿絵から取った物です。イスカリオテのユダを描く際の約束事には浅黒い顔、黒い髪、黒い顎鬚、鷲鼻、裏切りを示す黄色い服、あるいは銀貨の入った袋。更に最後の晩餐など、机についている絵の中では皆と反対側に描かれる。等の特徴があります。ただこれらの特徴が形骸して行くのは後世の事なので、最初期の聖画ではこの限りではありません。この聖画の中ではマグダラのマリアに対して顔を背けている人物が二人(左から二人目、十一人目)、描かれていますがこの聖画の中にはイスカリオテのユダの特徴。黒髪で描かれた人物がいます。左から七番目の人物です。彼は黒い髪と黒いひげを生やし、うつむいています。その姿は実に深い改悛の念に打たれているように見えます。
直人日記-マリアの伝言
 こちらはガリラヤで始めてイエスが使徒全員の前に現れた時。「私は主のわき腹の傷に触れない限り、主の復活を信じないぞ」といい、イエスのわき腹に触れて、十字架上で槍に突かれた傷。これを確かめ、改めて信仰を深めた。そのシーンを描いた物です。左下にイエスとそのわき腹に触れるトマスが描かれています。そして残りの部分には十一人の使途が後光を背負って描かれています。実はこの写真では良く判りませんがおのおのの後光にはそれぞれの名前が描かれているのです。そして最上段、左から二番目の人物の後光にはなんと「聖ユダ」と名前が記されているのです。「聖」が付いていると言う事は彼は成人だと言う事を示しているのです。残りの使徒十一人にはその殉教の様子と、殉教した日が伝わっています。と言う事はかつてイスカリオテのユダにも殉教、或いは天に召された日とその様子を伝える伝承があった。と言う事でしょうか。それは使徒の欠員が補充された使徒行伝で書かれた日以前の事なのでしょうか。となると彼は聖ステファノ(刑死以前のイエスに使えて伝道に当たった人物。使徒行伝の中で彼の殉教について細かく書かれている。エルサレムの町の外に引きずり出され、石で撃ち殺された。一般にイエス刑死後、最初に殉教した聖人とされる)を抜いて、キリスト刑死以後、最も早く殉教した、或いは天に召された聖人と言う事になるのですが。或いはマルコによる福音書以後に書かれたルカによる福音書とその続編・使徒行伝に書かれた様な十二使徒の欠員がなかった。とすれば全然、正統な教会には伝わっていないまったく違う内容のイスカリオテのユダの物語が存在するのかもしれません。
直人日記-トマスの不信
 マルコによる福音書の後に書かれたマタイの福音書ではユダは後悔して自殺、ルカによる福音書ではイエスを売った金で土地を買ったが、そこに落下して死ぬ。とだんだん酷い人間に描かれて行き、最後のヨハネの福音書では彼は一同の会計係であったが金を着服する泥棒であった。とよりおとしめて描かれています。そしてなんとこの絵をご覧ください。これは1181年に製作されたクロスターノイブルクの祭壇を構成する七宝焼きで描かれた最後の晩餐の絵です。この七宝焼きの中でユダは明らかにそれと判ります。イエスと七人の使途には後光が描かれている。と言うのに最後の晩餐が行われている円卓のこっち側に一人だけ描かれている人物。彼にだけは後光が書かれていないからです。イスカリオテのユダにだけ後光を描かなかったり、後光を黒く塗りつぶしてあるのはユダの聖性を否定する最も判り易い描写です。この絵はイエスが「私の手からパンを受け取る者こそ、裏切り者である」と宣言するシーンなのですが、何よりこの絵で特徴的なのはイスカリオテのユダが見るからにけちな泥棒猫として描かれている事です。身をかがめ、顔だけを上げた姿のなんと卑屈な事でしょう。机の下から獲物を狙う卑しいやせ猫の様ではあのませんか。そして何よりも彼が後ろ手に持っている魚が印象的です。この仕種は最後の晩餐の席上から魚を盗み取った描写であろうとされています。この聖画ではイスカリオテのユダはひたすら卑しい小悪党として描かれているわけです。
直人日記-盗賊としてのユダ

と言うわけで、今回は実は火星には地球同様、青い空、青い海がある。と言うことを示す画像を紹介します。実はつい近年、ヨーロッパが火星探査機を火星に送り込むまで、事実上、火星に関する情報はアメリカが独占してきました。そして彼らは光の三原色。赤と青と緑で取った画像を合わせてはじめて、まともな色調の画像を得られる。と言うのに実は今までアメリカが公表してきた写真はすべて赤い光で撮影した映像ばかりだったのです。そして彼らは火星といえば赤茶けた空に赤茶けた大地。赤く荒涼とした星。と言うイメージを植えつけてきたわけです。ところがヨーロッパの火星進出によって、真実が明かされる。と言うこの団塊に至ってやっと近年、それまで存在を認めてこなかった青や緑の映像も公開。そしてアマチュアの技術をもってしてもたやすく総天然色の火星の映像を手に入れる事ができるようになってきたわけです。そうして得られた火星はなんとも美しい。青く澄んだ空、群青の海面。まるで地球と変わらない。いや、より幻想的な景色を我々に見せてくれていたのでした。と言うわけで今回は火星の美しい景色を、従来公表されてきた赤い光だけの画像とあわせて紹介します。

 上段が赤一色の火星。結構有名な火星の写真です。これが三色の光による画像。これをすべてきちんと合成すると。
直人日記-火星の丘陵赤

 こんな美しい青空が広がっているのです。右の写真は左の写真に続くものです。こんな美しいブルーの空は地球でも早々見られないでしょう。

直人日記-火星の丘陵  直人日記-火星の丘陵続

 左が赤い光のみの写真、右は三色合成した写真です。藻類がはびこっているような青緑色に染まっている地表にはいかにも生命が住んでいそうな色合いです。
直人日記-火星の丘陵甲赤  直人日記-火星の丘陵甲

 左が赤い光のみで撮影されたもの。火星探査船オポチュニティのカプセルが四百メートル先に着表しているのですが、三色を合成した画像では、沖合いに着水してるようにしか見えません。
直人日記-火星の海赤  直人日記-火星の海
 ヨーロッパの火星探査船マーズ・エクスプレスが撮影したカラー写真です。森林地帯を思わせる緑色から茶色へのグラデーションが鮮やかです。
直人日記-火星の渓谷
 月面が実は鮮やかな茶色であることを示す写真です。これを見る限りは地球の地表と同じ、生命が住んでいても不思議ではないような色合いですね。
直人日記-月の茶色い地表